天城越え

天城山隧道

1905年(明治38年)に完成。全長445.5メートル。アーチや側面などすべて切り石で建造された日本初の石造道路トンネルであり、日本に現存する最長の石造道路トンネルでもある。総工費10万3016円。新天城トンネルと区別するため、「旧天城トンネル」とも呼ばれる。

1916年(大正5年)には、バス運行が開始されて人・物の交流が盛んになった。

当隧道は日本の道100選に選ばれているほか、1998年(平成10年)9月2日に国の登録有形文化財に「旧天城隧道」として登録された。2001年(平成13年)6月15日には「天城山隧道」の名称で道路トンネルとしては初めて国の重要文化財(建造物)に指定された。なお、当該指定にともない登録有形文化財としての登録は抹消されている。この時期に観光スポットとしての整備により従来舗装されていたアプローチ部分の舗装が剥がされた。1970年(昭和45年)、当隧道の西側に新天城トンネルが開通したことにより、同トンネル経由の道が本線となった。

伊豆市側坑口付近には駐車場や公衆トイレが設備されている。トンネル内の照明は通常のパネル型ではなく、ガス灯を模したデザインのナトリウムランプである。幅員は3.50メートル、側溝まで含めると4.10メートル。

新天城トンネル

天城山隧道の西側に並行して掘られた国道414号のトンネル。主要地方道13号修善寺下田線時代の1970年に竣工、延長800 m。当初は天城トンネル有料道路として有料であったが、2000年3月18日より無料開放となった。

フランス ボルドー(Bordeaux)

ボルドー(Bordeaux)は、フランス南西部の中心的な都市。ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏の首府、ジロンド県の県庁所在地。アキテーヌ公国の首府だった。

ガロンヌ川の湾曲部に面した歴史的な港町。市街地は左岸に沿って三日月形に形成され、月の港と呼ばれる。 ボルドーワインの産地として世界的に有名。

市の中心部および南側へかけては旧市街地であり、18世紀に城壁を取り壊し近代化の手が入ったが、狭くてまがった古い通りを多く残している。
市中心部のすぐ北側には、18〜19世紀の都市計画による大通りがある。

「月の港ボルドー」

「月の港ボルドー」は、かつて港町として栄えたボルドーの歴史地区を指す。
フランスの世界遺産の一つである。「月の港」とは、このボルドーを指す異称であり、ガロンヌ川が三日月形に湾曲した地点の南岸に沿って発達した交易港であったことに因む。

英名Bordeaux, Port of the Moon
仏名Bordeaux, Port de la Lune
面積1,731ha (緩衝地域 11,974ha)登録区分文化遺産登録基準(2), (4)登録年2007年公式サイト世界遺産センター(英語)

世界遺産登録に当たって特に評価されたのは、ルイ=ユルバン=オーベール・ド・トゥルニー (Louis-Urbain-Aubert de Tourny) らによって形成された啓蒙時代の新古典主義建築の都市計画および歴史的建造物群が現在も良好に保存されていることである。

加えて、ケルト時代(古代ローマの植民都市になる以前)に町が創設された古い歴史を持ち、アキテーヌ公国の首府だった。

2000年頃以降の都市計画により、歴史的中心地区で歩行者空間との融和が大きく進んだ(トラムの導入を含む)。

大原 三千院

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦年間(782年 – 806年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)の梨の大木の傍に一宇を構え、「円融房」と称したのがその起源という。後の「梨本門跡」の名はこれに由来している。

その地に貞観2年(860年)、承雲和尚が最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、円融院と称した。承雲はまた、比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)の梶井に円融院の里坊(山寺の僧が山下の人里に設ける住まい)を設けた。応徳3年(1086年)には梶井里に本拠を移し円徳院と称した。梶井の地名と、加持(密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、後に寺を「梶井宮」と称するようになったという。

元永元年(1118年)、堀河天皇第三皇子(第四皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。最雲法親王は大治5年(1130年)、第14世梶井門跡となった。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王(尊雲法親王)も入寺したことがある。

最雲法親王は保元元年(1156年)、天台座主(天台宗の最高の地位)に任命されたが、同じ年、比叡山の西麓の大原に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。政所は極楽院(現・往生極楽院)に隣接して建立された。

大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。
文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(844年 – 897年)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。
藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。
大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073年 – 1132年)も大原に住んだ。
山号の魚山は魏の曹植が陳の魚山に遊んだ際に、空中より聞こえた梵天の讃を筆を執って写し梵唄と名付けたという、声明発祥の故事にちなんだものである。

坂本の梶井門跡は貞永元年(1232年)の火災をきっかけに今の京都市内に移転した。洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467年 – 1477年)で焼失し、大原の政所を本坊とした。

元禄11年(1698年)、江戸幕府将軍徳川綱吉は当時の門跡の入道慈胤親王(後陽成天皇皇子)に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えた。これにより、本坊は大原から移転した。このため、以後近世を通じて梶井門跡は公家町の一角であるこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学とその附属病院が建っている。

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗(仏門を離れる)して新たに梨本宮家を起こし、公家町(京都御所周辺の寺町広小路)の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所は新たな本坊となり「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである(「一念三千」については当該項目を参照)。その際、隣接して建てられていた極楽院を吸収合併して境内に取り込んでいる。

宮中御懺法講(きゅうちゅうおせんぼうこう)は、保元2年(1157年)に後白河天皇が宮中の仁寿殿にて初めて行った仏事で、法華経を読誦し、悪行を懺悔し、罪障消滅を祈る法要である。代々、梶井門跡の門主がこの法要の導師を務めることが慣例になっていた。明治新政府が宮中での仏事を禁じたため、この行事は一旦絶えたが、その後1898年(明治31年)に大原の地で復活した。宸殿が1926年(大正15年)に建立されてからは宸殿で行われるようになった。1979年(昭和54年)に明治天皇70回忌法要を三千院で行ってからは毎年5月30日、三千院宸殿で御懺法講が行われている。

ニューヨーク マンハッタン

マンハッタンの区間の全長は13 mi (21 km)、ブロンクスの区間は2 mi (3.2 km)、ウエストチェスターの区間は18 mi (29 km)である。ニューヨーク市にはブロードウェイという名前の通りが他にも4つあるので、混同しないように注意が必要である。ブルックリン区のブロードウェイ、クイーンズ区の2つのブロードウェイ(アストリアとエルムハーストを結ぶものと、ハミルトン・ビーチを走るもの)、およびスタテンアイランド区のブロードウェイである。

ニューヨーク市の全ての行政区にはブロードウェイという名の通りがあることになる。また、マンハッタン内にはイースト・ブロードウェイおよびウエスト・ブロードウェイという通りもある。歴史もとはマンハッタン島の低木・沼地・岩場の中を通る、アメリカ先住民の使っていた道 Wickquasgeck Trail (ウィクカスゲック・トレイル)であったが、マンハッタン南端にニューアムステルダム植民地を作ったオランダ人が農場への往還などに利用した。

オランダ人探検家・起業家 David de Vries が1642年に書いた記録には、「日頃インディアンたちが通る Wickquasgeck Road」という記述が見られる。オランダ人はこの道に Heerestraat と命名した。1776年のニューヨーク市の地図では、ブロードウェイは現在のように単にBroadwayではなく”Broadway Street”と記載されている。

18世紀半ば頃には、イギリス人はロウワー・マンハッタンの市街地を貫く部分にグレート・ジョージ・ストリート (“Great George Street”) と名付けていた。18世紀のブロードウェイはウォール街の少し北の現在のシティ・ホール・パークあたりの公園までで、その先はマンハッタン島の西部を走るブルーミングデール・ロード(Bloomingdale Road) と名付けられていた。ブルーミングデール・ロードは独立戦争の際には英軍に敗れた独立軍撤退の道となった。

農場や森が残っていたマンハッタン中央部や北部は次第に都市化されていったが、19世紀初頭の1811年委員会計画で、マンハッタン全体に格子状の街路を作るという都市計画が立てられた。以後、まだ都市化されていなかったマンハッタンエリアの従来の野道は格子状街路に置き換えられて消えていったが、ブルーミングデール・ロードだけは残ることになる。ブルーミングデール・ロードは19世紀の間に拡張・舗装され、コロンバス・サークルより北の区間は19世紀後半にはザ・ブールバード (“The Boulevard”) と名付けられる。

1899年2月14日に”Broadway”はかつてのBroadway/Bloomingdale/Boulevardをつなげた全区間を指すようになった。現在はジョージ・ワシントン橋より北の区間は国道9号線が合流している。1902年2月3日付けのen:New York Evening Telegramによってブロードウェイのタイムズスクエアあたりは “Great White Way” と呼ばれるようになり、劇場街としてエンターテイメント産業が隆盛を誇った。

