安土城址

JR安土駅の北東、標高199mの安土山一帯にある織田信長の居城跡で、天正4年(1576年)から信長が約3年の歳月をかけて完成した。国指定の特別史跡で、平成元年より20年計画で学術調査と整備事業が行われている。

1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城が開始しされ、1579年(天正7年)5月、完成した天守に信長が移り住むも、同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスは著書『日本史』に記している。

城郭遺構は安土山の全体に分布し、当時の建築物では仁王門と三重塔が城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残る。天主跡と本丸跡には礎石が、また二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長廟が残る。

天主閣跡から東へ少し下った黒金門跡付近には壮大な石垣、山の中腹には家臣団屋敷跡、山の尾根づたいに北へ行くと八角平や薬師平がある。城山の中心部への通路は、南正面から入る大手道のほかに、東門道、百々橋口道、搦手道などがある。城内の道は敵の侵入を阻むため、細く曲がりくねって作られるが、大手門からの道は幅6mと広く、約180mも直線が続き、軍事拠点としての機能より政治的な機能を優先させて作られたと推定される。

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があり、明智光秀の配下で近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田氏が居城していたが、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守を初めて持つ城郭となった。

地下1階地上6階建て、天主の高さが約32メートルと、それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されていて、建造当時は郭が琵琶湖に接していたという。

城の外面は各層が朱色・青色・あるいは白色、そして最上層は金色で、内部は、狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や、金碧極彩色で仕上げた部屋などがあり、当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られたといわれている。

安土城は総石垣で普請され、初めて石垣に天守の上がる城となり、その築城技術は近世城郭の範となり、普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」は、その後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城が全国に広がったと云われる。

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