モナコ公国

神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世から1191年にこの土地を与えられたジェノヴァ共和国は、1228年に現在のモナコを建設した。

1297年、ギベリン(皇帝派)に占領されていたモナコの要塞に、フランシスコ会の修道士姿に変装し法衣の下に武装して侵入したフランソワ・グリマルディらは、要塞の占拠に成功した。グリマルディは、現在のモナコ公家であるグリマルディ家の始祖である。そのため、グリマルディは、「狡猾な男」とあだ名される。

1419年、グリマルディ家はアラゴン王国からモナコを購入し、正式な支配者となる。

1528年、アンドレア・ドーリアがジェノヴァの貴族層と庶民層の合体を企て、そのために政権を特定の28氏族へ集中させた。グリマルディ家はその一つに数えられた。また、1612年から prince の称号を自称し始めた。オノレ2世の時代にはフランス王ルイ13世の保護下に入ることでスペイン(アラゴン王国の後身)の支配を抜け出し、歴代のモナコ公は独立君主であると同時にフランス王の臣下(ヴァランティノワ公爵)として宮廷で高い地位を占めた。

18 – 19世紀
1793年、フランス革命軍がモナコを占領・併合した。1814年までモナコはフランス第一帝政の直接支配下におかれた。1815年に催されたウィーン会議の結果、モナコはサルデーニャ王国の保護下に入った。サルデーニャはジェノヴァの後継である。

1858年のプロンビエールの密約で、サルデーニャは、イタリア統一運動をフランスに支援してもらう代償として、1860年にはサヴォワ(サヴォワ県とオート=サヴォワ県)とニース伯領(アルプ=マリティーム県)をフランスに割譲する。モナコ公の課す重税に倦み、サルデーニャへの併合を希望するマントンとロクブリュヌは、モナコからの独立を宣言する。

シャルル3世は1861年、フランス・モナコ保護友好条約を締結、領土の95%にあたるマントンとロクブリュヌをフランスに売却し、見返りにモナコ公国の主権を回復した。

20世紀
1911年、憲法を制定したことで立憲君主制となるも、モナコ大公は依然として絶対君主として振る舞い、アルベール1世はすぐに憲法を停止した。第一次世界大戦が勃発すると大公子ルイ(後のルイ2世)はフランス陸軍に志願、軍功をあげ将軍に上り詰めた。

1918年、保護友好条約を再締結、フランスの保護国となった。ヴェルサイユ条約などの第一次世界大戦の講和条約においては、この条約を各国が承認する規定が設けられている。

1922年、ルイ2世が即位する。モナコを文化・観光都市にする試みを続け、モナコ・グランプリの開催、ASモナコの創設などを行った。
第二次世界大戦中の1943年にイタリア軍がモナコを占領し、ファシスト政権を樹立した。ベニート・ムッソリーニの政権が崩壊すると、今度はナチス・ドイツのドイツ国防軍が占領した。ドイツは同地でもユダヤ人の迫害を行った。

ルイが1949年に死去すると、孫のレーニエ3世が即位した。1956年にはハリウッド女優のグレース・ケリーと結婚した。1962年、新憲法を制定した。この憲法で死刑が廃止され、女性参政権が実現し、また最高裁判所が設置された。1993年にモナコは国際連合に加盟した。

21世紀
2005年、レーニエ3世が死去し、息子のアルベール2世が即位した。同年12月、フランス・モナコ友好協力条約を締結した。この条約は、グリマルディ家に跡継ぎがなくなっても公国は将来も存続することをフランスが保証する代わりに、モナコの防衛は今後もフランス軍が行うことを骨子としている。また、モナコの自主的外交における制限が緩和され、外国と国交を結ぶ際のフランスによる事前同意が不要になった。

バルセロナ(Barcelona)

サグラダ・ファミリアは、民間カトリック団体「サン・ホセ教会」が贖罪教会(信者の喜捨により建設する教会)として計画し、初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受けた。1882年3月19日に着工したが、意見の対立から翌年にビリャールは辞任。その後を引き継いで2代目建築家に就任したのが、当時は無名であったアントニ・ガウディである。ガウディは設計を変更したものの既存の計画は踏襲された。

1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。一方、着工時の建築許可が更新されず失効していたことから、2018年にバルセロナ市当局と支払いなどで合意するまで130年以上にわたって違法建築状態が続くこととなる。