多くのきらびやかな劇場が建ち並び、イルミネーション、看板(マーキー)、ビルボードや広告がこのエリアを飾った。家族連れや子供連れでも楽しめる街だったが、1970年代から80年代にかけて舞台演劇の衰退とともにポルノ産業が進出して治安が悪化した。1990年代に入り、市長であるルドルフ・ジュリアーニの提唱により情報・音楽・娯楽関連企業の大型店舗が誘致され、治安が回復した。治安悪化に悩む自治体のモデルともなった。

ブロードウェイの基点となる公園ボウリング・グリーンから、市庁舎前のシティ・ホール・パークまでの、フィナンシャル・ディストリクトを貫く部分は、両側を金融機関などの超高層ビルが立ち並ぶ。この区間は、兵士やスポーツチームなどの凱旋行進が行われることが多く「英雄たちの峡谷」(“Canyon of Heroes”) の異名でも呼ばれる。こうしたパレードは「ティッカーテープ・パレード」と呼ばれ、もとは銀行員らが電信用のティッカーテープの紙吹雪を両側のビルからパレードの主役や観客の上に降らせた。現在もシュレッダーをかけた紙束などが紙吹雪として使われている。

パリの3区 バスティーユ広場界隈

アントーン・カラス(Anton Karas、1906年7月7日 – 1985年1月10日)は、オーストリアのツィター奏者、作曲家。


映画『第三の男』のテーマ曲(『ハリー・ライムのテーマ』の名でも知られる)で有名。

ツィター(独: Zither、仏: Cithare、伊: Centra da Travola)は、主にドイツ南部、オーストリア、スイスなどでよく使用される弦楽器(弦鳴楽器)。チターとも。

日本の箏(琴)に似た形状をしているが、長さは短い。約30本の伴奏用弦と5、6本の旋律用のフレット付き弦が張られている。これを親指につけたプレクトラムと呼ばれる爪を使って弾く。

ソードマンデル(スワルマンダル)と呼称される楽器と極めて近い構造を持っており、一般的には明確に分類されていない。

ヨハン・シュトラウス2世のワルツ『ウィーンの森の物語』の冒頭と末尾で演奏されるソロが有名であり、映画『第三の男』のテーマソングをアントーン・カラスが弾いた楽器としても知られている。

中東からヨーロッパにかけ、類似した楽器がある。特にアラビアやトルコのカーヌーンは有名。

アッシジの聖フランチェスコ聖堂

アッシジのフランチェスコは存命中から聖人視されていたために、多くの伝説が流布されている。ここでは世に知られていて、かつ信頼のおける史料で確認できる彼の生涯について概述する。

生い立ち・青年期

 丘陵上に広がるアッシジの街山上の「岩」(ロッカ)の城は1198年の市民蜂起で破壊され、現在の城は14世紀から15世紀にかけて再建されたものである。 

フランチェスコは1181年もしくは1182年に、イタリア半島中部ウンブリア地方のアッシジで生まれた。父親はピエトロ・ディ・ベルナルドーネという裕福な毛織物商、母親はジョアンナもしくはピカという名でフランスの貴族の家の出であるとも伝えられているが、これについては信憑性は薄い。

もともとの洗礼名はジョバンニであったが、当時は風変わりで珍しかったフランチェスコという名前で呼ばれるようになった。これは「フランス人」ぐらいの意味であるが、その理由としては父親がフランスとの商取引を主としていてフランス贔屓だったから、フランス人の母親への敬意から、本人がフランス語で歌うことが好きであったから等、様々に言われている。

この時期の都市に住む平民として、フランチェスコは高度な教育は受けなかったものの、少年期にラテン語の読み書きをサン・ジョルジュ教会の付属学校で学んだ。フランチェスコの青年時代は、富貴を問わず誰に対しても礼儀正しかったが、気前の良い散財家で、享楽的な生活を送っていたとされている。プロヴァンス(南フランス)の言葉で歌われていた宮廷詩や吟遊詩を吟じ、珍奇な衣服を好み、宴会の支払いを引き受けていた。

この時期のヨーロッパは人口と経済が飛躍的に伸長し、それに伴った急速な都市化が進行して、新しい時代の制度が模索されている時期であり、戦乱も絶えなかった。イタリアの諸都市においては、神聖ローマ皇帝のドイツ勢力(皇帝派)とローマ教皇の勢力(教皇派)が対立すると共に、都市内の領主や貴族・騎士と平民が対立し、都市間の争いと複雑に絡み合っていた。アッシジは皇帝派を後ろ盾とする貴族や騎士階級が治世権を有する都市であったのが、1198年から1200年にかけて反乱が起きて平民勢力によって貴族や騎士たちが町から追放されている。町を見下ろしていた、ドイツ軍が駐留するための要塞もこのとき破壊された。平民の一員であったフランチェスコも、この内乱に参加していた可能性がある。

隣町のペルージャと、そこに逃亡していた貴族たちがアッシジに戦争を仕掛けたのが1202年のことである。フランチェスコも戦闘に参加したがアッシジは敗北した。彼はペルージャの牢獄に捕虜として一年以上を過ごした後に釈放されて、和議が成立していたアッシジの町に帰った。

1205年、フランチェスコはイタリア半島南部のプーリア地方の戦争に出征する騎士に同行を申し出た。これは、戦功を立てて騎士に取り立てられることを目論んだもので、装備を整えた上で出立するが、アッシジ近郊のスポレートで彼は突然に引き返す。聖人伝は、このとき彼が幻視したか神の声を聞いたのだとしている。

回心と出家

 フランチェスコに呼びかけたサン・ダミアノ教会の十字架像 「着物を返すフランチェスコ」(画:ジョット・ディ・ボンドーネ、1305年頃)着ていたものを全部脱いで父に返し、世俗とのきずなを完全に絶ったフランチェスコ。

フランチェスコがどのように世俗を離れて神の道に生きることを決意したのかについて、順序関係に曖昧なところを残しながら、聖人伝は様々なことを伝えている。前述したスポレートでの幻視もしくは幻聴もそのひとつであるが、他にも様々なきっかけがあり、フランチェスコの回心は数年間の長いプロセスとして描かれている。

ペルージャの捕虜時代であるのか、釈放後なのかは伝記によって異なるが、フランチェスコは大病を得て、そこから快癒して外に出た時、以前のように自然の美しさを楽しめなくなった自分を発見した。友人たちとの放埓な生活にも空しさを覚えるようになり、ときおり洞窟などに籠って祈りや瞑想を行うようになった。

あるとき、それまでは近づくことを恐れていたハンセン氏病患者に思い切って近づき、抱擁して接吻した。すると、それまでの恐れが喜びに変わり、それ以後のフランチェスコは病人への奉仕を行うようになった。

また、ローマに巡礼に出かけて、乞食たちに金銭をばらまき、乞食の一人と衣服を取り換えて、そのまま乞食の群れの中で何日かを過ごしたという伝記もあるが、これは史実かどうか疑わしいとも言われている。

アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞く。これ以降、彼はサン・ダミアノ教会から始めて、方々の教会を修復していった。

父の不在中、フランチェスコは商品を持ち出して近隣の町で売り払い、その代金をサン・ダミアノの下級司祭に差し出した。帰宅してそれを知った父親は怒り、家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとする息子との間に確執を生むことになる。最後には、アッシジ司教の前で父子は対決するのだが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」として衣服を父に差し出し、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切った。

初期の活動

家を出たフランチェスコは、施療施設に住んでハンセン氏病患者への奉仕を行った。また、森を放浪したともいわれているし、サン・ダミアノ教会に住んだともいわれているが、最終的には修復を行うことになるポルツィウンクラの小聖堂近くに住んだ。このポルツィウンクラの地は、フランチェスコと後のフランシスコ会にとって重要な地となる。

サン・ダミアノから始まった聖堂の修復は、(おそらく)サン・ピエトロ教会、ポルツィウンクラの小聖堂と続き、その資材となる石や漆喰、灯明の油などの喜捨を、歌やフランス語で呼び掛けた。これに限らず彼は世俗の時代に慣れ親しんだ吟遊詩のフランス語(プロバンス語)を歌うことが多かった。

日々の食事は、様々な肉体労働もしくは托鉢で得た。金銭は受け取らず、初期のフランシスコ会でも同志たちはそれを忌み避け、手を触れることさえ嫌がった。こうした活動のスタイルから、フランシスコ会は同時期のドミニコ会と共に「托鉢修道会」と呼ばれるようになる。

