イースター島

イースター島はチリ領の太平洋上に位置し最も近い有人島まで直線距離2000km余、周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島、火山島である。現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)、ポリネシア・トライアングルの東端に当たりモアイの建つ島として有名で、島の人口は約4000人、チリ海軍が駐留し数ヶ月に1度は物資とともに海兵隊もやって来る。

鉄道は敷設されていないが主要道路については舗装されている。主な公共交通手段は乗り合いバスもしくはタクシーで、観光客には、レンタカー、レンタルバイクも利用されることが多い。レストラン、ホテル、ディスコ、ガソリンスタンド、ビデオレンタルショップ、学校、病院、博物館、郵便局、放送局等の施設が整っていて暮らしは至って現代的である。

最初の移民が辿り着いたのは4世紀~5世紀頃だとされ、遥か昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派、いわゆるポリネシア人と思われる。火山島であるため豊富な凝灰石を石器で削って巨大な石像を彫り上げ、海岸線に散在する「アフ」と呼ばれる祭壇に運んで並べ、宗教儀式を行った。

資源もない小さな島では宗教祭祀が人々の生活の大きな部分を占め、類例のない祭祀文化が発達した。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行き島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイも作られていった。

島の全周は60kmほどの小さな島であるが、1600年頃には人口1万人に達しようとしていたと言われている。人口の増加で、火を起こすための薪や家のために木を伐採し、モアイを作ったり運んだりするために木を伐採して丸太にし、あるいは船を作るためにも木を伐採した。肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰え、人口爆発と深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じるようになり部族抗争が頻発、果ては食人にまで及んだといわれる。

モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。1774年、クック船長が訪れた時、島民が武器を手にして闘っているのが目撃されており、当時の人口は約600人だったとされている。この時は、各部族の象徴と考えられていたモアイのほとんどは、力の宿る眼の部分を潰され、引き倒され、文明の終末を物語る風景であったと伝えられる。

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