大原 三千院

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦年間(782年 – 806年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)の梨の大木の傍に一宇を構え、「円融房」と称したのがその起源という。後の「梨本門跡」の名はこれに由来している。

その地に貞観2年(860年)、承雲和尚が最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、円融院と称した。承雲はまた、比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)の梶井に円融院の里坊(山寺の僧が山下の人里に設ける住まい)を設けた。応徳3年(1086年)には梶井里に本拠を移し円徳院と称した。梶井の地名と、加持(密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、後に寺を「梶井宮」と称するようになったという。

元永元年(1118年)、堀河天皇第三皇子(第四皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。最雲法親王は大治5年(1130年)、第14世梶井門跡となった。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王(尊雲法親王)も入寺したことがある。

最雲法親王は保元元年(1156年)、天台座主(天台宗の最高の地位)に任命されたが、同じ年、比叡山の西麓の大原に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。政所は極楽院(現・往生極楽院)に隣接して建立された。

大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。
文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(844年 – 897年)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。
藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。
大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073年 – 1132年)も大原に住んだ。
山号の魚山は魏の曹植が陳の魚山に遊んだ際に、空中より聞こえた梵天の讃を筆を執って写し梵唄と名付けたという、声明発祥の故事にちなんだものである。

坂本の梶井門跡は貞永元年(1232年)の火災をきっかけに今の京都市内に移転した。洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた。この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱(1467年 – 1477年)で焼失し、大原の政所を本坊とした。

元禄11年(1698年)、江戸幕府将軍徳川綱吉は当時の門跡の入道慈胤親王(後陽成天皇皇子)に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えた。これにより、本坊は大原から移転した。このため、以後近世を通じて梶井門跡は公家町の一角であるこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学とその附属病院が建っている。

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗(仏門を離れる)して新たに梨本宮家を起こし、公家町(京都御所周辺の寺町広小路)の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所は新たな本坊となり「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである(「一念三千」については当該項目を参照)。その際、隣接して建てられていた極楽院を吸収合併して境内に取り込んでいる。

宮中御懺法講(きゅうちゅうおせんぼうこう)は、保元2年(1157年)に後白河天皇が宮中の仁寿殿にて初めて行った仏事で、法華経を読誦し、悪行を懺悔し、罪障消滅を祈る法要である。代々、梶井門跡の門主がこの法要の導師を務めることが慣例になっていた。明治新政府が宮中での仏事を禁じたため、この行事は一旦絶えたが、その後1898年(明治31年)に大原の地で復活した。宸殿が1926年(大正15年)に建立されてからは宸殿で行われるようになった。1979年(昭和54年)に明治天皇70回忌法要を三千院で行ってからは毎年5月30日、三千院宸殿で御懺法講が行われている。

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