スペイン、Sevilla, セビージャ  (アンダルシア) マリア・ルイサ公園

アルゼンチンのミュージシャン

フリオ・サルバドール・サグレラス (Julio Salvador Sagreras、ブエノスアイレス、1879 年 11 月 22 日 – 同上、1942 年 7 月 20 日) は、アルゼンチンのギタリスト、作曲家、教師 でした。ギタリスト(ガスパール・サグレラス)の息子である彼は、アルゼンチンのブエノスアイレスにある芸術アカデミーでギター教師を務めていました。彼は、モントネロスグループの創設者マリオ・エドゥアルド・フィルメニッチの母方の祖父です。

フリオ・サルバドール・サグレラス
個人情報
誕生1879 年 11 月 22 日ブエノスアイレス(アルゼンチン) 
死1942年7月20日(62歳)ブエノスアイレス(アルゼンチン) 
国籍アルゼンチン専門的な情報エリアギタリスト、作曲家、教師楽器ギター

彼はブエノスアイレスのフランシスコ・ヌニェス出版社から 100 近くの作品を出版し、1905 年には自身のギター学校、ラ・アカデミア・デ・ギターラを設立しました。彼はギターの指導法の著者であり、1925 年から数多くのラジオ コンサートに参加しました。作曲家として、彼は主にギターのための音楽を書きました。

また、ギターの演奏を学ぶための本、初級からコンサートギタリストのレベルまでの6冊の学習本からなる『ギターレッスン』も執筆しました。

人生

若い頃に最初の曲を書き、この才能あるアルゼンチンのギタリスト兼ピアニストは、 20世紀半ばに著書『LAS LECCIONES DE LA GUITARRA』を出版し、 民俗学のインスピレーションのためのテクニックと研究を提案し、また著書『TÉCNICA SUPERIOR DE GUITARRA』を出版しました。 、古典的なテクニックを使用してギターに適用される彼の基本的なテーマに焦点を当てています。

彼と父親だけでなく、当時の他の著名なアーティストたちと共演したコンサートの数も無視できません。間違いなく、この優れた作曲家は多くの人の記憶に残るでしょう。彼の創作したタンゴは大衆に大きな共感を呼びましたが、残念なことに、1942年に世界は、彼の国と世界で最も有名な音楽家の一人に別れを告げました。

音楽は本質的に注目されずにはいられませんが、むしろ私たちの日常生活の一部であり、サグレラスのような作曲家が自分の作品を一般に浸透させることができれば、一生忘れられることはほとんどありません。私たちは、音楽の影響が長年にわたり根本的なものであり、文化と社会の発展にとって非常に重要な要素であることを無視することはできません。その一例として、2000 年以上前の日本では、言うまでもなく帝国音楽チームが音楽チームを編成しました。音楽は魂の情熱を表すと考えた偉大なアリストテレス。間違いなく、この芸術 (音楽) は永遠に残り、音符を通して伝わる情熱や感情が常にあり、サグレラスのような作曲家は常に私たちに彼らの遺産を追い、聴くようインスピレーションを与えてくれます。

サグレラスは多くのギター作品を作曲しましたが、その中にはエル・コリブリ(特徴的な研究)という作品があり、世界の一流ギタリストのレパートリーの一部となっており、何度も録音されています。若い頃、彼は劇場用に最初の 3 つの作品を書きました。ホセ・R・シュプフ中尉が作詞した「代理司祭」、「リヴァダビア劇場」(現リセオ)で女優のローラ・メンブリベスが初演。彼女が発表した曲には他に「ベビタ」(ワルツ)、「カヒータ・デ・ムジカ」、ネリー(ザンバ)、「エル・ゾルザル」(スタイル)、ワルツ「ネヌファル」と「ヴィオレタス」は特に、ギターを教えるための彼の一連の教育本「最初のギター・レッスン」を超え、シリーズは「6番目のギター」まで続くレッスン」の最後は「より高度なギターテクニック」で終わります。