ガウディは、模型と、紐と錘を用いた実験道具を主に使ってサグラダ・ファミリアの構造を検討したとされる。ガウディの死後の1936年に始まったスペイン内戦により、ガウディが残した設計図や模型、ガウディの構想に基づき弟子たちが作成した資料のほとんどが散逸した。これによりガウディの構想を完全に実現することが不可能となり、サグラダ・ファミリアの建造を続けるべきかという議論があったが、職人による口伝えや、外観の大まかなデッサンなど残されたわずかな資料を元に、その時代の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードや内陣、身廊などはほぼ完成したがイエスの栄光を表すメインファサード、18本建てられる内の7本の塔が未完成である。これらの塔の12本が12使徒、4本が福音書記者、1本が聖母マリア、1本がイエス・キリストを象徴するものとされている。

東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはリンゴをくわえた蛇が彫刻されている。また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されている。中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られている。左門ではローマ兵による嬰児虐殺、聖家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られている。

西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ピラトと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴、そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されている。

かつては完成まで300年はかかると予想されていた工事だが、スペインの経済成長や拝観料収入などに支えられて進捗は加速している。さらには21世紀に入ってから導入されたITを駆使し、ソフトウェアによる3D構造解析技術と3Dプリンターによるシミュレーション検証、CNC加工機による成果が著しい。2026年の完成予定が現実となれば、1980年代に見込まれた約300年という建築期間はその後の30年で半減し、約144年の工期で完成することになる。他方、創建当初はヨーロッパの教会建築の伝統的な工法である組積造で行われてきたが、現在では礼拝堂内部、塔など多岐にわたってRC造が導入されており、この工法変化を批判する建築家や彫刻家も少なくない。

なお、建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して既存部の修復も行われている。

2006年、直下に高速鉄道AVEのトンネルを掘削する計画が持ち上がり、建設側は地元自治体などにトンネル掘削中止を働きかけたが拒否された。一連のやり取りの中で、サグラダ・ファミリア建設が行政に届け出を出していない工事(正確には1885年に建築許可を受けていたが、許可を出した自治体がバルセロナに吸収合併された際必要な更新がされていなかったという)であることが明らかになり話題を呼んだ。結局は調整が行われ、サグラダ・ファミリアの建築に対してサグラダ・ファミリア特別法を制定し合法化した上で、徹底した地盤強化を行って掘削工事が行われた。2018年10月20日にサグラダ・ファミリア管財当局が3600万ユーロ(日本円にして約46億8000万円)を今後10年かけて支払うことで、バルセロナ市当局より合法的に建築を行えるよう工事許可を得る形で両者が合意したことが発表され、2019年初頭にも建築が「合法化」される見通しとなった。 2019年6月7日、460万ユーロ(日本円にして約5億6400万)を支払うことで137年を経てようやく建築許可が下りた。

パリ18区 

パリの18区 

(仏: 18e arrondissement de Paris) は、フランスの首都・パリ市を構成する20の行政区のひとつである。パリ18区ともいう。
18区は市の北部にあり、セーヌ川の北側に位置してモンマルトルの丘は有名。

パリの18区は、市の北部にある行政区。「ビュット=モンマルトル区 (Arrondissement des Buttes-Montmartre)」と呼ばれることもある。セーヌ川の北の地域にある。北には、ペリフェリック(パリ環状道路)に沿う形で市の境界線が敷かれており、セーヌ=サン=ドニ県に接している。区内のモンマルトルの丘はパリで最も高い地点であり、その頂からはパリの眺望を楽しむことができる。人口は184,586人(1999年)で、20区の中では2番目に多い。

区の名称は、市の中央部から時計回りに螺旋を描くようにして各区に付けられた番号を基にしており、当区はその18番目にあたることから、「18区」と名づけられた。

区南西部の小高い丘一帯はモンマルトルと呼ばれ、モンパルナスとともに”芸術の街”として世界的に有名である。区内には、サクレ・クール寺院、エスパス・ダリ、モンマルトル墓地、ムーラン・ルージュなどがある。

18区の東側一帯は観光地であるモンマルトル一帯とは様相を異にする。パリ北部から東部一帯にかけて、元来移民の多い地域であるが、モンマルトルの東側地域、シャトー・ルージュ (Château Rouge) やバルベス大通り (Boulevard Barbès) 界隈などのいわゆる”ラ・シャペル (La Chapelle) 一帯”は、マグリブ諸国出身のアラブ系に加え、1990年代から(サハラ以南の)アフリカ系移民が多く暮らす街となっている。

