パリ18区 

パリの18区 

(仏: 18e arrondissement de Paris) は、フランスの首都・パリ市を構成する20の行政区のひとつである。パリ18区ともいう。
18区は市の北部にあり、セーヌ川の北側に位置してモンマルトルの丘は有名。

パリの18区は、市の北部にある行政区。「ビュット=モンマルトル区 (Arrondissement des Buttes-Montmartre)」と呼ばれることもある。セーヌ川の北の地域にある。北には、ペリフェリック(パリ環状道路)に沿う形で市の境界線が敷かれており、セーヌ=サン=ドニ県に接している。区内のモンマルトルの丘はパリで最も高い地点であり、その頂からはパリの眺望を楽しむことができる。人口は184,586人(1999年)で、20区の中では2番目に多い。

区の名称は、市の中央部から時計回りに螺旋を描くようにして各区に付けられた番号を基にしており、当区はその18番目にあたることから、「18区」と名づけられた。

区南西部の小高い丘一帯はモンマルトルと呼ばれ、モンパルナスとともに”芸術の街”として世界的に有名である。区内には、サクレ・クール寺院、エスパス・ダリ、モンマルトル墓地、ムーラン・ルージュなどがある。

18区の東側一帯は観光地であるモンマルトル一帯とは様相を異にする。パリ北部から東部一帯にかけて、元来移民の多い地域であるが、モンマルトルの東側地域、シャトー・ルージュ (Château Rouge) やバルベス大通り (Boulevard Barbès) 界隈などのいわゆる”ラ・シャペル (La Chapelle) 一帯”は、マグリブ諸国出身のアラブ系に加え、1990年代から(サハラ以南の)アフリカ系移民が多く暮らす街となっている。

出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。特にピカソが『アビニヨンの娘たち』(1907) を描いた場所、キュビスムが生まれた場所として知られるが、1970年の火事で焼失し、1978年にコンクリートで復元された。現在は小さなショーウィンドーに資料を展示している。

モンマルトル (Montmartre) はパリで一番高い丘(標高130メートル)

元々はこの丘を含む一帯のコミューン名(旧セーヌ県に属していた。)でもあったが、1860年にその一部がパリに併合されてセーヌ川右岸のパリ18区を構成するようになった。残部はサン・トゥアンに併合された。現在は、専らパリ側の地域を指し、パリ有数の観光名所となっている。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。

初期の歴史

モンマルトルは長い間、パリから独立した村だった。モンマルトルの名は、Mont des Martyrs(殉教者の丘)が由来である

紀元272年頃、ドルイドの聖地であったと考えられている「モンス・メルクリウス(Mons Mercurius)=メルクリウスの丘」の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初のキリスト教司教聖ディオニュシウス(サン・ドニ)と2人の司祭ラスティークとエルテールの3人が首をはねられて殉教したと伝えられている。ヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」によれば、首をはねられたサン・ドニは、自らの首を抱えながら北の方に数キロメートル歩き、息絶えたという。その場所がサン=ドニのサン=ドニ大聖堂になったとされる。以来、その丘はモンス・マルテュルム(Mons Martyrum)=殉教者の丘と呼ばれるようになった。

1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラが、バスク出身のフランシスコ・ザビエル、フランス出身のピエール・ファーヴル、スペイン出身のアルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル出身のシモン・ロドリゲスら6人の同志と共に丘の中腹にあった聖堂で生涯を神にささげる誓いを立てて、イエズス会の創設の端緒となった。

フランス革命時は暗殺されたジャン=ポール・マラーを記念してモンマラーと改称されたが、革命収束後モンマルトルに戻された。モンマルトルは長い間パリ郊外の農地であり、ブドウ畑と風車がシンボルであった。また丘の上には大きな女子修道院が建っていた時代もあった。

19世紀

1840から1845年にかけてティエールの城壁が造られたことにより、コミューンが二分された。都市化が進むのは19世紀半ば。

ナポレオン3世の指示でセーヌ県知事オスマン男爵によるパリ改造が行われ、多くの市民が中心部の家を失い、パリ外縁部のフォーブール(近郊)へ移転を余儀なくされた。その移転先の一つがモンマルトル。

1860年、コミューンのうちティエールの城壁内がパリに、城壁外はサン・トゥアンにそれぞれ併合された。

パリの税金や規制が適用されず、また長年丘の上の修道女たちがワインを作っていたことは、モンマルトルが飲み屋街に変わる原因となった。19世紀末から20世紀初頭、モンマルトルはデカダンな歓楽街となり、ムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台に立った。

1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の上にサクレ・クール寺院(Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)が、1871年の普仏戦争敗戦後にその償いとして一般の寄付で建設された。白いドームは街中から見えるパリのランドマークになった。

芸術家の街

19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。

安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。

パブロ・ピカソ(1904年から1909年までの間)、アメデオ・モディリアーニ、ほか貧しい画家達がモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行った。ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。特にピカソが『アビニヨンの娘たち』(1907) を描いた場所、キュビスムが生まれた場所として知られるが、1970年の火事で焼失し、1978年にコンクリートで復元された。現在は小さなショーウィンドーに資料を展示している。

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