15世紀の大航海時代に建設された教会や宮殿「ポルトの歴史地区」

徳川家の家紋「葵紋」が見つかったことで、日本でもニュースになったボルサ宮。ニュースによると、葵紋は、1865年のポルト国際博覧会に出席した徳川家使節団を歓迎する意図で描かれたのではないかとのこと。葵紋が発見された「紋章の間」の天井は、ポルトとの深い関わりのあった19の国(当時)とポルトガルの紋章で飾られ、ポルトガル語では「Patio das Nacoes(国々のパティオ)」と呼ばれています。パティオの名にふさわしく、広々とした吹き抜け構造になっており、天井だけでなく、床の大理石やアーチの美しさも見事。

ボルサ宮は他にも、・壁一杯にポルト市民の商いの場面が描かれた「裁判の間」・エンリック・メディーナ作の12枚の絵画が華やかな「陪審員の間」・当時の通信手段であるテレグラフ機器が残る「電報の間」・マリア・ピア橋などでポルトに貢献したエッフェルが使ったとされる「ギュスターヴ・エッフェルの間」・ローマ時代の市民をテーマにした絵画や暖炉が美しい「所長の間」・現在でも月に一度ポルト商工会議所の定例会議が開催される「黄金の間」・年に一度の総会が行われる「議会の間」・サン・フランシスコ修道院跡地をポルト商業組合に贈呈した王妃ドナ・マリア2世へ謝意を表するため、ブラガンサ王朝の王たちの肖像を飾った「肖像の間」・アルハンブラ宮殿にインスピレーションを受け、18年の月日をかけて1880年に完成した「アラブの間」があります。特に「肖像の間」の木彫作家ゼフェリノ・ジョゼ・ピントによるテーブルは、1867年のパリ万博で入賞した当時の最高傑作。さらに、現在でもコンサートや国際会議などが開かれる「アラブの間」は、その木彫の美しさと金箔の豪華さでボルサ宮随一の見どころとなっています。

ハンガリー、パンノンハルマの小高い丘に建てられた1000年以上の歴史があるベネディクト会大修道院

世界遺産
パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境
Millenary Benedictine Abbey of Pannonhalma and its Natural Environment
ハンガリー
登録年:1996年
登録基準:文化遺産
資産面積:47.4ha

世界遺産概要

ハンガリー北西部ジェール・モション・ショプロン県パンノンハルマ市に位置するパンノンハルマ大修道院は996年の創立と1,000年超の歴史を誇る修道院で、ハンガリー初の学校が創設され、ハンガリー語の初の文書が作成された。

ハンガリーのみならず中央ヨーロッパにキリスト教ローマ・カトリックの宗教や文化を啓蒙する拠点としてありつづけ、ゴシック様式やバロック様式、新古典主義様式をはじめ中世から近代まで時代時代のスタイルをいまに伝えている。

資産の歴史

1世紀にハンガリー大平原とその周辺に広がるパンノニアの西部はローマ帝国の属州となり、その後、フン帝国やアヴァール人、スラヴ人、フランク王国などが支配した。9世紀頃からハンガリー人の祖とされるマジャール人がロシアのヴォルガ川やウラル山脈周辺から進出し、896年には大首長アールパードがマジャール人の諸部族を統一してハンガリー大公国を成立させた(ハンガリーの建国)。マジャール人はパンノニアのみならずイタリアやドイツにまで進出し、圧力を加えた。

パンノンハルマの地には10世紀ほどまでバイエルン人やスラヴ人の農村が広がっていた。そしてここには聖山として崇められていた丘があり、いつしかパンノニア出身のローマ軍人で、後にトゥール司教となった聖マルティヌスの生誕地であるという伝説が広まった(通説ではパンノンハルマの南西のソンバトヘイ出身)。このため19世紀までこの地はジェールゼントマールトン(ゼントマールトンは聖マルティヌスを意味する)と呼ばれていた。

996年、修道会のベネディクト会はマジャール人をはじめとする異教徒への宣教と聖マルティヌスの聖地の保護を目的に、イタリアやドイツ、ボヘミア(チェコ西部)から最初の修道院長となる聖アストリックをはじめ、司教や司祭・修道士らを送り込んで聖マルティヌスに捧げる修道院と付属聖堂(聖マルティヌス聖堂)を創設した。