出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。特にピカソが『アビニヨンの娘たち』(1907) を描いた場所、キュビスムが生まれた場所として知られるが、1970年の火事で焼失し、1978年にコンクリートで復元された。現在は小さなショーウィンドーに資料を展示している。

モンマルトル (Montmartre) はパリで一番高い丘(標高130メートル)

元々はこの丘を含む一帯のコミューン名(旧セーヌ県に属していた。)でもあったが、1860年にその一部がパリに併合されてセーヌ川右岸のパリ18区を構成するようになった。残部はサン・トゥアンに併合された。現在は、専らパリ側の地域を指し、パリ有数の観光名所となっている。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。

初期の歴史

モンマルトルは長い間、パリから独立した村だった。モンマルトルの名は、Mont des Martyrs(殉教者の丘)が由来である

紀元272年頃、ドルイドの聖地であったと考えられている「モンス・メルクリウス(Mons Mercurius)=メルクリウスの丘」の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初のキリスト教司教聖ディオニュシウス(サン・ドニ)と2人の司祭ラスティークとエルテールの3人が首をはねられて殉教したと伝えられている。ヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」によれば、首をはねられたサン・ドニは、自らの首を抱えながら北の方に数キロメートル歩き、息絶えたという。その場所がサン=ドニのサン=ドニ大聖堂になったとされる。以来、その丘はモンス・マルテュルム(Mons Martyrum)=殉教者の丘と呼ばれるようになった。

1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラが、バスク出身のフランシスコ・ザビエル、フランス出身のピエール・ファーヴル、スペイン出身のアルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル出身のシモン・ロドリゲスら6人の同志と共に丘の中腹にあった聖堂で生涯を神にささげる誓いを立てて、イエズス会の創設の端緒となった。

フランス革命時は暗殺されたジャン=ポール・マラーを記念してモンマラーと改称されたが、革命収束後モンマルトルに戻された。モンマルトルは長い間パリ郊外の農地であり、ブドウ畑と風車がシンボルであった。また丘の上には大きな女子修道院が建っていた時代もあった。

19世紀

1840から1845年にかけてティエールの城壁が造られたことにより、コミューンが二分された。都市化が進むのは19世紀半ば。

ナポレオン3世の指示でセーヌ県知事オスマン男爵によるパリ改造が行われ、多くの市民が中心部の家を失い、パリ外縁部のフォーブール(近郊)へ移転を余儀なくされた。その移転先の一つがモンマルトル。

1860年、コミューンのうちティエールの城壁内がパリに、城壁外はサン・トゥアンにそれぞれ併合された。

パリの税金や規制が適用されず、また長年丘の上の修道女たちがワインを作っていたことは、モンマルトルが飲み屋街に変わる原因となった。19世紀末から20世紀初頭、モンマルトルはデカダンな歓楽街となり、ムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台に立った。

1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の上にサクレ・クール寺院(Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)が、1871年の普仏戦争敗戦後にその償いとして一般の寄付で建設された。白いドームは街中から見えるパリのランドマークになった。

芸術家の街

19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。

安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。

パブロ・ピカソ(1904年から1909年までの間)、アメデオ・モディリアーニ、ほか貧しい画家達がモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行った。ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。特にピカソが『アビニヨンの娘たち』(1907) を描いた場所、キュビスムが生まれた場所として知られるが、1970年の火事で焼失し、1978年にコンクリートで復元された。現在は小さなショーウィンドーに資料を展示している。

スコットランド

スコットランドには、めずらしい形状をした直線状の渓谷が通っている、なぜこのような渓谷が生まれたのか、そこには地球の「大イベント」の形跡がある。

地図を見ると、一方の海岸から他方の海岸にかけて、ほぼ一直線の渓谷が通っていることに気が付く。スコットランドは起伏に富んだ地形だが、不思議なことにこの渓谷は直線で、過去に、何かしらの興味深い地質学的イベントが発生した痕跡か、しかも、それは一回限りではなかったようだ。

5億2千万年前、地球上の陸塊は、その大部分がローレンシア大陸とゴンドワナ大陸の2大陸に分かれた。この時、現在のグレートブリテン島にあたる部分が分裂し、スコットランド北部がローレンシア大陸に、残り半分の南部がゴンドワナ大陸の一部となる。

