「ごんぎつね」・「手ぶくろを買いに」など、多くの童話を送り出した新美南吉(本名新美正八)は大正2年7月30日、父渡辺多蔵、母りゑの次男としてこの家に生まれた。正面から見て左が継母志んの下駄屋、右が父多蔵の畳屋。昔の街道沿いに建ち、道からは一階建てに見えるが、裏にまわるとニ階建てになっている。戦後は人手に渡っていたが、半田市が購入し、南吉が住んでいた当時の間取りに復元して、昭和62年から公開している。
彼岸花の絨毯 半田市、矢勝川堤
2022年09月20日 ~ 2022年10月04日 ごんの秋まつり
半田市は日本を代表する童話作家・新美南吉の生地。
南吉の作品には生まれ育った半田の風景がよく登場する。
矢勝川堤の彼岸花もそのひとつ。
有志によって300万本の彼岸花が植えられ、毎年この時期になると一面を真っ赤に染める。
花嫁行列では物語の世界のような美しく趣のある景色が見られます。
洲崎神社
「広井天王」や「牛頭天王」とも呼ばれ、江戸時代、洲崎の天王祭は東照宮時代祭と並ぶ2大祭であった。毎年の7月13日、14日に例祭、7月第三土曜日とその翌日には提灯祭がある。また、この神社には縁結びの神様がまつられている。
誓願寺 源頼朝の生誕地 名古屋市熱田区白鳥二丁目
野間大坊 源義朝公ゆかりの地
木曽川サイクリングロード
国営木曽三川公園
面積 258.0ha(供用済)
473.5ha(計画)
開園 1987年(昭和62年)10月
運営者 一般財団法人公園財団
事務所 木曽三川公園管理センター
事務所所在地 岐阜県海津市海津町油島255-3
木曽川沿川では、木曽三川の広大な空間を活かし、健康作りを支援するレクリエーション施設として、国(国営木曽三川公園、河川整備)と沿川自治体が連携して、サイクリングロード、遊歩道の整備を進めている。
平成31年3月には、笠松町のサイクリングロードが開通し、各務原市~笠松町までの約10kmがつながる。
また、国営木曽三川公園【138タワーパーク、河川環境楽園、フラワーパーク江南】、一宮市【大野極楽寺公園】、美濃加茂市【太田宿中山道会館、シティホテル美濃加茂】、江南市【すいとぴあ江南】、笠松町【笠松みなと公園】、羽島市【ぐるっと羽島、JR岐阜羽島駅前】では、レンタサイクルを準備している。
クラシックギターの練習録音
ひな菊/プラッテン(1821-1895)
ドイツの女流ギタリスト、プラッテンの作品
プラッテン夫人は旧姓 カテリーナ・ジョゼファ・ペルツァーといい、ドイツ人ギタリスト&教師として知られるペルツァーの娘。1829年、一家は彼女が8歳の時にイギリスへ移住し後年、彼女はイギリスの著名なフルーティスト、ロバート・シドニー・プラッテンと結婚し、それ以後、プラッテン夫人と呼ばれるようになる。
幼少の頃から非凡な才能を発揮し7歳の頃から演奏会を開き、父ペルツァーとデュオコンサートを頻繁に行っていた。
Evocation
ホセ・ルイス・マーリン José Luis Merlin
生年月日: 1952年 (年齢 70歳)
出生地: アルゼンチン ブエノスアイレス
アルバム: Dreams of Argentina、 Atardecer en la Cuesta Blanca、 Tango Creciente
レコード レーベル: Shamrock Records、 Dos Almas Music
曲
Suite del recuerdo: I Evocacion
Atardecer en la Cuesta Blanca · 2009年
Suite Del Recuerdo/Evocacion
Dreams of Argentina · 2001年
Danza de Diciembre
Tango Creciente · 2009年
evocation
(記憶・感情などの)喚起
(口寄せ・神降ろしの)呼び出し
(抗議・喝采などの)誘発
那古野山古墳
那古野山古墳
愛知県名古屋市中区大須、大須観音近くにある大須古墳群のひとつが那古野山古墳(なごのやまこふん)。5世紀中~後半に建造されたと推測される前方後円墳ですが後円部だけが現存し、那古野山公園となっています。江戸時代に修験道の寺、富士山観音寺(清寿院)の後園となり、富士山信仰の聖地だった小山(古墳)です。