時のハンガリー大公ゲーザは異教徒ではあったがキリスト教の宣教を認めており、ベネディクト会に修道院の創設を許可した。997年にゲーザの息子ヴァイクが大公位を継ぐが、ヴァイクは洗礼を受けたキリスト教徒であり、1000年に教皇シルウェステル2世からキリスト教国として認められてハンガリー王国が成立し、イシュトヴァーン1世を名乗った。イシュトヴァーン1世は修道院に特権を与え、多額の寄付を行ってこれを保護した。

修道院は宗教や文化・教育・経済・司法の中心地として中央ヨーロッパに広く影響力を持ち、その啓蒙に努めた。一例が1055年にベラム(犢皮紙。主に子牛の皮をなめした皮紙)に記されたティハニ修道院憲章で、ハンガリー語による最古の文書として知られる。

最初の修道院は1137年頃に全焼したため、ハンガリー王ベーラ2世らの支援の下で13世紀までかけてゴシック様式で再建された。

1241年にモンゴル帝国が襲来して町を破壊したが、修道院長ウロスは聖マルティヌスの丘と修道院の城壁を利用してこれを撃退した。その後、14~15世紀にかけて修道院と町は大いに繁栄し、人口が急増した。1472年には国王マーチャーシュ1世がゴシック様式で大規模な増改築を行い、規模が一気に拡大した。修道院は1514年に大修道院に昇格している。

16世紀にオスマン帝国最盛期を築いた皇帝スレイマン1世がハンガリーに進出し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を撃破してハンガリー中部と南部はオスマン帝国領ハンガリーとなった。

当初修道院は難を免れ、城壁を張り巡らして要塞化されたが、帝国の圧力を受けて1575年には大部分が放棄され、1594年には占領された。1638年の奪還後、17世紀後半に大修道院長マティアス・パルフィが修復をはじめ、18世紀はじめには大修道院長シャイゴ・ベネデックがバロック様式で改修を行った。修道院は活気を取り戻し、町や畑の再興にも貢献した。

18世紀後半のハンガリー王で神聖ローマ皇帝やオーストリア大公、ボヘミア王などを兼ねたヨーゼフ2世は啓蒙思想を奉じる啓蒙専制君主であり、科学の人だった。国家への貢献が乏しいと見たヨーゼフ2世は1786年にハンガリー国内のすべてのベネディクト会の修道院の閉鎖を命じた。1802年に医療施設や教育施設となることで存続が認められ、多くの修道院は近郊の町に移動し、主に中等教育を行う学校を運営した。しかし、パンノンハルマ大修道院はその場所を変えず院内に学校を開設し、修道院もそのまま存続した。

19世紀はじめに新しい図書館がオープンし、19世紀後半には修道院付属聖堂やクロイスター(中庭を取り囲む回廊)が改修され、1896年のハンガリー建国1,000周年にはミレニアム記念碑が建設された。1939~41年にはイタリア政府が中等教育学校と寮を寄贈し、現在の姿がほぼ完成した。

第2次世界大戦後に社会主義国家であるハンガリー人民共和国(1949~89年)が成立し、1950年に政府に接収された。修道院は文学系の学校として承認され、教育施設として存続しつつローマ・カトリックの教えを守り抜いた。1970年に町はパンノンハルマの名前で市に昇格している。

ハンガリーの民主化運動が進んで1989年にハンガリー共和国が成立すると修道院はベネディクト会に返還され、施設の修復・改修が進められた。これにより宗教施設としての機能を取り戻すと同時に、教育施設としての役割を引き継いだ。そして修道院1,000周年に当たる1996年に世界遺産リストに搭載された。なお、ハンガリー共和国は2012年にハンガリーに改名している。

資産の内容

世界遺産の資産は修道院の建造物群が立ち並ぶ聖マルティヌスの丘と、周辺の記念碑・礼拝堂・公園・植物園・農場・森林等で構成されている。

聖マルティヌス聖堂ともいわれる修道院付属聖堂は1224年に完成した初期ゴシック様式の教会堂で、現在の建物は3度目の再建と考えられている。地下の遺構やクリプト(地下聖堂)、一部の壁面は12世紀以前にさかのぼるもので、修道院の最初期の姿を伝える数少ない証拠となっている。聖堂最古級の施設がクリプトで、長方形の地下空間にはもともと聖マルティヌスの聖座が収められており、修道院長や著名人の埋葬地としても知られる。一例がオーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子オットー・フォン・ハプスブルクで、死後、自らの心臓をここに収めさせた。教会堂はバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)や交差六分のリブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)をはじめ初期ゴシックらしい特徴が見られる。

