藤原氏ゆかりの寺院、平等院は京都府宇治市にあり、山号を朝日山と称し、本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院で、平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝える「古都京都の文化財」として世界遺産に登録される。
京都南郊の宇治は『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台でもあり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。
平安時代後期になると、「末法思想」が広く信じられ平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たった。当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。
『観無量寿経』の一節に、「若欲至心生西方者、先当観於一丈六像在池水上」(若し至心に西方に生まれんと欲する者は、先ず当(まさ)に一の丈六の像池水の上に在(いま)すを観るべし)とある。
鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画や供養菩薩像、周囲の庭園などは『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、現世の極楽浄土として造られたことは間違いないが、そうした浄土教、末法思想という観点のみから平等院や鳳凰堂をみることは一面的な理解であるという指摘もある。
平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいたが、貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。
建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続し、平等院の境内は現在のような景観になった。