江戸時代には那古野山、庚申山(こうしんやま)、明治時代には浪越山と呼ばれていました。
富士山観音寺(清寿院)の後園となった際に、那古野山古墳の前方部を壊して庭が造られ、後円部は浪越山としてその一部に取り込まれました。
このため、現存する古墳は後円部のみなのです。
ただし、平成7年に名古屋市教育委員会が行なった那古野山古墳の墳丘確認調査から、現在古墳の墳丘と考えられた土の多くは中世以降の盛土と認定され、その盛土の下に古墳が隠されていることが判明しています(「那古野山古墳・発掘調査の記録」は名古屋市見晴台考古史料館の編集)。
このことからも、富士講の盛んだった江戸時代中期ころには富士塚として土が盛られたであろうことも容易に想像できるのです。
関東地方で富士塚が築かれるのは15世紀後半とされ、那古野山も中世の盛土という可能性があります。
現在の富士浅間神社(江戸時代は富士山観音寺の境内社)。が勧請されたのは明応4年(1495年)なので、その頃に、古墳を富士塚に修築したのかもしれません。
明治5年に清寿院が廃寺となると、明治12年に愛知県初の公園「浪越公園」(なごやこうえん)として整備開園されています。
明治43年に鶴舞公園が開園すると「浪越公園」も廃園となり、大正3年に規模が大幅に縮小されて後円部だけを残す那古野山公園になっています。
那古野山古墳からは、公衆トイレ改築、公園整備にともなう工事で円筒埴輪片も出土しています。
ちなみに大須古墳群には、願証寺名古屋分院の後園に大須二子山古墳(前方後円墳)がありましたが、現存していません。
富士浅間神社、日出神社(ひのでじんじゃ)の社殿が建つ場所も古墳の墳丘だと推測されています。
尾張名古屋の三名水
江戸時代に「尾張名古屋の三名水」と呼ばれた井戸「清寿院(せいじゅいん)の柳下水(りゅうかすい)」を復元する取り組みが、名古屋市中区の大須商店街で進められている。再開発で存在を伝えるモニュメントが失われかけたが、庶民の生活を支えた井戸を後世に伝えようと、地元の人たちが名古屋市に要望。その熱意が実り、来年度にも井戸の構造物が再現されることになった。
市教委などによると、柳下水は江戸中期の尾張藩士、高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)が描いた絵図「尾張名陽図会」で、「蒲焼町の風呂屋の井戸」(中区)、「亀尾志水(かめのおしみず)」(北区)とともに三名水と紹介されている。
井戸があったのは、現在の大須商店街内の大須観音通りの一角。清寿院という寺の柳の木の下にあったことからこの名が付いたという。上洛(じょうらく)の道中で名古屋に立ち寄った将軍に、井戸の水が飲用に献上されたとも伝わる。
井戸は、寺が明治期に廃れた後も生活用水として長く使われたが、昭和五十年代に喫茶店の建築工事に伴って埋め立てられた。住民らは、店舗の敷地内にある跡地に井戸を模した石囲いのモニュメントを設置。
大須演芸場
大須演芸場(おおすえんげいじょう)は、愛知県名古屋市中区大須二丁目にある寄席・劇場。大須観音のすぐそばにある。中京圏で唯一の寄席として知られる。
落語や色物などを上演する常設の寄席である。木造の2階建てで1階は椅子、2階は座敷席となっている[新聞 1]。戦後の名古屋でほぼ唯一の常打ちの寄席だった。名古屋に限らず中京地区唯一の寄席で、落語・漫才・手品・浪曲などの演芸や、年2回のロック歌舞伎スーパー一座による公演が行われ、大須大道町人祭の会場としても使われていた。ビートたけしや明石家さんまらがまだ売れない駆け出し時代に出演している。客が少ないことでも有名で、客が1人しかいない中で上演されることもあった。
常に経営難で、大須演芸場の苦境を知って、古今亭志ん朝が独演会を開いて応援するなど、救いの手をさしのべる人々によって閉鎖の危機を乗り越えたことでも知られる。
2015年9月22日一般社団法人としてリニューアル開場し、毎月1日-7日の上席のみ寄席を開催し、残りの8日-末日は貸席として演芸に関する催し物、地域住民のためのイベント、非公開の企業セミナー会場などとしても利用が可能。新装開場当初は定席は10日間であったが、2019年6月より7日間に短縮した。
Bigscreen
観たい映画を離れた場所で一緒に楽しむ
ゲーム画面を大画面でみんなで共有