4億3万年前のカレドニア造山運動期にこの2大陸が衝突し、この衝突によって2つの部分がくっついて、現在のグレートブリテン島の元となった。

その過程で地殻にしわや歪みが生じ、地球上のあらゆる場所で新たに山や断層が作られた。こうして新たにできた断層の1つが、「横ずれ断層」であるスコットランドのグレート・グレン断層だ。

横ずれ断層は、2つの構造プレートがずれたり、水平方向にすれ違って生じたもので、断層運動は、他にも片方の断層が垂直方向に動くもの(縦ずれ断層)があり、断層上に山脈などの隆起した地形を形成する。

造山運動で2つのプレートが衝突し、グレートグレン断層の両岩盤は水平に移動した。

断層の形成過程において、このような運動は何回か繰り返されました。グレートグレン断層は幾度か活動し、ローレンシアとゴンドワナの両大陸は、そのたびに8キロから29キロメートル程度動いた。断層は、蓄積された歪みのストレスを、時折このような形で放出する。

2つのプレートが衝突し合って圧力が加わると、歪みのストレスが生じ、それが限界に達するとプレートはずれて互いに逆方向へ動き、蓄積されたストレスを放出する。

最大の活動が起きたのは6,600万年くらい前と比較的最近で、付近の別の地殻プレートが引き裂かれる運動により引き起こされたものと考えられる。

現在のグレートグレン断層は、「ロッホ」と呼ばれる湖が点々と連なりるが、これは、イギリスとアイルランドの諸島の大部分が、過去何万年かの間にたびたび起こった氷河期に巨大な氷床に覆われていたため。

また、グレートグレン断層付近の氷河は約1万年前に後退をはじめ、断層線上に海水面位より深い渓谷を刻み込みこみ、そのため、スコットランドを貫く直線がより目につきやすくなった。

この直線状の断層は、5000万年もの歳月と地殻変動の産物で、今日の私たちが目にする地球を形作った大スケールのイベントの証拠とされる。

ブダペシュト(Budapest)

ドナウ川河畔に位置し、ハンガリーの政治、文化、商業、産業、交通の一大中心都市で、東・中央ヨーロッパ では最も大きな都市の1つ。しばしばハンガリーのプライメイトシティとも表現される。

ブダペストの市域面積は525平方キロメートル (202.7 sq mi)で、2011年の国勢調査によるブダペストの人口は174万人、ピークであった1989年の210万人より減少している。これは、ブダペスト周辺部の郊外化によるものである。ブダペスト都市圏(通勤圏)の人口は330万人である。

ブダペストの歴史の始まりはローマ帝国のアクインクムとしてで、もともとはケルト人の集落であった。アクインクムは古代ローマの低パンノニア属州の首府となっている。マジャル人がブダペスト周辺にやって来たのは9世紀頃である。最初の集落は1241年から1242年にかけてモンゴルの襲来 により略奪された。

15世紀に 町が再建されるとブダペストはルネサンス期の人文主義者文化の中心となった。続いてモハーチの戦いが起こり、オスマン帝国による150年間の支配が続き、18世紀、19世紀に新しい時代に入ると町は発展し繁栄する。ブダペストは1873年にドナウ川を挟んだ都市の合併が行われると、世界都市となる。

また、1848年から1918年の第一次世界大戦敗戦まで列強に含まれたオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに続く第二の首都であった。1920年のトリアノン条約によりハンガリーは国土の72%を失い、ハンガリーの文化や経済をブダペストがすべてを占めるようになった。ブダペストはその大きさや人口で圧倒的に優位に立ち、ハンガリーの他の都市を小さく見せていた。

ブダペストはハンガリー革命 (1848年)や1919年のハンガリー評議会共和国、1944年のパンツァーファウスト作戦、1945年のブダペスト包囲戦、1956年のハンガリー動乱など数々の歴史的な舞台の場でもあった。

イタリア ポルトフィーノ(Portofino)

カルロス・ガルデル(Carlos Gardel)

1935年、カルロス・ガルデル(Carlos Gardel)作曲、アルフレド・レペラ(Alfredo Le Pera)作詞。
タンゴ歌謡界のスターであったガルデルが自身の主演する同名映画『想いの届く日』の主題歌として作曲。

ガルデル本人がTangoではなくCancion(歌)という副題を付けたことからもうかがえるように、その甘く美しいメロディはタンゴの枠を超え、アルゼンチン歌曲の傑作として今も歌い継がれています。
世界各国であまりにも有名なため中にはタンゴであることを知らずに歌っている人も多いとか。
この曲は長く演奏され続ける不朽の名作となりましたが、ガルデル本人はこの映画のプロモーション旅行中、飛行機事故で不慮の死を遂げます。

