京都東山の清水寺、山号は音羽山、本尊は千手観音、開基は延鎮である。標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に、石垣を築いて整地された境内には多くの建物が軒を接するように建ち並ぶ。もとは法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗り、西国三十三所観音霊場の第16番札所。
入口の仁王門を過ぎると、西門、三重塔、鐘楼、経堂、開山堂、朝倉堂などを経て本堂に、そして、本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。本堂東側の石段を下りた先には名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちる「音羽の滝」、これが寺名の由来でもあると云う。
音羽の滝からさらに南へ進み、「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先には塔頭寺院の泰産寺があり、「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔がある。北には清水寺本坊の成就院がある。
清水寺創建は延暦24年(805年)、太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜る。弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。伝承については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などに見ることができる。
『枕草子』では「さわがしきもの」の例として、清水観音の縁日が挙げられているほか、『源氏物語』の「夕顔」の巻、そして『今昔物語集』にも清水観音への言及があり、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。
豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領は継承された。
近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営され、「三職」とは寺主に当たる「執行」副寺主に当たる「目代」寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し執行職は宝性院目代職は慈心院本願職は成就院がそれぞれ務めた。
「六坊」はこれに次ぐ寺格を有し義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院。このうち、宝性院は仁王門北方に現存する。慈心院は本堂のみが随求堂として残る。成就院は中興の祖である大西良慶が住坊とした所で現在は清水寺本坊。
「六坊」の6か院はいずれも境内南方にまとまって所在したこのうち真乗院は織田信長によって廃絶され、以後は成就院によって寺籍のみが継がれていた。義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃仏毀釈の時期に廃絶し、現在は延命院が残る。