古くから醸造業がさかんであった半田、今も伝統が受け継がれ、多くの名酒を生産し、ビールの製造も早くから手がけていた。
明治20年(1887年)、四代目中埜又左衛門と盛田善平(後に、現在の敷島製パンの前身である敷島屋製粉場も開業)によって丸三麦酒醸造所で始められた。
明治22年には「丸三ビール」として3000本を初出荷した。
その後、明治29年(1896年)、北海道のサッポロ、東京のエビス、横浜のキリン、大阪のアサヒに対抗して、丸三麦酒株式会社が設立された。
本格的ドイツビール製造に向け、ドイツゲルマニヤ機械製作所による「完全なるビール醸造器械」を買い入れ、ドイツ人醸造技師を招き、新工場が建設された。
これが半田赤レンガ建物。
銘柄も、カブトビールと改められ、明治33年のパリ万国博覧会には、金牌を受賞するほどの品質を誇った。
その後、社名も「加富登麦酒株式会社」改められ、カブトビールは東海地方では最大のシェアを持っていた。
カブトビールの名称の由来
ビールは日本酒と違って喉でのむといわれていますが、喉で勢いよく飲むことを「カブル」ということから、なまって「カブトビール」になったなど諸説ある。
また、日清戦争後でもあることから、勇ましい「兜」の商標を採用したともいわれている。