こうした活動の指針を与えたのは福音書に書かれた、キリストや弟子たちの行動である。ある日、ポルツィウンクラの小聖堂で行われたミサの中で福音書が朗読され、イエスが弟子たちを各地に派遣するときの言葉にフランチェスコは感動した。その中でイエスは「行って、そこかしこで「神の国は近づいた」と伝えなさい。あなた方がただで受けとったものは、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も、替えの衣も、履物も杖も、もっていってはならない」と弟子たちに命じており、それに従ってフランチェスコは直ちに履物を脱いで裸足となり、皮のベルトを捨てて縄を腰に巻いた。

福音書でイエスが命じている全てをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣することがフランチェスコの生活の全てとなっていた。「裸のキリストに裸で従った」のである。

フランチェスコが宣教を始めたのは1208年もしくは1209年のことである。彼は街頭や広場に立ち、聖職者が用いるラテン語ではなく、日常語のイタリア語で聖書の教え、つまり悔い改めて神の道に生きよと説いた。フランチェスコは歌や音楽も利用して、巧みな説話で人々の心を捉えたとされている。そうした芸能的ともいえる活動から、フランチェスコは「神の道化師」と呼ばれている。

仲間と教団の成立

 「肩でラテラノ大聖堂を支えるフランチェスコ」(画:ジョット、1305年頃)インノケンティウス3世が夢にみたみすぼらしい修道士は聖フランチェスコであった。

富裕な商人の子弟であったフランチェスコのそうした活動は、奇行と捉えられ、市民の好奇と侮蔑の対象となった。

しかし、その態度に共鳴してフランチェスコと行動を共にする市民が現れ始める。アッシジの貴族で大変裕福だったとされるベルナルドは、出家の決心を固めると、自分の資産を処分してそれを貧しい人に分け与えた上でフランチェスコと共に生活を始めた。この後も、所有物をすべて放棄して、無一物となった人間をフランチェスコは仲間として迎えていく。初期の仲間には、この他にエジディオ、法律家で聖堂参事会員であったピエトロ・カッターニ、司祭のシルベストロの名前などが知られている。

彼らはフランチェスコも含めてお互いを兄弟と呼び合い、二人一組となってイタリア各地に宣教の旅に出て、行く先々で新たな仲間を得た。彼らは問われれば「アッシジの悔悛者」と名乗っていたが、やがて彼らは自らの集団を「小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)」と名乗るようになっていく。これは現在でもフランシスコ会の正式名称である。

1210年、仲間の数が12人になっていた小さき兄弟団はローマに向かい、教皇インノケンティウス3世に謁見し、活動の許可を求めた。これにはアッシジ司教グイドの斡旋があったものとされている。フランチェスコたちの活動は問題を孕んでいた。そもそも当時の聖職者や修道士は托鉢を禁止されていたし、司祭職の権限を持たない俗人が、説教を行うことも問題視されていた。修道院の中に閉じこもって祈りと瞑想に身と心を捧げる従来の修道会と、小さき兄弟団はまったく性格を異にする集団であった。この時代に少し先行して、古い修道院制度を刷新したと言われているシトー会は労働や生産活動を行ったが、托鉢や街頭での説教などを行ったわけではない。一切を所有しないという清貧の実践、托鉢や宣教活動は、当時の教皇庁を悩ませていた「リヨンの貧者」(ヴァルド派)、あるいはファミリアーティ派と呼ばれたグループなどとも共通するところがあり、異端として弾圧されたこれらのグループとフランチェスコたちが同一視される危険性は十分にあった。

やせ細って、汚れたぼろを纏った兄弟団を最初に見たとき、教皇は不快に感じたとも伝えられている[62]。しかし何度かの謁見の後、口頭によるものではあったにせよ、小さき兄弟団の活動に認可を与えた。聖人伝の伝えるところでは、教皇は夢の中で傾いたラテラノ聖堂をたった一人で支えた男の姿を見ており、その男こそがフランチェスコであると悟ったからだという。

このときフランチェスコは教皇に兄弟団の生活規則を記した文書を提出しており、これは今日「原始会則」と呼ばれている。その本文は現在残っていないが、福音書からの引用で構成された簡単な格言集のようなものであったらしい。おそらくフランチェスコ達は修道会のような組織を作るつもりはこの時点では無く、福音書に書かれた生活を素朴に実践することだけを考え、その認可を求めたものと推測されている。しかし、一切の所有を拒否することなどを含む、福音の完全な実践を謳ったその内容に、枢機卿たちは実行が困難として難色を示した。その否定的な空気を覆したのは「そのような理由で撥ねつけたとあらば、福音が実践不可能であると宣することになります。さすれば、福音をお与えになったキリストを冒涜することになりますまいか」というジョバンニ・コロンナ枢機卿の一言であったという。

教皇は「全能なる主が、汝らの数と恩寵を増してくださったならば、喜びとともに余のもとに戻るがよい。さすれば余は汝らにさらなる愛顧を与え、より大きな使命を、ますますの信頼をもって託すであろう」といって彼らを送り出したとされているが、フランチェスコが与えられたのは仮認可であり、様子見のために結論が先送りされたというのがその実質であった。

兄弟団の発展

ローマから帰って、兄弟たちはしばらくアッシジ郊外リボトルトの小屋に住んで病人の世話や肉体労働、そして托鉢と説教を行った。その後にポルツィウンクラに戻って、小聖堂の周囲に小屋を建てて住むようになった。無所有を貫いたフランチェスコはポルツィウンクラの小聖堂を、毎年家賃として一かごの魚を送ることでベネディクト会から借り受けた。兄弟団はここを拠点にして規模が拡大していく。兄弟団に加わった人々は前述したように二人一組で宣教の旅に出たが、毎年の聖霊降臨祭にはポルツィウンクラに戻って総会を開くのが慣習となった。1217年には、国外への宣教が開始され、最初は苦労するものの、ヨーロッパ中から入会希望者が集まるようになっていく。1219年の総会には3000人あるいは5000人が集まったという史料もある。

こうした兄弟団の発展をサポートしたのは、オスチア大司教のウゴリーノ枢機卿(後のグレゴリウス9世)である。彼は兄弟団に助言を与え、後見人として兄弟団を庇護した。

フランチェスコは徐々に人々からの崇敬を集めるようになっていった。中世に生きた多くの聖人と同様に彼にまつわる奇跡譚が語られるようになる。有名なものとして、鳥に向かって説教を行った話や、狼を説得して、噛み付くのはやめるという同意をとりつけたなどの話がある。この他にフランチェスコは、うさぎ、魚、水鳥、蝉、コオロギを相手に話をしたと伝えられている。

女性も、この新しい運動に加わった。アッシジの貴族の娘であるキアラ(クララ)は、フランチェスコの考えに共鳴して、1212年の枝の主日の夜にもう一人の女性を伴って家を出た。フランチェスコによる剃髪の後、近隣の女子修道院に身を寄せて清貧の生活を送りながら手仕事で生計を立て病人などへの奉仕活動に身を捧げた。現在クララ会と呼ばれているフランシスコ会第二会(女子修道会)の開始である。やがて司教グイドによってサン・ダミアノ教会が提供されると、そこを拠点として「貧しき貴婦人たち」は兄弟団と共に発展していくことになる。

多くの伝記は、1215年の第4ラテラノ公会議にフランチェスコが出席し、ドミニコ会を創始するドミニコと出会ったとしているが、この話には根拠が無い。

フランチェスコはイスラーム世界への宣教にも意欲をもっていた。1209年から1212年のどこかで船に乗ってシリアに向かったが、船が難破してダルマチア沿岸に漂着して断念した。1212年から1214年のどこかには殉教覚悟でモロッコを目指したが、途中のスペインで病を得て引き返す。1219年には、ついに第5次十字軍が駐留するエジプトに渡った。彼はまず、ダミエッタの町を包囲していた十字軍(ダミエッタ包囲戦)に対して戦闘の中止を呼びかけたが、十字軍の行為に幻滅を覚えた。その後、供を一人連れただけでイスラーム陣営に乗り込んでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見しキリスト教への改宗を迫った。スルタンは改宗には応じなかったものの、フランチェスコは丁重にもてなされたという。この席でフランチェスコはイスラーム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかけたとされている。すなわち、燃え盛る炎の中に飛び込んでどちらに神の庇護があるかを競おうというのである。フランチェスコ伝の中のこの有名なエピソードは近代以降は史実に根拠を持たない伝説と考えられていた。しかし、カイロに保存されているある墓碑銘の文面によれば、その時期にイスラム法学者がキリスト教修道士と有名な試みを行ったとされており、この伝説も再考されつつある。