15世紀にマーチャーシュ1世が後期ゴシック様式で、19世紀には建築家・画家のフェレンツ・ストルノによってゴシック・リバイバル様式で増改築されており、内陣の天井などは前者、天井のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)などは後者の時代のものとなっている。修道院のランドマークである鐘楼は19世紀に聖堂の西1/3を破壊して増築したもので、新古典主義様式で5層、高さ55mを誇る。中世、聖堂への主要門となっていたのがスペキオサ門(ポルタ・スペシオサ)で、13世紀に建造された。赤大理石をベースに白大理石を組み合わせた洗練されたデザインで、ティンパヌム(タンパン。リンテルを飾る壁面装飾)に描かれた聖マルティヌスの騎馬像は19世紀に追加されたものだ。門を入るとマーチャーシュ1世が1472年に整備したゴシック様式のクロイスターが広がっており、各施設を接続している。

クロイスターの中心にあるパラディスムのパティオ(楽園の中庭)はパラダイスの楽園を再現したものとされる。バロック様式の食堂は1724~27年に築かれた2階建ての長方形ホールで、スイスのバロック画家ダヴィデ・アントニオ・フォッサティによる『旧約聖書』や『新約聖書』の食事のシーンを描いた壁画が名高い。同じくバロック様式の図書館はヨーゼフ・フランツ・エンゲルの設計で1824~35年に築かれたもので、4階建ての館内に40万以上の蔵書を有し、中世の貴重な写本も少なくない。

南の丘に立つ聖母礼拝堂は1714年に建設がはじまったバロック様式の礼拝堂で、もともとはハンガリー語以外を母国語とする人々のための教区教会だった。26×10.9mの単廊式(廊下を持たない様式)の教会堂で、1865年に内装等が新古典主義様式で改修された。クリプトは修道士の埋葬地として使用されている。

南西の丘に立つミレニアム記念碑は1896年のハンガリー建国1,000周年を記念してハンガリー国内に建てられた7つの記念建造物のひとつだ。ギリシア神殿を思わせる新古典主義様式の建物で、ファサード(正面)のポルティコ(列柱廊玄関)はイオニア式の円柱が堂々たるペディメント(頂部の三角破風部分)を掲げている。ペディメントやティンパヌムの彫刻群は彫刻家ベゼリーディ・ギュラの作品だ。もともと高さ26mの二重殻ドームを冠していたが、損傷が激しかったことから1937~38年に撤去された。

ベネディクト会パンノンハルマ校は中学・高校・音楽学校からなる学校コンプレックスで、修道院と同じ996年の創立と伝わっており、ハンガリーはもちろん中央ヨーロッパ最古の歴史を誇る。16世紀のオスマン帝国時代に学校の歴史は途絶えたが、奪還後の1690年に復活。1786年に一旦解散するも、1802年に学校として復帰した。戦後、国に接収された後、1950年に活動を再開し、ハンガリー人民共和国の時代もローマ・カトリックの寄宿学校としてありつづけた。

修道院や関連施設の周辺には公園や植物園・菜園・ハーブ園・ブドウ園などが広がっている。中世の修道院は修道士が修行を行う場であるだけでなく、周囲への宣教はもちろん、土地の開拓や産業の育成を担う機関でもあり、教育・医療・福祉施設としての役割も担っていた。一例がブドウやハーブ・薬草の栽培で、ワインや香料・香辛料・化粧品・薬品を生産することで町おこしも行った。パンノンハルマでよく知られるのが修道院ワイナリーで生産された白ワインやブランデー、ラベンダーから生産されたラベンダーオイルだ。これらは現在、パンノンハルマの名物としても知られている。こうした植物園や農場は修道院施設と伝統的なオークの森とともに美しい文化的景観を形成しており、修道院の美的価値を際立たせている。

