アルノルフィーニ夫妻像

『アルノルフィーニ夫妻像』(Portret van Giovanni Arnolfini en zijn vrouw、英: The Arnolfini Portrait)は、初期フランドル派の画家、ヤン・ファン・エイクが1434年に描いた絵画で、精緻な油絵の嚆矢として、西欧美術史で極めて重要視されている作品である。

合計3枚のオークのパネル(板)に油彩で描かれたパネル画で、日本では『アルノルフィーニ夫婦像』、『アルノルフィーニ夫妻の肖像』などと呼ばれる。

イタリア人商人ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニ (en:Giovanni Arnolfini) とその妻を、フランドルのブルッヘにあった夫妻の邸宅を背景として描き、作品にこめられた寓意性、独特の幾何学的直交遠近法、背面の壁にかけられた鏡に映し出される反転した情景など西洋美術史上でも極めて独創的で複雑な構成を持つ。美術史家エルンスト・ゴンブリッチは、「イタリアのルネサンスにおけるドナテッロやマサッチオの作品と同じように、新たな境地を開いた革命的といえる作品である。魔法のように現実の室内がパネルに再現されている。事物をありのままにとらえることが出来る、完璧な観察眼を持った史上最初の芸術家である」としている。作者ファン・エイクのサインが1434年の日付とともに記され、同じくファン・エイクと兄のフーベルト・ファン・エイクが描いた『ヘントの祭壇画』とともに、パネルに描かれた油絵としてはもっとも古い。ロンドンのナショナル・ギャラリーが1842年に購入し、それ以来ナショナル・ギャラリーが所蔵している。

日本のゴーギャン・田中一村

田中一村(1908年7月22日 – 1977年9月11日)は、奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた日本画家で本名は田中孝。

栃木県に生まれ、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学し将来を嘱望されながらも、病気、生活苦の中で中央画壇とは一線を画し清貧の中で画業に励む。若くして南画に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。

また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き、『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。50歳の時に南の島々の自然に魅せられ奄美大島に移り住む。

大島紬の工場などで働きながら衣食住を切り詰め、不遇とも言える生活の中で奄美を描き続けた。没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。

南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。2001年、奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」がオープンした。

大下藤次郎 (明治時代の日本の水彩画家)

明治時代の日本の水彩画家、大下 藤次郎(明治3年7月9日(1870年8月5日) – 明治44年(1911年)10月10日)は、日本各地の風景を描きながら水彩の教育普及活動にも取り組み、「水彩画のパイオニア」(美術館サイトより)としての地位を確立した。

1870年 東京で、旅人宿・馬宿・馬車問屋を営む家に生まれる。最初期は外国人向けの横浜写真を参照しながら水彩を始める。19歳のころ、家業を手伝うかたわら美術界へ進むことを決意。1891年より中丸精十郎に,94年から原田直次郎に師事。

1898年、半年ほどオーストラリアへ写生旅行にゆく。

1902年渡米し,翌年帰国。外光派の水彩画を確立し、水彩画研究団体の春鳥会を創立,05年絵画雑誌『みづゑ』を発刊して水彩画の普及に努めた。

1907年 日本水彩画研究所を設立し、第一回文展に『穂高山の麓』を出品。

1909年 甲州・白峰山(南アルプス北岳)をめざした山旅に出る。この山旅から紀行文『白峰の麓』と水彩画「西山峠」(島根県立石見美術館所蔵)が生まれた。

1911年 瀬戸内などを旅した末、突然の病に倒れ、死去。

琳派 京を彩る

琳派誕生400年記念[特別展覧会]が、京都国立博物館(東山七条)で、2015年10月10日から11月23日まで開催される。

いまから400年前、1615年、京都・鷹峯の地に本阿弥光悦が徳川家康から土地を拝領し、工芸を家業とする親類縁者を集め、芸術家の村「光悦村」を作ったのが「琳派」のはじまりとされ、俵屋宗達、その百年後には尾形光琳、乾山の兄弟が現れ、また百年後に酒井抱一が継いでいった。

「琳派」という流派名は、光琳の名の一字をとって近代の研究者が作った略称で、彼らに直接の師弟関係はなく、宗達を光琳が、光琳を抱一が、それぞれ発見し私淑し、その意匠を取り込み、自分の芸術として発展した。

日本美術史の中でも独特の成立、発展をした「流派」ではなく「様式」だったと言える。「風神雷神図屏風」は、宗達・光琳・抱一の三者が描いていて、一見同じようでありながら、三者それぞれの個性を秘めている。本展では、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面のために抱一が描いた「夏秋草図屏風」が花を添えている。