スルタンによって十字軍陣営に送り届けられたフランチェスコは、エルサレムなどの聖地巡礼を行っていたが、イタリアから急を告げる使者がやってきてイタリアに戻ることになった。

会則問題と隠棲

フランチェスコが不在の間に、二つの大きな動きが小さき兄弟団の中で顕わになっていた。まず、厳しい規律を緩和しようとする動きがあり、フランチェスコにとっては容認しがたい事態になっていた。 イタリアに帰って来たフランチェスコは、ボローニャの兄弟団が寄進された建物に定住して学問に打ち込んでいることを知ると、呪いの言葉を吐いて病人を含む全員が建物から出ることを命じている。 当時の書物は高価であり、学究生活は清貧と宣教には馴染まないとしてフランチェスコは常々戒めていたし、石造りの建物に定住するなど兄弟団の理念に反することであった。 ポルツィウンクラに戻ってくると、そこにはアッシジ市が寄贈した建物が建てられていたので、フランチェスコは屋根に上って瓦を剥がし始めた。それを止めさせるためには、アッシジ市の役人が「その建物は寄進したものではなく貸与したものであり、所有権はアッシジ市にあるので壊さないでくれ」と説得するしか無かった。

国を越えて多くのメンバーを集めていた小さき兄弟団は組織化を必要としていたし、その円滑な運営のためにはフランチェスコの求める規律は厳しすぎると、多くが感じていた。さらにそうしたメンバーの多くは、例えばハンセン氏病患者の世話の義務なども厳しすぎるとして、その緩和を求めていた。

その一方で、無原則な放浪生活を行っている例もあれば、男女混じった共同生活を送り、ハンセン氏病の病人と同じ皿から食事を摂るような過激なグループも現れており、これはこれで問題となっていた。フランチェスコの死後、フランシスコ会では「穏健派」と「厳格派」とが対立することになるが、その萌芽が現れていたのである。

フランチェスコは兄弟団内部の調整を試み、共同体への加入希望者には一年間の修養期間が課せられることになった。また、在俗のままに悔悛の生活を送るための第3会も組織化された。しかし、フランチェスコは兄弟団の規律の緩和に関してはどうしても応じられず、事態は行き詰ってしまう。雛が多すぎて翼の下に置ききれない雌鶏の夢をこの頃フランチェスコは見ており、自分の能力を越えたところまで兄弟団が成長したことを悟ることになった。彼は、1220年に兄弟団の総長職を古くからの同志であるカッターニに譲り、以降は精神的指導者では有り続けるものの、隠遁生活に入る。(1221年にカッターニが死ぬと、エリアが総長職を継いだ。)

フランチェスコは23条からなる会則を起草して1221年の総会でそれを提示したが、総意を得ることはできず、教皇ホノリウス3世の認可も得ることが出来なかった。これは「認可されなかった会則」あるいは「第一会則」と呼ばれている。

フランチェスコはフォンテコロンボの隠所にひきこもり、兄弟団の後見人であるウゴリノ枢機卿の助言も受けながら、大幅な妥協を強いられて会則を書き直した。1223年の総会において承認され、教皇に提出されたこの会則は「認可された会則」あるいは「第二会則」と呼ばれている。これ以降、フランチェスコは初期の同志数人と共に森や洞窟で祈りと観想に日々を過ごした。

この時期のエピソードとして、1223年のクリスマスが有名である。ジョバンニという貴族から提供されてグレッチオの山中に滞在していたフランチェスコは、クリスマスを祝うにあたって聖書に描かれたベツレヘムを再現しようと思い立ち、厩舎や飼葉桶を設えた上で雄牛やロバを連れてきてミサを行った。このミサは、フランチェスコが赤ん坊を抱き上げる姿をはっきりと見たと証言する者がいたほどに、参列者に強い印象を与えた。世界中のカトリック教会では今日に至るまで、クリスマスになると聖堂内に厩舎の模型を設えている。

また、1224年にはラヴェルナ山中において六翼の天使から聖痕を受けたとされている。聖痕とは、十字架刑に処せられたキリストの5か所の傷(両手、両足と脇腹)と同じものが身体に現れたものを言い、キリストの模倣を徹底させようとしたフランチェスコの高い精神的境地を象徴する奇跡とされている。キリスト教世界では聖痕の報告例は少なからず有るが、フランチェスコのそれは、聖痕の最初の事例であり、数少ない男性の事例でもある。

 「聖痕を受けるフランチェスコ」(画:ジョット、1325年)

聖痕を受けた後、フランチェスコは再び各地を回り始めるが、徐々に身体が弱り始めていた。頭痛に悩まされ、目はほとんど見えなくなり、サン・ダミアノ教会でキアラの看病をしばらく受けた。フランチェスコの代表作『太陽の賛歌』(『あらゆる被造物の賛歌』)は、この時期に作られたとされている。

総長職を務めていたエリアの説得で、フランチェスコは教皇の医師団の診察を受けることになったが、病状は回復しなかった。死期を悟った彼は滞在先のシエナ、そしてチェッレで遺言を書き取らせた後、活動の原点だったポルツィウンクラへの帰還を希望した。聖人との評判が高まっていたフランチェスコの聖遺骸を切望する各都市の思惑を避けるために、アッシジから軍隊が派遣されてフランチェスコは故郷に護送された。

アッシジ市内の司教館で最後の日々を過ごしたのち、フランチェスコはポルツィウンクラに運ばれ、市民たちが警護に当たる中で1226年の10月3日に死んだ。臨終に当たっては『太陽の賛歌』の斉唱と『ヨハネ福音書』の受難の箇所の朗読が行われ、フランチェスコは地面に敷いた苦行衣の上に裸で横たわって、息を引き取ったという。

遺骸はアッシジに運び込まれたが、その葬列はサンダミアーノ教会でしばし立ち止り、キアラたちが最後の別れを告げた。そして、サン・ジョルジュ教会に葬られた。

死後の列聖

フランチェスコの死の数日後、小さき兄弟団の総長エリアは世界中のメンバーに対して書簡でフランチェスコの聖痕を報告した。多くの人々がフランチェスコの墓に殺到して、多くの奇跡が報告されるようになった。フランシスコの列聖が宣言されたのは1228年7月のことである。死後2年にも満たない迅速なこの処置はグレゴリウス9世、つまりかつてフランチェスコを庇護して助言を与えていたウゴリーノ枢機卿によるものだった。そして、1230年にエリアが建てさせた壮麗なサン=フランシスコ大聖堂の地下に移葬された。

思想

フランチェスコに関する文献資料は数多くあり、そのなかには師を偲ぶ弟子の修道士たちによって記された、『聖フランチェスコの小さい花』(I Fioretti)と題する14世紀完成の伝記があり、多くの人に親しまれている。そこに記されたフランチェスコの生き方は、まさに「托鉢修道士の鑑」である。

また、フランチェスコの思想の性格をよくあらわしたものに、彼の死の床で歌われたという有名な「被造物の讃歌」がある。この讃歌は、「もの皆こぞりて御神を讃えよ、光のはらから(同胞)なる日を讃えよ」という著名な一節から「(兄弟たる)太陽の讃歌」と呼ばれることもある[。そこでは太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への讃美に参加させ、はては死までも「姉妹なる死」として迎えたのである。フランチェスコ自身の内部では、清貧と自由と神の摂理とが分かちがたく結びついており、この三者が調和してこそ、簡素で自然で純朴な、明るい生活を営むことができるのであった。こうしたことから、彼は西洋人としては珍しいほど自然と一体化した聖人として、国や宗派を超えて世界中の人から敬慕されている。

万物兄弟の思想と自然保護の聖者

フランチェスコが求めたものは異端を帰順させたり、いかがわしい聖職者を断罪することではなく、ただ神を讃美し、小鳥やオオカミなどをふくむ神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝え、単純と謙虚の道を歩むことであった。フランチェスコは、ウサギ、セミ、キジ、ハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれる。魚に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名である。『聖フランチェスコの小さい花』にも、説教を聞く者がいないときフランチェスコは小鳥を相手に説教したという逸話が収載されており、同様の伝承は数多く伝えられている。

フランチェスコの以上のような事績から、1978年から2005年まで教皇位にあったヨハネ・パウロ2世は、1980年、フランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定した。

フランチェスコにとっては、人類すべてのみならず、天地の森羅万象ことごとく、唯一神たる天の父とマリアを母とする兄弟姉妹なのであった。こうした「万物兄弟の思想」はフランチェスコとその修道会を貫くものであり、フランシスコ会の修道士が「フライアー」friar と称される由縁である。このことについて、ピーター・ミルワードは、フランチェスコは「兄弟」「姉妹」の語を用いることにより、キリスト教会がイエス・キリストの家族たるべきことを主張し、万人さらには万物を同じ家族として遇することによって、当時、商業の勃興と並行して広がりつつあった、教会制度および国家制度における法的虚礼を排そうとしたものと指摘している。