■構成資産

パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境

■顕著な普遍的価値

登録基準=人類史的に重要な建造物や景観

パンノンハルマ大修道院とその周辺は特徴的な立地、環境とのつながり、特有の構造、1,000年以上にわたって継続的に使用されたキリスト教ベネディクト会修道院の組織を卓越した方法で表現している。

登録基準=価値ある出来事や伝統関連の遺産

ベネディクト会修道院はその立地と996年という早い創設時期により中央ヨーロッパにおけるキリスト教の普及を示す際立った証拠となっている。ベネディクト会の修道士たちは1,000年もの間、国家や人々の平和を目指して継続的な努力を続け、地域の発展に多大な貢献を行った。

■完全性

資産にはベネディクト会修道院の生活のすべての場が組み込まれており、歴史的な修道院コンプレックスの全体(大修道院の建造物群、修道院付属聖堂、教育施設、聖母礼拝堂、ミレニアム記念碑)と周辺の自然環境(大修道院の植物園、ハーブ園、公園、森林)を包含し、顕著な普遍的価値を示すすべての要素を含んでいる。ただ、全体としての文化的景観が評価されているものの、その特別な立地のため、資産からの眺望、あるいは資産を含んだ眺望は資産の境界線によって部分的にしか保護されていない。

■真正性

建物によっては損傷や破壊、時代やスタイルの変化によって何世紀にもわたって多くの改修を受けてきた。しかし、資産の建造物群は機能を拡張させながらもその連続性を維持しており、歴史的な層が順番に積み重なることで真正性が保証されている。20世紀後半に何段階かで行われた修復・再建作業は近現代の修復における国際基準を満たしており、ブドウ園、受付棟、レストラン、巡礼者棟、ハーブ園に対する最近の建築作業にも当てはまる。修道院の生活は約1,500年前にヌルシアのベネディクトゥス(聖ベネディクトゥス)によって著された『戒律』によって示されており、修道院ではいまなおこうした戒律を守った生活が営まれている。「祈り、働け “Ora et labora!”」という数百年前から続くベネディクト会の修道生活のモットーは現在も生きており、ベネディクト会修道士のもっとも重要な活動のひとつである青少年の指導・教育に活かされている。

■関連サイト

Millenary Benedictine Abbey of Pannonhalma and its Natural Environment(UNESCO)
Pannonhalmi Főapátság

パリ5区「国立中世美術館」通称「クリュニー美術館 (Musée de Cluny)」

国立中世美術館 ― クリュニー浴場および館 (Musée national du Moyen âge – Thermes et Hôtel de Cluny); 略称「国立中世美術館」; 通称「クリュニー美術館 (Musée de Cluny)」) は、パリ5区(カルティエ・ラタン)にある美術館で、中世の絵画、彫刻、宝飾品(金銀細工、象牙細工、琺瑯)、装飾写本、ステンドグラスなどの宗教美術品、タペストリー、家具などの工芸品を所蔵・展示している。

特に6枚の連作タペストリー『貴婦人と一角獣』、『黄金のバラ』、ガロ=ロマン時代の『船乗りの柱(フランス語版)』、柱頭、磔刑像・預言者像などで知られる。

敷地はガロ=ロマン時代に建てられた浴場跡であり(クリュニー浴場)、クリュニー館と呼ばれる建物は13世紀にブルゴーニュのクリュニー修道会の修道院長の別邸として建てられ、15世紀に全面的に修復・改装され、ほぼ現在の形になった。

浴場跡の一部は現在も展示室として使われ、建物外側にある部分はサン・ミシェル通りから見ることができる。常設展・企画展のほか、中世の楽器を使った音楽会なども行われている。

「私の心はヴァイオリンMon cœur est un violon 」は
19世紀のロマン派詩人ジャン・リシュパンJean Richepinの詩に基づいて、1945年に、ミアルカ・ラパルスリーMiarka Laparcerieが作った、いわば文学的シャンソンです。その年にリュシエンヌ・ボワイエLucienne Boyerが創唱。アンドレ・クラヴォーAndré Claveau 、イヴェット・ジローYvette Giraudも歌っていますが。ジャクリーヌ・フランソワJacqueline Françoisがお勧めです。また、ビング・クロスビーBing Crosbyがフランス語で歌っています。