映画『想いの届く日』の撮影当時、アメリカを訪れていたガルデルは、ニューヨークに住んでいた少年時代のピアソラと短い期間の親交がありました。スペイン語が話せ、バンドネオンも披露したピアソラを気に入ったガルデルは、この映画にも端役で彼を出演させています。ガルデルの亡くなった演奏旅行にはピアソラも誘われていたのですが、両親が学校を理由に反対したために断念。もしこの旅行に同行していれば、ピアソラも事故に巻き込まれていたかもしれません。

その後のタンゴの歴史を大きく変えた、まさに運命のいたずらと言いたくなるようなエピソードです。

夕暮れのアマルフィ海岸

急峻なアマルフィ海岸に面して築かれた都市で、中世にはアマルフィ公国(アマルフィ共和国)として自立し、強盛を誇った海洋国家であった。

ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているアマルフィ海岸の中心都市であり、観光拠点の一つである。

その起源は古代ローマ時代にまで遡る。海洋に面し、かつ複雑な地形に囲まれており、外敵の侵入を撃退するのに適していた。

839年、ナポリ公国から独立を宣言してアマルフィ公国となり、イスラーム勢力との抗争のなかで、徐々に勢力を拡大させていった。

872年にはサン・サルヴァトーレ島を守っていたイスラーム軍を海戦で撃破、この功績で東ローマ帝国からカプリ島を譲渡された。

ただし、イスラーム勢力と対立しただけでなく、商業上の利益から同盟を結ぶこともみられた。アマルフィは、その後も公国の首都、貿易の拠点として発展し、一時はピサやヴェネツィアやジェノヴァと地中海の覇権を争い、黒海にも商業活動を広げた。例えば、現ウクライナの都市セヴァストポリに、アマルフィの港の跡が残されている。

アマルフィの人々は、航海に関する法典である「アマルフィ海法」を作成した。これが様々な海洋に関する法典の雛形となり、17世紀まで影響を持った。また、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でもたらされ、13世紀には製紙産業が勃興していた。

アマルフィの最盛期は11世紀に達成され、その後急速に衰退した。
1131年にはノルマン人による征服、1135年、1137年はピサによる略奪、そして1343年での嵐によって都市の大部分が破壊された。

第二次世界大戦中、1943年9月9日までにアメリカ軍はアマルフィに対し上陸作戦を開始。同時期には、イギリス軍が近隣のナポリに上陸作戦を行い、ドイツ軍が激しく交戦していたため、アメリカ軍はドイツ軍と接触することなくアマルフィに上陸を果たした。

クレタ島クノッソス宮殿

グノシエンヌ

(Gnossiennes)は、エリック・サティが1889年から1891年と1897年に作曲したピアノ曲。サティが24歳の時に作曲した第1番から第3番の3曲は「3つのグノシエンヌ」として有名である。

題名は、従来は古代ギリシアのクレタ島にあった古都クノーシスに由来するというのが定説だった。しかし、グノーシス派に由来したサティによる造語であると説明する人もいる。

サティが生前に「グノシエンヌ」の題名で発表したのは、「3つのグノシエンヌ」(グノシエンヌ第1番、第2番、第3番)の3曲のみである。サティの死後、他に3曲が発見され「グノシエンヌ」の題名で出版されたが、自筆譜に「グノシエンヌ」の題名が書かれていたわけではなく、作曲時期や曲の傾向から「グノシエンヌ」と勝手に命名されたにすぎない。

古代ギリシャの詩の脚韻を踏んだリズムが伴奏部に使われている。

「3つのグノシエンヌ」には、プーランクによるオーケストラ編曲版(1946年編曲)が存在する。

花の美しい村 グリメンツ(Grimentz)

「セプテンバー・ソング」は、ジョーン・フォンテーンとジョセフ・コットン主演、ウィリアム・ディターレ監督の映画『旅愁(September Affair)1952』のテーマ曲として有名です。

映画はイタリアを舞台にしたAffair(不倫の恋)、恋愛劇で、これも九月の人恋しさを感じされる物語でした。この映画はアカデミー主演女優賞を獲ったジョーン・フォンテーンの成熟した演技が印象的でした。