清水寺縁起絵巻

東京国立博物館には、室町時代・永正年間に土佐光信により描かれたと伝えられる紙本著色清水寺縁起が収蔵され、重要文化財に指定されている。

京都・清水寺の創建と本尊千手観音にかかわる縁起を、観音三十三応化身にちなんで、3巻33段にまとめた絵巻。

上巻

僧賢心(のちの延鎮)の発心、坂上田村麻呂との清水寺創建から、田村麻呂の蝦夷討伐までが描かれる。蝦夷の大軍に対した田村麻呂の前に、清水観音の両脇侍が老人、老僧に姿を変えて現れ、援護するなどの霊験が語られる。

中巻

再び押し寄せる蝦夷の軍勢を火雷、霹靂などが追い払い、田村麻呂が凱旋し、清水寺の再建と弘仁2年(811)の彼の死までを描く。激しく荒れる海原の上空で稲妻を走らせる雷神の段は、本絵巻の名場面として知られている。

下巻

本尊千手観音のさまざまな奇瑞霊験譚が描かれる。上中巻にみるような蝦夷との合戦場面はほかに類例がなく、16世紀はじめころにおいて畿内の人間がイメージした「蝦夷」の姿を伝える記録としても重要である。

大塚国際美術館 (The Otsuka Museum of Art)

陶板複製画を中心とした博物館である大塚国際美術館は徳島県鳴門市の鳴門公園内にある。大塚製薬グループの創業75周年事業として1998年(平成10年)に開設され、運営は一般財団法人大塚美術財団で、とくしま88景に選定されている。

国立新美術館(2007年(平成19年)開館、47,960m²)に次ぐ美術館(延床面積29,412m²)で、面積では日本第2位の美術館建築である。大塚グループの企業、大塚オーミ陶業株式会社が開発した特殊技術により、世界中の名画を陶器の板に原寸で焼き付けて再現された作品が展示される。陶板複製画は、風水害や火災などの災害、光による色彩の退行に非常に強いため約2,000年以上そのままの色と形で残るので、文化財の記録保存のあり方に大いに貢献すると期待されている。

大塚国際美術館では写真撮影が可能で、直接作品に手を触れられる。また、今となっては現存しない作品(修復前の、レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』・戦火で失われたゴッホの『ひまわり』)や戦災等で各地に分散されている作品(エル・グレコの大祭壇衝立)を復元するなどの試みも行われている。板を組み合わせることで大型化にも対応できるので、ミケランジェロの『最後の審判』もオリジナルの展示環境全体を再現したシスティーナ・ホールに展示されている。

鑑賞ルートは、地下3F~地上2Fまで約4km、主な展示作品は世界25ヶ国・190余の美術館が所蔵する西洋名画1,000余点をオリジナルと同じ大きさに複製し展示している 。

B3F
システィーナ・ホール、スクロヴェーニ礼拝堂、フェルメールの部屋、聖マルタン聖堂壁画、聖ニコラオス・オルファノス聖堂、聖テオドール聖堂、貝殻ヴィーナスの家、エル・グレコの部屋、ポンペイの「秘儀の間」など

B2F
モネの大睡蓮、バロック系統展示(レンブラント「夜警」など)、ルネサンス系統展示(ダ・ヴィンチ「モナリザ」「最後の晩餐」(修復前と修復後)・ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」など)

B1F
ゴヤの家、バロック系統展示、近代系統展示(ゴッホ「ひまわり」・エドヴァルド・ムンク「叫び」・ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」・ジャン=フランソワ・ミレー「落穂拾い」など)

1F
現代系統展示(パブロ・ピカソ「ゲルニカ」など)

2F
現代系統展示
これらの陶板複製画約1,000余点は、ピカソの子息や各国の美術館館長、館員が来日し検品を行っている。

公式HPで詳細な展示作品リストが公開されている。

ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)

1841年フランスのブールジュに生まれる。

ウーディノ、コローらのもとで絵画を学び、マネやルノワールら印象派の画家たちとの交流を通じ独自の絵画技法を編み出す。

男性中心の19世紀における印象派画家の一人で、美術史においても数少ない女性画家である。

パステルカラーの色合いで対象物を写真の一風景のように捉える構図、そして、大胆な筆さばきが特徴。

マネとは非常に親しい間柄マネの絵画のモデルとしても知られ、後にマネの弟ウジェーヌと結婚し娘ジュリーをもうける。

後年の作品はこの娘ジュリーや、夫であるウジェーヌを題材にした牧歌的な作品が多い。

モリゾ家はロココ時代の画家ジャン・オノレ・フラゴナールの家系と言われ、モリゾが好んで描いたモチーフは、自らの周囲、当時の上流階級の優雅な生活の風景が多く、風俗画の伝統を受け継いでいるという一面もある。

晩年にいたるまで盛んに製作を行い、画家ではマネやルノワール、画家以外ではマラルメと盛んに交流を行った。

1895年に54歳で死去。

ジャン・フレデリック・バジール

フランスの印象派画家、ジャン・フレデリック・バジール(Jean Frédéric Bazille
1841年12月6日 – 1870年11月28日 )は、ラングドック=ルシヨン地域圏・エロー県のモンペリエで裕福なプロテスタントの家庭に生まれた。