Mon cœur est un violon           私の心はヴァイオリン
Lucienne Boyer                リュシエンヌ・ボワイエ

Mon cœur est un violon
Sur lequel ton archet joue 
Et qui vibre tout du long 
Appuyé contre ta joue
Tantôt l’air est vif et gai 
Comme un refrain de folie
Tantôt le son fatigué
Traîne avec mélancolie

  私の心はヴァイオリン
  その上をあなたの弓が戯れると
  全身で震えるのよ
  あなたの頬にもたれて
  ある時は 調べは生き生きと陽気で
  狂おしいルフランのよう
  またある時は けだるい音色が
  憂愁を伴いながながと響く

パリの6区 サン=ジェルマン=デ=プレ教会 (Église Saint-Germain-des-Prés)

現在の6区界隈は、幾世紀にも渡り、6世紀設立のサン=ジェルマン=デ=プレ修道院の強い影響下にあった。その結果、多くの宗教団がこの地区に居を構えていた。

1612年、王妃マリー・ド・メディシスはこの地の建物を買い上げ、建築家サロモン・ド・ブロス (Salomon de Brosse) に依頼して豪華なリュクサンブール宮殿に改装させた。宮殿は広大な王室庭園に囲まれた形となっていた。この宮殿および庭園の完成の影響で、この地区はにわかにフランス上流階級の集まる上品な地区へと変貌していった。

1950年代からは区内外に高等教育機関が集中し、また著名なカフェ(カフェ・ド・フロール、ドゥ・マゴ、ラ・パレット (La Palette) など)、および出版社(ガリマール出版社、ジュリアール出版社 (Éditions Julliard)、グラッセ出版社 (Éditions Grasset) 、エロール出版社 (Éditions Eyrolles) など)が区内外に集中して、パリの中でも戦後の知的・文学的ムーブメントの歴史的中心地となった。シュールレアリスム、実存主義、および現代的なフェミニズムなどはこの地において産まれた、あるいは育まれたと言うことができよう。

パリの6区は、市のほぼ中央にある行政区。「リュクサンブール区 (Arrondissement du Luxembourg)」と呼ばれることもある。セーヌ川の南岸に面しており、ルーヴル美術館の対岸にあたる区域である。

区の名称は、市の中央部から時計回りに螺旋を描くようにして各区に付けられた番号を基にしており、当区はその6番目にあたることから、「6区」と名づけられた。

5区から6区にかけての地域はカルチエ・ラタンと呼ばれ、大学など多くの高等教育機関が立地し、古くから学生街として知られている。6区には、国立高等美術学校(ボザール)、パリ第2大学(パンテオン・アサス)などがある。ほかに主要な施設としては、リュクサンブール宮殿 (元老院 (フランス上院))、サン=シュルピス教会、フランス学士院などがある。

なお、セーヌ川に沿った地域は、「パリのセーヌ河岸」として世界遺産に登録されている。

6区は街並みの景観の良さや注目すべき建築物の存在、そして伝統的に知的文化の中心地であり、なおかつパリの中心部に位置していることから、長きに渡ってフランスの知識人が多く住まう区であった。加えて今日では画廊やファッション・ブティックが多く立地しており、パリの中でも最も地価の高い地区のひとつであり、住民の収入額がパリで最も高い区のひとつでもある。5区、7区などとともに「セーヌ左岸」に属する。

6区は、パリのほぼ中央部、1区の南に位置しており、セーヌ川の南岸に面している。面積は2.15 平方キロメートルで、20区のうちで5番目に面積が小さい。

北は、セーヌ川を挟んで、同じパリの行政区である1区に接している。南は、”芸術の街” モンパルナス地区のある14区及び15区に接している。西は7区に接し、東は5区に接している。

“カルチエ・ラタン” は5区と6区にまたがり形成され、モンパルナス地区にも近いほか、サン=ジェルマン=デ=プレ地区にはサン=ジェルマン=デ=プレ教会や、ノートルダム大聖堂に次ぎパリで2番目の規模を持つサン=シュルピス教会が位置している。

