ポーランド南部にある都市クラクフは、ヴィスワ川の上流に位置し、市街地はヴァヴェル城を中心として川の両岸に広がり、人口は約75万、ワルシャワ、ウッチに続く第3の規模である。17世紀初頭ワルシャワに遷都するまではクラクフがポーランド王国の首都であった。
ポーランド王国成立以前は西スラブ民族のVistulans部族が定住し、その後、モラヴィア王国となる。このモラヴィア王国はハンガリー人に倒され、クラクフはボヘミア王国となる。13世紀、モンゴルの襲撃でいったん破壊されるも、14世紀よりクラクフは最盛期を迎える。
モンゴルの襲撃による街の破壊と人口減少後、14世紀、カジミェシュ大王は積極的にユダヤ人を招き入れ河川を利用した運送に適した広い土地を彼らの自治都市として提供する。
コペルニクスが大学生として通った大学として知られるヤギェウォ大学、現在のクラクフ大学 が創設される。
17世紀前半の三十年戦争、18世紀前半の大北方戦争で国土は荒廃し、18世紀後半には3度のポーランド分割によって国家自体が消滅し、クラクフはハプスブルク君主国のオーストリア領ガリツィアとなる。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツにより、ポドグジェ地区にクラクフ・ゲットーが創設される。
オスカー・シンドラーが経営していた工場は、クラクフ・ゲットーのユダヤ人を労働者として雇っていたが、工場のユダヤ人労働者が強制収容所に連行される時、彼らを連れ戻しモラヴィア地方のツヴィッタウにある自分の工場へと送った。
クラクフはポーランド国内でも多くのユダヤ人が在住した街で、ホロコーストや反ユダヤ主義から逃れるため、アメリカやイスラエルなどへ移住した。
カジミェシュ地区では毎年7月初旬、ユダヤ人による「シャローム」祭が開催され、ポーランドから移住していったユダヤ人が訪れる。
allemande BWV996 〜 クラクフ歴史地区 (ポーランド)