世界遺産 バルパライソの海港都市とその歴史的な町並み(チリ)

太平洋に面した港湾都市バルパライソは、日本語に訳すと「天国の谷」の意味で、迷路のように入り組んだ歴史のある美しい街並で知られる。2003年に、UNESCOの世界遺産に「バルパライソの海港都市とその歴史的な町並み」として登録された。

国会が所在し、チリの立法府としての役割を果たしている。バルパライソは急な斜面に多数の建築物、家屋が立ち並ぶ町並みに特徴がある。斜面を重力のみによって登り降りするアセンソール(Ascensore)と呼ばれる乗物があるが、スペイン語でエレベータの意である。アセンソールは19世紀から市民の足として利用され、最も急なアセンソールでは50度を越える傾斜を昇降する。

最初にバルパライソ湾周辺に住みついた民族はインディオのピクンチェ族と思われ、彼らは農業で生活を営んでいた。1536年、最初にチリを発見し探検をしたヨーロッパ人であると考えられているディエゴ・デ・アルマグロによって送り出された補給船「サンティアギーリョ号(Santiaguillo)」に乗ったスペイン人探検家がこの地にたどり着いた。

この補給船は、フアン・デ・サアベドラ(Juan de Saavedra)の命で、アルマグロの遠征のための人員と物資を運んでいた。サアベドラは彼の生まれ故郷であるスペイン、クエンカ県にあったバルパライソ・デ・アリバ村にちなんで、この場所をバルパライソと名づけた。1818年にチリがスペインから独立すると、街は設立間もないチリ海軍の主要港となり、それまではスペインとその植民地のみに制限されていた国際貿易の制限も解除され、他国にも開かれた。

1834年7月23日、ダーウィンを乗せたイギリス海軍のビーグル号が本地に到着した。ほどなくして、バルパライソはマゼラン海峡やホーン岬を経由して南米大陸を廻る船にとって望ましい経由地となった。1848年から1858年に起きたカリフォルニアのゴールドラッシュでは、物資を供給し、これを支援するために重要な場所となった。

1906年8月18日、大地震がバルパライソを襲い、様々な物的な損害が出て、数千人の犠牲者を出した。バルパライソの商業的な繁栄期は、1914年のパナマ運河の開通後に終わりを迎えた。マゼラン海峡通過のリスクを避けるために、船舶はパナマ運河を通過するようになった。港の使用や船の交通量が激減し、街の経済は衰退し、パナマ運河完成後は重要度が低下し、人口減少が続いた。

1990年には首都サンティアゴより国会が移転した。2010年2月27日に起きた地震で、街は被害を受けた。2014年4月12日に大規模な山火事が発生、2500戸以上の家屋が焼失した(バルパライソ大火)。

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