清貧と平和の思想

フランチェスコの修道生活に関する思想はフランシスコ会の会則によく現れている。フランシスコ会の会則は、当時のベネディクト会の会規とはきわめて質の異なるものである一方、深い部分では互いに共通する特徴を有しており、フランシスコ会士は、より徹底した従順・清貧・貞潔に生きた。フランチェスコは貧しさを礼賛することにかけては徹底しており、物質的な豊かさのみならず、精神的ないし知的な豊かささえも認めなかった。ここは、同じ托鉢修道会ではあったが学問や理論の重要性を認めたドミニコ会とも異なる点であり、フランチェスコは「心貧しいことこそ神の御心にかなう」と主張し、修道士に学問や書籍は不要と喝破している。また、上に述べた「万物兄弟の思想」は、托鉢修道士同士が互いに兄弟と呼び合う関係を生み出した。

フランチェスコは、清貧の理想について、これを当時の騎士道と吟遊詩人の言葉をになぞらえて、「清貧の貴婦人」という擬人法で表現した。つまり、騎士が貴婦人に慇懃に奉仕し、吟遊詩人が賛美の歌を貴婦人に捧げるように、フランチェスコも清貧のために献身することこそ理想と考えたのである。

フランチェスコはまた、人間にとって本当に必要なものは愛と平和だけであり、それ以外のものはすべて不要だと主張し、いさかいや対立は所有することに端を発すると説いたように、その清貧の思想は彼の平和主義と分かちがたく結びついていた。キリスト教とイスラームの宗教対立の時代、そしてまたキリスト教世界が十字軍の熱狂のただなかにあった時代に、他宗教との対話のため、対立する陣営にみずから赴いている点も注目される。

フランチェスコに強い関心を寄せた思想家として、20世紀前半のフランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェイユが知られる[130]。シモーヌ・ヴェイユは『神を待ち望む』(1950)のなかで、「サンタ・マーリア・デッリ・アンジェリ教会の12世紀の小さな礼拝堂は、比類のない清らかさをたたえており、そこで聖フランチェスコはよく祈ったのです。生涯ではじめて私はなにか私よりも力強いものに促され、ひざまづいて祈ろうと思いました」とペラン神父に打ち明けている。

「聖フランシスコの平和の祈り」

「フランシスコの平和の祈り」と呼ばれる祈祷文は広く知られ、マザー・テレサやヨハネ・パウロ2世、マーガレット・サッチャーなど著名な宗教家や政治家が公共の場で引用し、聴衆と共に朗誦するなどして有名である。多くの人がフランチェスコの作と信じていて、そのように書かれた本やパンフレット、ポストカードも数多く存在するが、これはフランチェスコ本人の作ではない。初出は1912年のフランス語によるものであり、誤解によって聖フランシスコの作と伝えられ広められたものである。

とはいうものの、博愛と寛容の精神を逆説で説く内容はフランチェスコの精神をよく表現しているとされており、誤解が解かれることもなく、多くの人々にこの名前で 愛唱されている。

聖痕

フランチェスコの時代にあって、キリストと同じ傷が身体に現れる「聖痕」は想定外の出来事だった。実際、グレゴリウス9世も聖痕の話を信用しなかったし、列聖審査でも聖痕は考慮されていない。勅書によって、フランチェスコの聖痕が承認されたのは1237年になってからであるが、聖痕を否定する動きはフランチェスコの死後100年以上も続いていた。それほどに、聖痕はスキャンダラスな出来事だったのである。

フランチェスコの死後直後に、最初に聖痕について報告したエリアは、聖痕の奇跡が生じた場所や日時、目撃者について何も言及していない。聖痕について言及されているとされる一次資料は、晩年のフランチェスコの傍らにつき従っていた司祭レオーネが残した文書である。これは、慰めの言葉を求めたレオーネに対してフランチェスコが祝福の言葉(現在、『兄弟レオーネの祝福』と題されている)を書きつけて渡した羊皮紙の余白に書き込まれた注釈である。

これによれば、ラヴェルナ山中でフランチェスコは天使セラフィムと出会い、それと対話する中で安らぎを得て、その後に「スティグマ」を得たとある。つまり、第一伝記や大伝記などが語るように、セラフィムと聖痕は時を同じくして現れた訳ではない。さらに、レオーニは「スティグマ」という言葉を「聖痕」の意味では使っていないと考えられる。同じ文書の中でパウロの言葉「私はイエスの焼印(スティグマ)を身に受けている」に言及しており、文脈からすればパウロが受けた「スティグマ」と同じものを指していると考えられるからである。パウロが受けた焼印=スティグマについては、様々な解釈がなされて来たが、「生身の人間にキリストと同じ傷が現れること」を指すような使われ方は、その当時にも行われていない。

第一伝記を執筆したチェラノのトマスは、レオーネの文書にあった「スティグマ」をエリアが報告した聖痕の話であると解釈し、直前に出てくるセラフィムからそれを受けたという物語を作り上げたと考えることができる。こうして、天使(セラフィム)との会話によって慰められたフランチェスコの話が、キリストを模した天使(セラフィム)によって聖痕を受ける話に変貌した。なお、手の聖痕自体の描写はエーリアとトマスでは、まったく異なる。エリアによれば、それは傷の跡であり、トマスによれば、それは釘のような形をした肉の突起である。

聖痕の真相が何であれ、フランチェスコの信奉者達にとって聖痕は、フランチェスコが追及した「キリストの模倣」の最終形態であった。福音の教えに忠実に従うために、フランチェスコは自らキリストの生涯を繰り返しているのだと、仲間達は考え、フランチェスコの晩年を新たなキリストの受難として記憶した。もっとも、聖痕によってフランチェスコはいっそう尊敬すべき聖人となったが、その反面で追従者がフランチェスコの言葉に厳密に従う義務から解放されたという側面もある。事実、フランチェスコの死後に会の規則はどんどん緩められていった。

フランチェスコの聖痕が教皇によって認められて有名になると、シエナのカタリナなど聖痕を受けたと称する事例が報告されるようになった。その多くが女性であり、フランチェスコのような男性の事例はほとんどない。

フランチェスコに関する文書資料

13世紀に活躍した人間としては、フランチェスコは多くの文書を残したし、彼に関連する文書も多く残されている。

フランチェスコ自身の著作として重要なのは兄弟団のために書かれた会則であるが、1210年の原始会則は今日残されていない。1222年の『公認されなかった会則』[151]はフランチェスコが、兄弟団としてどのような集団を構想していたのかを示しており、さらに1223年の『公認された会則』と比較することで、フランチェスコがローマ教会との軋轢の中で何を断念しなくてはならなかったのかが分かる。『訓戒』も、会則同様にフランチェスコが兄弟団に寄せていた想いを知る上で役に立つ。死期を悟った彼が書き取らせた『遺言』は自伝的要素を持っており、貴重な価値を持っている。

この他に、いくつかの書簡がフランチェスコには残っている。ほとんどがラテン語かイタリア語(ウンブリア方言)による口述筆記であるが、レオーニに宛てた二通のみ自筆のものとして残されている。(フランチェスコは「無知で字が読めない」と自称することはあったが、簡単なラテン語なら書けた。)

フランチェスコの作った歌は多く残されていない。彼がよく歌ったとされるプロバンス語の歌はまったく残っていない。フランチェスコは詩にあわせて曲も作ったとされているが、これも全く残っていない。しかし、最晩年に作られた『太陽の賛歌』(『あらゆる被造物の賛歌』)はイタリア語(ウンブリア方言)で書かれた記念すべき最初の詩として評価されるとともに、世界のあらゆるものを肯定的に捉えるフランチェスコの感性を示す作品である。「あらゆる被造物、森羅万象の友、兄弟であり、あらゆるものに愛を振りまいていた」というフランチェスコ像は、この歌に依るところが大きい。また、この歌を基にして作られた讃美歌75番『ものみなこぞりて』は今もプロテスタントの教会で歌われている。

フランチェスコの伝記はチェラノのトマスによって、まず執筆された。列聖式に間に合わせるために、1228年に完成している。これが『第一伝記』と呼ばれるものである。その後、フランチェスコを知る初期の弟子等から寄せられた資料を基に再び執筆されたのが『第二伝記』である。

この時点でフランシスコ内部では厳格派vs穏健派が対立しており、チェラノのトマスが穏健派の立場から、ある資料を採用しなかったり言葉を濁している可能性は考慮しなくてはならないにしても、この二つの伝記はフランチェスコの生涯とフランシスコの思想を知る上で重要な役割を果たしている。