老舗料亭 八勝館

八勝館

名古屋市昭和区広路町にある老舗料亭。

料亭八勝館は、名古屋の東の郊外の起伏に富んだ景勝地に所在する。
この場所には、明治時代前期に造営された、材木商柴田孫助の別邸があった。

1910年(明治43年)に料理旅館八勝館となり、
1925年(大正14年)には名古屋の経済人によって設立された株式会社八勝館の経営するところとなった。
その後、1977年(昭和52年)、経営体は株式会社八勝館となっている。

1950年(昭和25年) – 第5回国民体育大会に出席する昭和天皇が宿泊するため「御幸の間」を建設。
1951年(昭和26年) – 「御幸の間」が日本建築学会賞を受賞。
1999年(平成11年) – 「御幸の間」が日本の近代建築20選(現在はDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に選出。 
2020年(令和2年) – 建造物9棟と土地が国の重要文化財に指定。

建物
建物の配置は以下の通りである(以下の文中の太字の建物は国の重要文化財)。
西門を入ると、右手奥に玄関棟、その奥に松の間棟が建つ。
松の間棟の右手(西)には御幸の間棟、左手(東)には新座敷棟、そのさらに東に菊の間棟が建つ。
敷地の南側には池のある庭園が広がり、その中に田舎家と中門が建つ。
このほか、玄関棟の北側には新しい大広間棟と厨房棟が建つが、この2棟は重要文化財の指定対象外である。
さらに離れた北側には正門が建つ。
これらのうち玄関棟と松の間棟は柴田家別邸時代の明治中期の建築、新座敷棟と菊の間棟は料理旅館の施設として明治後期に建てられた。
田舎家は滋賀県甲賀の古民家を移築したものである。
柴田家別邸時代の建物は、材木商の別邸らしく、良材を用いた数寄屋建築である。
太平洋戦争後には、数寄屋建築研究の第一人者である堀口捨己の設計によって御幸の間棟の新築、新座敷棟の増築、菊の間棟の改修が行われており、数寄屋と現代建築の融合をめざした堀口の作風が随所にみられる。
門3棟はいずれも明治中期の建築とみられる。

御幸の間
堀口捨己設計の16畳の和室。
西面には4間の杉の面皮の床框(とこがまち)を据え、中央を床(とこ)、左右を床脇とする。
南面は付書院を設け、桂離宮の笑意軒にならった丸窓を設ける。
北側の次の間境の襖は摺箔(能装束)の裂を貼り合わせて山水を表現している。
天井は、南北軸の中央に一直線に障子を嵌め、その左右は棹縁天井とする。
照明器具は直接見えないように天井裏に設置され、前述の障子を通して室内を照らす。その左右の天井は場所によって棹縁の向きを変え、非対称のデザインになっている。

残月の間
「御幸の間」と同じ棟にある、堀口捨己設計の10畳の和室。
表千家の茶室「残月の間」の写しである。
北面の西側は床高を高めて2畳の上段とし、北面の東側には付書院を設ける。

文化財
以下の建造物9棟及び土地が2020年(令和2年)、国の重要文化財に指定された。

八勝館・9棟

玄関棟明治中期の建築。
式台、内玄関、玄関の間、応接室からなる。
松の間棟玄関棟の南に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。明治中期の建築。
1950年(昭和25年)に増築。
梅の間と次の間、松の間と次の間、席の間と次の間からなる。
このうち席の間と次の間の部分は増築である。
御幸の間棟松の間棟の西に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
1950年(昭和25年)、愛知国体にともなう昭和天皇行幸に際し、堀口捨己の設計で建てられた。
御幸の間と次の間、残月の間と次の間のほか、配膳室を設ける。
御幸の間から入側を隔てたところには月見台(ベランダ)を設ける。
新座敷棟玄関棟の南東に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
明治後期の建築。
1953年(昭和28年)、堀口捨己によって増築。
紅梅の間、白菊の間、蘭の間、竹の間、松の間と次の間からなる。
このうち松の間と次の間は増築である。
菊の間棟新座敷棟の北東に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
明治後期の建築。
1953年(昭和28年)、堀口捨己によって改修。菊の間と次の間、紅葉の間と次の間からなる。
田舎家敷地の南側に位置する。
1938年(昭和13年)に滋賀県甲賀地区の古民家を移築したもの。
正門明治時代中期の建築。
西門明治時代中期の建築。
中門明治時代中期の建築。
附:塀4棟正門東方、正門西方、西門南方、西門北方。土地宅地、山林10,365.41平方メートル。