ウジェーヌ・ドラクロワの作品を見て絵画制作に興味を持ち、医学も同時に勉強するという条件つきで、1862年、パリに出た。

ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーと会い印象派絵画に引き寄せられる。

医学の試験に失敗した後は絵画に専念し、親しく付き合った友人には、クロード・モネ、アルフレッド・シスレー、エドゥアール・マネがいる。

バジールの作品の多くは人物画で、風景の中に主題の人物を配置する。

バジールは裕福で気前がよい性格で、困っている友人たちに自分のアトリエや画材を使わせたりして支援を惜しまなかった。

サロン・ド・パリに落選したクロード・モネの『庭の女たち』を2,500フランで買い取り、月に50フランずつの分割払いにして援助した。

普仏戦争で、28才で戦場に斃れた。

アレクサンドル・カバネル (Alexander Cabanel)

フランスの新古典主義・アカデミー画家、歴史画家、肖像画家であるアレクサンドル・カバネル (Alexander Cabanel、1823年9月28日 – 1889年1月23日)は、正確なデッサンで甘美で官能性に溢れた神話的女性像を手がけ名声を博す。

新ロココ様式とも呼べる画風の『ヴィーナスの誕生』は、時の皇帝ナポレオン3世が購入するほどの高評価を得た。

カバネルは典型的なアカデミー的作風で成功したため、同時代の印象派の画家らから敵対視され、印象派の陰となり評価が不当に低くなっていた。

そのため現在も研究が進んでおらず、多くの代表作が行方不明となっている。

1823年パリに生まれ、1840年から五年間パリ国立美術学校でアカデミックな絵画を学ぶ。

1841年、サロン初出展、1845年にはローマ賞し、イタリアへ留学。

1863年、アカデミー会員選出など、順調に地位を確立し、フランス支庁舎の装飾など公的な注文を受けるなど、数々の名誉を得た。

1889年、生地であるパリで死去。

代表作

モーゼの死(1851年)ニューヨーク、ダヘッシュ美術館

ニンフとサチュロス(1860年)私蔵

ヴィーナスの誕生(1863年)パリ、オルセー美術館

フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの死(1870年)パリ、オルセー美術館

Keller伯爵夫人(1873年)パリ、オルセー美術館

フェードル(1880年)モンペリエ、ファーブル美術館

オフィーリア(1883年)私蔵

カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵夫人(1887年)イギリス、ケドルストン・ホール

有罪の囚人で毒を試すクレオパトラ(1887年)私蔵

Eve After the Fal 私蔵

アダムとイヴの楽園追放 私蔵

アール・ポンピエ(L’art pompier)は、 Pompéin(ポンペイ)、pompeux(もったいぶった)の洒落とも言われている。

19世紀後期、フランスの格式ばったアカデミック絵画、とくに歴史画、寓意画を指す言葉で、侮蔑的に使われた。

直訳すると、「消防士の美術」で、当時のフランスの消防士がかぶっていた、馬の尻尾の毛のついた風変わりなヘルメットに由来する。

このジャンルの作品の中に出てくる、寓意的な化身、古代ギリシア・ローマの戦士、ナポレオンの騎兵のかぶっていたギリシア式のヘルメットによく似ていたことによる。

ポンピエ美術は、ブルジョワジーの嗜好を具現化したもの、偽りのもの、誇張と見られていた。しかし、このジャンルの絵を支持する人は、この言葉を忌み嫌った。

パリのオルセー美術館では、アール・ポンピエが、当時の印象派、写実主義と同等に展示され、アール・ポンピエは再評価を受けている。

徳力富吉郎版画館 (伊勢、おかげ横丁)

木版画家の徳力富吉郎氏は京美工卒後、土田麦僊塾に学び日本画で国展樗牛賞・国画賞を受賞する。自画・自刻・自摺りによる創作木版画を手がけ、平塚運一・棟方志功らと同人誌「版」を、麻田弁自らと「大衆版画」を発行する。

版画制作所を設立し、浮世絵方式による量産も行いニューヨーク等海外個展多数開催する。代表作に全紙判版画「京百景」等があり、茶人・粋人としても著名で、平成12年(2000)歿、98才。

木版画家徳力富吉郎氏の記念館が、伊勢市宇治中之切町52 おかげ横丁内にある。

おかげ横丁は伊賀上野にある「清雅堂」という骨董屋がモデルの建物で、軒先が低く母屋に蔵がついた伊賀地方独特の商家の様子を残す。山口誓子俳句館も併設され、投句箱が設けられ毎月入選句が掲示される。

赤福餅の中には、徳力富吉郎さんの作品『伊勢だより』が日替わりで入っている。