トマスへの情報提供者の中でも重要なのは、晩年のフランチェスコに付き従った兄弟レオーニであるが、トマスはその全てを採用しなかったと見られる。このレオーニが残した証言を多く残しているとされているのが、『三人の伴侶の伝記』、『完徳の鑑』、『旧伝記(ペルージャ古伝)』などの伝記であり、これらの文書には厳格派の立場が現れているとされている。

厳格派と穏健派の対立で混乱したフランチェスコ像を統一すべく、1260年の総会は総長ボナベントゥラに公式なフランチェスコ伝の執筆を要請し、その結果出来上がったのが、『大伝記』である。これは1263年の総会で承認され、さらに1266年にはこれ以外のフランチェスコに関する書物の破棄が命じられた。

『大伝記』で描かれるフランチェスコ像は中道を目指したものではあるが、穏健派/コンヴェントゥアーリ派の思うフランチェスコ像に近いものである。大伝記とジョットによって描かれた絵画によって、フランチェスコのイメージが構成される時代がその後長く続いた。19世紀末になって様々な文書が再発見され、フランチェスコ研究が盛んになった。その中でも重要なのは1894年のポール・サバティエの『アッシジのフランシスコ』である。

歴史的記述ではない、アレゴリー詩ではあるが、『聖フランチェスコと清貧の貴婦人との霊的結婚』は初期の兄弟団の雰囲気を良く伝えている。また、フランチェスコの死のおよそ一世紀後にイタリア語で書かれ、厳格派/聖霊派の影響を強く受けた説話集『聖フランチェスコの小さき花』も、当時を知る上で貴重な史料とされる。

この他、初期の兄弟団の状況を知るフランシスコ会内の史料としては、ジョルダーノ・ダ・ジャーノ『年代記』、エレクトンのトマス『小さき兄弟団のイングランド到来について』があり、外部史料としては、ジャック・ド・ヴィトリの書簡と『東方史』とヴァンドーヴァーのロジャーによる『年代記』などがある。

関連史跡

アッシジの聖フランチェスコ聖堂

アッシジの町は、イタリア国鉄アッシジ駅から公共バスに乗り、丘陵を上った中腹の細長い台地上に立地する。アッシジの旧市街(現在の市壁の内部)西側に壮麗なゴシック建築「聖フランチェスコ聖堂」がある。この聖堂の建設は第二代総長エリアによって1228年に着手され、1230年には早くも下部教会が完成してフランチェスコの遺骸が移された。さらに1239年には上部教会も完成し、巨匠ジョット・ディ・ボンドーネによって「聖フランチェスコの生涯(イタリア語版)」が描かれた[。これはフランチェスコの事績を28枚のフレスコ画であらわしたものであり、鳥に説教するなどの聖人のイメージを広めた。フランチェスコの墓は、エリアによって完全に埋められていたが、1818年に発見されて今では公開されている。

現在の市壁は、フランチェスコ存命期に市民によってつくられた城壁の外側をめぐっており、聖フランチェスコ大聖堂はフランチェスコ時代の城壁からは外側にあたる。旧城壁の内側には、ロッカ城、サン・ルフィーノ大聖堂、ミネルヴァ神殿のほか、フランチェスコの生家、キアラの生家がある。また、旧城壁と新城壁にはさまれた区域には、聖フランチェスコ大聖堂のほか、東にサン・ジョルジョ教会、サンタ・キアラ聖堂、南にサン・ピエトロ聖堂がある。

現在の城壁を出た下方には、南方にフランチェスコの回心のはじめを飾るサン・ダミアノ聖堂があり、そのさらに南方にリヴォトルト聖堂がある。サン・ダミアノ聖堂はのちに拡充され、現在はクララ会の所有となっている。リヴォルト聖堂は、回心後のフランチェスコが最初期に弟子たちと共住生活を行った豚小屋を覆うように建てられている。南西方向には、宣教の最初の拠点となったポルツィウンコラ礼拝堂を内部に抱えるサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂、南東方向にはサン・タンジェロ修道院がある。このように、アッシジにはフランチェスコとその修道会に関する遺跡・遺構がきわめて多い。

以上、アッシジの聖フランチェスコ聖堂および関連修道施設は2000年、ユネスコの世界遺産に登録されている。

フランチェスコが創立した会

「生涯」の章で記された通り、フランチェスコは既存の修道会と似たような組織を作ろうとは思っていなかったし、そもそも自身が司祭や伝統的な修道士になろうと考えたことは一度も無かった。1210年にローマ教皇庁に提出した原始会則は平信徒と聖職者が混じり合って出来た共同体のための会則であり、既存の修道会とはまったく異なるものであった。しかし、彼を中心にして出来上がった「小さき兄弟団」は彼の意図を越えて成長し、「フランシスコ会」の名で知られてローマ教会を支える大修道会として発展して行くことになる。

男子修道会(第一会)と女子修道会(第二会)からなる伝統的な修道会のようにフランシスコ会も男女別修道会制をとる。第一会はその起源を1209年頃アッシジで成立し、1210年に教皇インノケンティウス3世によって口頭認可された「小さき兄弟団」に置く。この小さき兄弟団は、今日『公認された会則』の名で知られる会則を1223年に教皇ホノリウス3世から認可を受けて現在に至っているが、フランチェスコの死後には穏健派と厳格派に分かれて対立し、それは精霊派(スピリトゥアーレ)vs修院派(コンヴェントゥアーレ)の対立となって数世紀の間続いた。

フランシスコ会は、同時代に設立されたドミニコ会とともに清貧と禁欲の生活を理想とし、従順・清貧・貞潔を掲げるベネディクト会戒律とも共通していたが、清貧の徹底という点で既存の修道会とは一線を画していた。フランシスコ会とドミニコ会はともに、居住する家屋も食物ももたず、すべてを他者の喜捨にたよったため、「托鉢修道会」と呼ばれた。

フランチェスコは学究生活を清貧に馴染まないものとして退けていたが、周囲の説得で神学研究が行われるようになり、スコラ哲学の一大拠点としてフランシスコ会は機能して行くことにもなる。トマス・アクィナスと並び称されたボナヴェントゥラ(1221年?-1274年)や、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266年?-1308年)、オッカムのウィリアム(1285年-1347年)などが有名である。

女子修道会の第二会は、1212年にキアラ(クララ)が家を出てフランチェスコの活動に加わったことを起点とするが、その会則が教皇から認可を受けるのは1253年になってからで、フランチェスコの没後27年、キアラが死ぬ僅か2日前のことである。キアラの下に女性達は手仕事で生計を立てて、病人の世話などを行い「貧しき貴婦人たち」と呼ばれたが、今日ではクララ会と呼ばれている。

一般信徒(在俗者)のための第三会は1221年に設立された。小さき兄弟会の分裂を避けるための組織化が図られていた時期に、「純朴な人々のための小さな共同体」という性格を留めさせておきたかったフランチェスコ意図を汲んで、ウゴリーノ枢機卿の提案で作られたものとされている。しかし、教皇庁の利害に奉仕する属人的かつ修道士的な一種の民兵団として利用された側面もある。

年譜


1181もしくは1182年 -ピエトロ・ベルナルドーネとピカの子としてアッシジに生まれる。

1198-1200年 -アッシジの内乱。

1202年 -アッシジとペルージャの戦いに参加し、捕虜となる。

1203年 -アッシジとペルージャの和約。アッシジへ帰郷。

1203もしくは1204年 -病を得る。

1205年 -参戦でプーリアに向かうが、途中で引き返す。回心が始まる。

1206年 -父と対立し、財産を放棄する。病人の世話や、聖堂の修復を行う。

1208-29年 -アルビジョワ十字軍。

1209年 -ポルツィウンクラの礼拝堂で福音の呼びかけを聞く。ベルナルドやカッターニが仲間になる。

1210年 -仲間とともにローマに向かい、教皇インノケンティウス3世から「小さき兄弟団」の会則(『原始会則』)を口頭で認可してもらう。

1211もしくは1212年 -アッシジの貴族の娘であるキアーラが出家し、フランチェスコが剃髪する。

1212年 -子供十字軍。

1212から1214年頃 -シリア伝道を目指すが、ダルマチアに漂着。モロッコ伝道も試みるが、病で断念。

1217年 -ポルツィウンコラの総会で国外宣教が決定される。

1219-1220年 -東方伝道でエジプトへ赴く。スルタンに面会。

1220年 -モロッコで5人の兄弟団メンバーが殉教し、兄弟団内部にも内紛ありとの知らせがありイタリアに帰還。兄弟団の運営をカッターニに委ねる。またローマ教皇庁は兄弟団の保護者としてウゴリーノ枢機卿を指名する。