※ 出典:各建物の建築年代と間取りについては、文化庁文化財第二課「新指定の文化財」『月刊文化財』687、第一法規、2021年、pp.47 – 55による

マドリードのカバ・バハ(Cava Baja)通り

美食の国とも言われるスペインへの旅行では、食事が楽しみのひとつになることでしょう。中でも、短い滞在で沢山のお店や食材、味に触れられる「バル巡り」は特にお勧めです。こちらの記事では、スペイン初心者でも楽しめるバル巡りのコツとおすすめのバル通りやバル料理をご紹介します。バル巡りでマドリードならではの雰囲気と食事を楽しみましょう。

マドリードのおすすめバル通り「カバ・バハ通り」

マドリードには地元の人も訪れるバル通りがいくつもあります。その中でもバル巡り初心者におすすめなのが、活気あふれる中央広場「マヨール広場」から5分ほど坂を下ったところにある老舗のバル通り「カバ・バハ通り」です。300mほどの小道に50軒以上ものお店が並んでいて、観光客でも気取らずに入ることができるのが魅力です。新旧さまざまなお店があるので、気になるお店をはしごするのも楽しいでしょう。地元の人に人気の生ハム専門店やキノコ専門店の他、スペイン各地の名物を提供するバルが多いのもマドリードバル巡りの魅力の一つです。

マドリードのバルの楽しみ方

現地ではタペオ(Tapeo)と呼ばれる「バルのはしご」。1杯のお酒とおすすめのおつまみを食べたら、次のお店へ行くバル巡りは観光客でも気軽に楽しめるのが魅力です。お店の中を覗き、カウンター席の下が紙ナプキンや爪楊枝で散らかっていたら喜んでください。床に落ちたゴミが多ければ多いほど美味しくて人気がある証拠。スペインのバル文化では、カウンター席ではごみを床に落とす人が殆どです。床が散らかっているお店に入ったら、思い切って真似してみるのも面白いでしょう。定番料理を食べ比べたり、オリジナル料理に舌鼓を打ったり、バル巡りは楽しみがいっぱいです。

バルでのルール&注文方法

事前にバルでのルールをチェックしておきましょう。まず、お店に入る時と出る時には必ず挨拶をすることです。入る時は「オラ!」、出る時は「グラシアス!」と声をかければお互い気持ちよく過ごせるでしょう。注文方法は、カウンターまたは店員を呼んで指差しでOKなので、会話ができなくても心配いりません。メニューがない場合は、カウンターの料理や他の客の料理を指差しても良いでしょう。会計はテーブルで現金かクレジットカードを使って支払います。基本的にチップは不要ですが、何か特別なサービスを受けたら飲食代の10%を渡しましょう。

バル巡りで味わいたいおすすめ料理

マドリードでは「とりあえずベルムー(日本で言うベルモット)で乾杯」が主流です。タパスと呼ばれる一皿料理では、日本でも馴染みのあるアヒージョやパエリヤの本場の味を食べてみましょう。スペインの伝統卵料理トルティージャも欠かせません。また、パンにおかずを乗せて串で刺したピンチョスは、イベリコ豚の生ハムやサーモン、マグロのたたき、野菜類やチーズなど、一口サイズのスペインおつまみをお楽しみください。スペイン各地の名物ピンチョスを食べ比べするのもまた乙です。お店ごとに異なる味わいを楽しみながら、バル巡りを楽しみましょう。

マドリードのバル巡りで地元の雰囲気を楽しもう!

初めてのスペイン旅行では一見難しそうなバル巡り。実際にはそんなに敷居が高くなく、多くの観光客がバル巡りを楽しんでいます。基本的なルールだけチェックしておけば、初めてでも安心です。スペイン各地の名物や個性、食文化が共存するマドリードならではの、贅沢なバル巡りをお楽しみください。