 もともと、「セプテンバー・ソング(September Song)」は:クルト・ワイル(Kurt Weill)作曲、マックスウェル・アンダーソン(Maxwell Anderson)作詞のブロードウェイ・ミュージカル『ニッカボッカ・ホリディ(Knickerbocker Holiday)』の挿入歌。

ウォルター・ヒューストン(Wーalter Huston)はカナダ生まれの俳優で歌手ではありません。そのため声域も広くない彼のために書かれたのが「セプテンバー・ソング」(September Song)なのですが、かえってこれが誰でもが口ずさめる親しみやすいメロディをこの歌に与えました。

また、歌詞の内容も良く、「九月の歌」ではありますが、日が短くなるこの時期を愛の感情に重ねて秀逸です。

明るい夏が終る九月という月の持つ季節の変わり目に対して、人が無意識に感じる感傷を表現しています。あるいは人生の秋、無駄にする時間は無くなり、残り少ない時間をあなたと共に過したいという意味も感じられます。この含みが歌詞に豊かな余韻を与えています。

「セプテンバー・ソング」はブロードウェイ・ミュージカルの発表当時から人々に親しまれており、スタンダードな歌となっていました。

それを再びヒットさせたのがフランク・シナトラのバージョンです。この歌唱が今でもこの歌の変らぬスタンダードともなっています。曲と歌詞がシンプルで美しいため、これ以上のアレンジは難しい歌でもあります。一例を挙げれば、ルー・リードのカバー・バージョンもスタンダードに対するひとつの挑戦であるものの、原曲、シナトラを超えるものではありませんでした。

 “September Song”
When I was a young man courting the girls
I played me a waiting game
If a maid refused me with tossing curls
I’d let the old Earth make a couple of whirls
While I plied her with tears in lieu of pearls
And as time came around she came my way
As time came around, she came

[When you meet with the young girls early in the Spring
You court them in song and rhyme
They answer with words and a clover ring
But if you could examine the goods they bring
They have little to offer but the songs they sing
And the plentiful waste of time of day
A plentiful waste of time]

Oh, it’s a long, long while from May to December
But the days grow short when you reach September
When the autumn weather turns the leaves to flame
One hasn’t got time for the waiting game

Oh, the days dwindle down to a precious few
September, November
And these few precious days I’ll spend with you
These precious days I’ll spend with you

・映画挿入歌・ Song:Walter Huston
女を口説いていた若い頃は
 待つのも楽しみだった
 そっぽを向かれフラれても
 時を過ぎるに任せていた
 真珠の代わりに涙を捧げていた
 時がたち想いはかなった
 時がたち彼女は僕のものに

5月から12月までは長い月日だけれど
 9月になると日々は短くなる
 秋の気配が木の葉を赤く燃え立たせる頃
 もう待つことを楽しむ時間はない
 残りの日々は少なく貴重なものになってゆく

9月から11月へと
 この大切な日々を君と共に過ごそう
 大切な日々を君と共に
 月日が流れワインは熟成してゆく

9月から11月へと
 この実り多き歳月を君と分かち合おう
 実り多き歳月を君と共に

バーデン・パウエル:ブラジルの肖像(ショーロ・レント)

20世紀のブラジル音楽を代表する作曲家、バーデン・パウエルさん(Baden Powell 1937年8月6日 – 2000年9月26日)
作品の中にRetrato Brasileiro(Choro Lento)ブラジルの肖像
というのがあります

肖像というと、特定の人間の外観を表現した絵画や写真、彫刻
個人の識別に必要な身体の部位の顔を含む上半身
あるいは全身が題材となることが多いです
肖似性(類似)が求められる場合もあれば
理想化が求められる場合もあるそうで
芸術的な造形や精神性を示すこともあるようです

ブラジルの肖像となるものは、いろいろあると思いますが
何が相応しいのかな
リオデジャネイロのコルコバードの丘にある巨大なキリストの像
世界遺産の「リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」
レブロン、イパネマ、コパカバーナのビーチ
ビーチは昼は美しく明るい浜辺でも
夜は泥棒引ったくりの活躍する危険な浜に変貌しますから
注意しないとね

ところで、毎年ブラジルで開催されている美尻コンテスト
ミス・ブンブン(Miss Bum Bum)
ブンブンとは、ブラジルポルトガル語で、お尻の意味です
ブラジル各27州から選出された代表の中から
グランプリが選出されます
もちろんシリコン注入などは禁止です
これなんかね、ブラジルの肖像に相応しい、のかな
と思ったりしてます w