1221年 -カッターニ死去に伴い、エリアが総長となる。フランチェスコは新会則を総会に提出するが、同意を得られず、教皇庁の認可も得られなかった(「公認されなかった会則」)。

1223年 -新たな会則を起草し、教皇ホノリウス3世が認可する(「公認された会則」)。グレッチォでベトレヘムを再現したクリスマスを祝う。

1224年 -ラヴェルナ山で手足と脇腹に聖痕を受ける。

1225年 -病に苦しみサン・ダミアーノ教会で療養し、『太陽の讃歌』を作る。リエティで教皇の医師団の治療を受けるが回復せず。シエナで遺言をしたためる。

1226年 -アッシジに移送され、ポルツィウンコラで死去。遺体はサン・ジョルジョ聖堂に葬られる。

没後

 2013年教皇着座式にのぞむホルヘ・マリオ・ベリゴリオ。コンクラーヴェで選出されたさいブラジルの枢機卿に「貧しい人のことを忘れないでください」と言われ「アッシジのフランチェスコ」を思い出し、これを教皇名とした。アッシジのフランチェスコの精神が21世紀のカトリックの教会の中心に据えられた象徴的出来事である。

1228年 -チェラーノのトマスによる『第一伝記』。7月16日、教皇グレゴリウス9世によって聖人に列せられる。

1230年 -エリアの指示で建設中の壮麗な聖フランチェスコ大聖堂に遺骸を移葬。同年、グレゴリウス9世は教勅によって、会則を穏健に解釈するとともに、フランチェスコの遺言の効力を無効とする。

1246/47年 -チェラーノのトマスによる『第二伝記』。

1253年 -キアラによる会則の認可。キアラ死去。

1255年 -キアラ列聖。

1263年 -フランシスコ会総長のボナヴェントゥラによる『大伝記』が承認を得る。

1266年 -ボナヴェントゥラによる『大伝記』が唯一の公式な伝記に指定されるとともに、他のあらゆるフランチェスコ伝の破棄が命じられる。

13世紀末 ーフランチェスコ大聖堂上堂に、ジョットによってフランチェスコの生涯がフレスコ画で描かれる。

1818年 -フランチェスコ大聖堂地下から伝承通りにフランチェスコの遺骸が発見される[173]。

1882年 -聖フランシスコ生誕700年祝賀にあたって回勅が出され、近代歴史学的なフランチェスコ研究が盛んになる[178]。

1894年 -プロテスタント牧師のポール・サバティエによるフランチェスコ研究が発表され、後世のフランチェスコ研究に大きな影響を与える[178]。

1939年 -フランチェスコ、シエナのカテリナとともにイタリアの守護聖人となる[3]。

1978年 -フランチェスコの遺骸の科学的検証がなされる[173]。

1979年 -フランチェスコ、環境保護運動の守護聖人となる[179]。

2013年―第266代教皇にブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が着座し、フランチェスコの名をとって「フランシスコ(ラテン語名フランキスクス)」を名乗る。

モントリオール・ノートルダム聖堂(Basilique Notre-Dame de Montréal)

映画・“旅愁” のなかの「セプテンバーソング」

「セプテンバー・ソング」は、ジョーン・フォンテーンとジョセフ・コットン主演、ウィリアム・ディターレ監督の映画『旅愁(September Affair)1952』のテーマ曲として有名です。

映画はイタリアを舞台にしたAffair(不倫の恋)、恋愛劇で、これも九月の人恋しさを感じされる物語でした。この映画はアカデミー主演女優賞を獲ったジョーン・フォンテーンの成熟した演技が印象的でした。

もともと、「セプテンバー・ソング(September Song)」は:クルト・ワイル(Kurt Weill)作曲、マックスウェル・アンダーソン(Maxwell Anderson)作詞のブロードウェイ・ミュージカル『ニッカボッカ・ホリディ(Knickerbocker Holiday)』の挿入歌。

ウォルター・ヒューストン(Walter Huston)はカナダ生まれの俳優で歌手ではありません。そのため声域も広くない彼のために書かれたのが「セプテンバー・ソング」(September Song)なのですが、かえってこれが誰でもが口ずさめる親しみやすいメロディをこの歌に与えました。

また、歌詞の内容も良く、「九月の歌」ではありますが、日が短くなるこの時期を愛の感情に重ねて秀逸です。

明るい夏が終る九月という月の持つ季節の変わり目に対して、人が無意識に感じる感傷を表現しています。あるいは人生の秋、無駄にする時間は無くなり、残り少ない時間をあなたと共に過したいという意味も感じられます。この含みが歌詞に豊かな余韻を与えています。

「セプテンバー・ソング」はブロードウェイ・ミュージカルの発表当時から人々に親しまれており、スタンダードな歌となっていました。それを再びヒットさせたのがフランク・シナトラのバージョンです。この歌唱が今でもこの歌の変らぬスタンダードともなっています。曲と歌詞がシンプルで美しいため、これ以上のアレンジは難しい歌でもあります。一例を挙げれば、ルー・リードのカバー・バージョンもスタンダードに対するひとつの挑戦であるものの、原曲、シナトラを超えるものではありませんでした。

“September Song”
When I was a young man courting the girls
I played me a waiting game
If a maid refused me with tossing curls
I’d let the old Earth make a couple of whirls
While I plied her with tears in lieu of pearls
And as time came around she came my way
As time came around, she came

[When you meet with the young girls early in the Spring
You court them in song and rhyme
They answer with words and a clover ring
But if you could examine the goods they bring
They have little to offer but the songs they sing
And the plentiful waste of time of day
A plentiful waste of time]

Oh, it’s a long, long while from May to December
But the days grow short when you reach September
When the autumn weather turns the leaves to flame
One hasn’t got time for the waiting game

Oh, the days dwindle down to a precious few
September, November
And these few precious days I’ll spend with you
These precious days I’ll spend with you

・映画挿入歌・ Song:Walter Huston
女を口説いていた若い頃は
 待つのも楽しみだった
 そっぽを向かれフラれても
 時を過ぎるに任せていた
 真珠の代わりに涙を捧げていた
 時がたち想いはかなった
 時がたち彼女は僕のものに

5月から12月までは長い月日だけれど
 9月になると日々は短くなる
 秋の気配が木の葉を赤く燃え立たせる頃
 もう待つことを楽しむ時間はない
 残りの日々は少なく貴重なものになってゆく

[9月から11月へと
 この大切な日々を君と共に過ごそう
 大切な日々を君と共に
 月日が流れワインは熟成してゆく]

9月から11月へと
 この実り多き歳月を君と分かち合おう
 実り多き歳月を君と共に

地中海に面するトルコ最大の観光都市 アンタルヤ(ANTALYA)

港町として栄えたアンタルヤの歴史

アンタルヤの地には考古学的発掘によって4万年前から人が住んでいたことが分かっています。

この辺の地域の古代名はPAMPHYLIA (パンフィリア)と言い、東のCILCIA(キリキア)と西のLYCIA(リキア)に挟まれた土地でした。

パンフィリアの名が歴史上初めて登場するのが紀元前1200年頃のヒッタイト時代の文献です。

アンタルヤの名の由来は紀元前159年にペルガモン王国第4代国王アッタロス2世がこの地に都市を建設しATTALIA(アッタリア)と名付けられたことから始まります。

アッタロス2世は、兵達に「行け!私の為にこの地上での楽園を見つけるのだ!」と命令を出し、兵たちが何年もかけて探し出した楽園と言うのが、ここアッタリアの地とのことです。

ペルガモン王国の終焉(紀元前133年)後しばらくの間独立したままだったこの都市は、後に海賊の手に渡り、紀元前77年にローマ執政官プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクスによってローマの地として併合されました。

紀元前67年にはポンペイウスが率いたローマ海軍の基地となり、西暦130年に皇帝ハドリアヌスがアタレイアへ訪問したことにより、この地はより発展しました。

ビザンチン統治時代は司教の中心地として栄えましたが、西暦7世紀以降、この地域はセルジュークとビザンチンの間で頻繁に支配交代されながら1207年にセルジューク朝に支配されることになります。

これに続いて、テケ侯国(アンタルヤを都とした君侯国)、オスマン帝国、カラマン侯国(現カラマンを都とした君侯国)、そして再びオスマン帝国と主権が代わりました。

第1次世界大戦末期には一時イタリア軍に占領されましたが、1923年にトルコ共和国建国と共にトルコの手に戻り現在に至ります。

長い間アッタリアやアタレイヤと呼ばれていたこの地は、19世紀頃にADALYA(アダルヤ)、そして共和国になりANTALYA(アンタルヤ)と名前が変わりました。ちなみにアンタルヤは「アッタルヤ領」を意味します。

世界遺産の街「ケベック・シティ」

1965年の映画『いそしぎ』のテーマ曲として書かれたポピュラー・ソング。

英語では別名「Love Theme from The Sandpiper」(「『いそしぎ』の愛のテーマ」の意)と呼ばれ、日本語では「いそしぎのテーマ」、あるいは単に「いそしぎ」とも呼ばれる。

作曲はジョニー・マンデル (Johnny Mandel)、作詞はポール・フランシス・ウェブスター (Paul Francis Webster)である。

映画『いそしぎ』では、ジャック・シェルドン (Jack Sheldon) のトランペット・ソロで演奏され、後にトニー・ベネットの歌でマイナー・ヒットとなった(このバージョンも作曲者マンデル自身が編曲・指揮を担当した)。

この曲は、1965年のアカデミー歌曲賞、および、1966年のグラミー賞最優秀楽曲賞に選ばれた。 作曲者は「おどま盆ぎり盆ぎり」五木の子守唄を耳にしてそれもヒントにして作曲したと言っているらしい(2020年10月17日、桑田佳祐のやさしい夜遊び)。

様々なバージョン

この曲の広く知られたバージョンとしては、バーブラ・ストライサンド(1965年のアルバム『My Name Is Barbra, Two…』に収録)やシャーリー・バッシー(1966年のアルバム『I’ve Got a Song for You』に収録)などによるものがある。

そのほか、アンディ・ウィリアムス、パーシー・フェイス、リタ・レイズ(英語版)、アル・マルティーノ、ペリー・コモ、ナンシー・シナトラ、アストラッド・ジルベルト、ペギー・リー、サラ・ヴォーン、フランク・シナトラ、エンゲルベルト・フンパーディンク、グレン・フライらが歌っている。

コニー・フランシスはこの曲を、英語、スペイン語(「La sombra de tu sonrisa」)、イタリア語(「Castelli di sabbia」)でそれぞれ録音した。トリニ・ロペスは、リプリーズ・レコードから出したアルバム『Trini』にこの曲を収録している。リル・リンドフォース (Lill Lindfors) はこの曲をスウェーデン語で「Din skugga stannar kvar」として録音している。

マーヴィン・ゲイは、この曲を数種類の異なるバージョンで録音に残している。アルバム『Romantically Yours』、『Vulnerable』に異なるバージョンが収録されているほか、ライブ盤『Marvin Gaye: Live at the Copa』にもこの曲が収録されている。ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスは、1966年のアルバム『What Now My Love』にインストゥルメンタル・バージョンを収録した。

イタリアの有名歌手ミーナは、1968年にテレビでこの曲を歌い、後に『Le canzonissime』というCDにもこの曲を収録した。ドイツの歌手ウド・リンデンベルク (Udo Lindenberg)は、ロック寄りのカバー・バージョンを1986年のシングル「Germans」に収録した。2006年には、英国退役軍人会中央楽団 (The Central Band of the Royal British Legion) が同名アルバムの冒頭曲としてこの曲を取り上げた。

さらに、ナンシー・エイムス (Nancy Ames) は、スペイン語バージョンを1966年の『Latin Pulse』に収録している。ホセ・カレーラスは、アルバム『What a Wonderful World』にこの曲を収録しており、ペペ・ハラミジョ (Pepe Jaramillo) は、ラテン・ダンス・バージョンを1971年のEMIのアルバム『Tequila Cocktail』に収録している。セルジオ・フランチ (Sergio Franchi) は1967年RCAビクターのアルバム『From Sergio – With Love』でこの曲を取り上げている。

ボビー・ダーリン (Bobby Darin)のアルバム『Bobby Darin Sings The Shadow of Your Smile』は、A面に1966年のグラミー賞最優秀楽曲賞にノミネートされたすべての曲を収録している。

ジャズのサクソフォーン奏者エディ・ハリス(Eddie Harris) は、この曲を1965年に録音し、アルバム『The in Sound』に収めている。 1967年には、ジャズのサックス奏者渡辺貞夫が菊地雅章や中牟礼貞則、富樫雅彦らと録音したアルバム『イパネマの娘』にてカバーしている。

ジャズのオルガン奏者ブラザー・ジャック・マクダフは、1967年のアルバム『Tobacco Road』で、この曲をインストゥルメンタルでカバーした。

1983年、R&BグループDトレイン (D. Train) は、12インチ・シングル盤「The Shadow of Your Smile / Keep Giving Me Love」をダンス音楽のヒットにした。

同じく1983年、インストゥルメンタル・グループ、ピーセズ・オブ・ア・ドリームは、アルバム『イマジン・ジス』でこの曲をカバーした。

トニー・ベネットは、アルバム『Duets: An American Classic』のために、コロンビアのロック歌手フアネスとのデュエットを、スパングリッシュ・バージョンで録音した。これはフアネスにとっては英語で歌う最初の録音であり、ベネットにとってはスペイン語で歌う最初の録音であった。

竹内まりやの2003年のアルバム『Longtime Favorites』に収録された。

リトアニア国立オペラ・バレエ劇場 (lt:Lietuvos nacionalinis operos ir baleto teatras、en:Lithuanian National Opera and Ballet Theatre) のソリスト(バリトン)であるヴィタウタス・ユアザパイティス (Vytautas Juozapaitis) は、2004年リリースのデビュー・アルバム『Negaliu Nemylėti (Can’t Help Falling In Love)』に、この曲のリトアニア語バージョン「Kai Tu Toli」を録音した。

アイルランド出身の歌手カーリー・スミスソン(Carly Smithson) は、『アメリカン・アイドル』のシーズン7で上位24名のひとりとしてセミファイナルに進出した際、この曲を歌った。この歌唱は、2008年2月21日から、ダウンロード版がリリースされた。

歌手アメル・ラリュー (Amel Larrieux) は、2007年のジャズ・スタンダード・アルバム『Lovely Standards』にこの曲を収録した。

歌手で作曲家のドナルド・ブラスウェル2世(Donald Braswell II) は、2007年のアルバム『New Chapter』にこの曲を収録した。

サクソフォーン奏者のデイヴ・コーズは、スタンダード曲を取り上げたアルバム『At the Movies』にこの曲を2つの異なるバージョンで収録している。ひとつ目は、ジョニー・マティスのボーカルと、クリス・ボッティのトランペットが入っていて、インストゥルメンタル曲として演奏されている2つ目では、再びボッティが登場するほか、ギター奏者ノーマン・ブラウンがフィーチャーされている。

ブラジルのギター奏者バーデン・パウエルは、1971年のコロンビア・レコードのアルバム『Solitude on Guitar』でこの曲を取り上げている。

近畿日本鉄道では、特急の鵜方駅到着時にこの曲をチャイムとして流していた。

西城秀樹・1986年のアルバム『Strangers in the Night』で、スタンダード・ナンバーの1曲としてこれをカバーしている。

デンマーク、コペンハーゲン ローゼンボー城(Rosenborg Slot)

コンチネンタル・タンゴ/作曲:ヤコブ・ゲーゼ(デンマーク)

『ジェラシー(タンゴ・ジェラシー)』は、デンマークのバイオリニスト、ヤコブ・ゲーゼ(Jacob Gade/1879-1963)作曲のコンチネンタル・タンゴ。1925年初演。

アルフレッド・ハウゼ楽団のレパートリーとしても有名。

『ジェラシー』の世界的大ヒットにより、ゲーゼの没後、印税により「ヤコブ・ゲーゼ賞」が設けられ、若手の音楽家の育成の基金となった。

ヤコブ・ゲーゼ(Jacob Gade、1879年11月29日 – 1963年2月20日)はデンマークのバイオリニスト、ポピュラー音楽の作曲家である。

基本情報
生誕1879年11月29日
出身地デンマーク
死没1963年2月20日(83歳没)
ジャンルポピュラー音楽
職業ヴァイオリニスト・作曲家
担当楽器ヴァイオリン

タンゴの楽曲『タンゴ・ジェラシー』(または単に『ジェラシー』、Tango Tzigane Jalousie、Tango JalousieまたはJalousie)で有名である。1925年9月14日に初演されたこの曲は世界的に大ヒットし、100以上の映画の音楽としても使われた。この曲の印税で、ゲーゼはこれ以後作曲に専念できた。ゲーゼの没後、印税は若手の音楽家の育成の基金となった。(ヤコブ・ゲーゼ賞が設けられた。)