大画面を使ったオンライン会議など
Bigscreenを使えば、遠くにいる人も同じ部屋にいるような感覚で、一緒に映画やゲームなどが楽しめる
Quest 2などのVRゴーグルを使ったスクリーン共有アプリ「Bigscreenビッグスクリーン」がおすすめ
「Bigscreenビッグスクリーン」とは、簡単にいえばVR空間の中でスクリーンを共有できるVRアプリです
Bigscreenは、steamやQuestストアで配信されており、まだbeta版ではありますが誰でも無料で使えます
しかも、Quest 2だけでなく機種の違うVRゴーグル同士(Valve Index、HTC Viveなど)でも共有が可能なアプリです
最大15人のユーザーとスクリーンを共有でき、ほぼタイムラグなしで同じスクリーンを見ながらのボイスチャットが可能です
しかも、VOD(NetflixやAmazonPrimeなど)を共有したいときは、ホスト側だけの契約だけでOK。部屋で動画を一緒に楽しむ感覚で、好きな作品を思う存分楽しめます
動画作品を一緒に観ながら、ゲーム画面も共有可能で、パーティ感覚でゲームをプレイすることもできます
ぶらりVR Meta Quest 2 Bigscreen
三河湾国定公園 日間賀島
日間賀島(ひまかじま)
三河湾に浮かぶ離島。行政上は愛知県知多郡南知多町に属し、全域が三河湾国定公園に含まれる。2015年(平成27年)の国勢調査における人口は607世帯1,896人だった。「タコとフグの島」という観光PRを行なっている。篠島や佐久島と合わせて「三河湾三島」または「愛知三島」などと呼ばれる。
海岸線長
6.6km
最高標高
30.2m
知多半島・渥美半島まで10km以内と距離的に近く、また本土との生活交流が活発なため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島にあたる。
日間賀島の周囲には西港の正面にある鼠島や角石(角石島)などの属島があり、下瀬(下瀬島)は干潮時のみ現れる。角石と下瀬は師崎からの航路付近にあるため、島上に灯台が設置されている。日間賀島の北東部にも無数の浅瀬があり、佐久島との中間付近佐久島との中間付近にある大磯にはやはり灯台が設置されている。
南岸は150m沖合で水深10m、東岸は350m沖合で水深10mなのに対して北岸は浅く、1,000m沖合で水深20mである。篠島との中間付近には面積0.03km2の築見島があるが、築見島は一般に篠島の属島とされている。
東岸の里中と西岸の西浜の二つの集落があり、里中は中と小戸地に、西浜は新居と寺下と浪太に分かれている。日間賀島は全体がなだらかな丘陵地を形成しており、島のほぼ中央に30.2mの最高標高地点がある。
面積は0.77km2であり、皇居の約半分である。日間賀島の森林面積は4%に過ぎず、面積の31%が森林の佐久島、面積の24%が森林の篠島と比べて森林に乏しい。篠島とは違って比較的広い耕地があり、1960年代から1970年代(昭和40年代後半から昭和50年代前半)にかけてオリーブ、フキ、ウメなどの栽培がなされたが、これらは定着していない。現在は三河湾三島に農業経営体は存在しない。
人口
江戸時代に描かれた『日間賀古図』には、西里に120戸余り、東里に150戸余りが描かれた。江戸時代後期にまとめられた『尾州徇行記』による人口は938人だったが、1891年(明治24年)には1,311人、1930年(昭和5年)には1,951人と、1世紀余りの間に人口が2倍以上に増加した[1]。その後も人口は増え続け、1955年(昭和30年)の国勢調査では過去最高値の2,788人を記録した。
しかしそこから減少に転じ、1960年(昭和35年)の調査では2,728人、1970年(昭和45年)の調査では2,622人、1980年(昭和55年)の調査では2,576人、1990年(平成2年)の調査では2,397人、2000年(平成12年)の調査では2,221人、2010年(平成22年)の調査では2,051人と、年々減少幅を拡大させている。世帯数は1975年(昭和50年)の調査で初めて600世帯を突破し、1990年調査の658世帯をピークとしながらも、2010年(平成22年)の調査でも630世帯を維持している[1]。2010年調査での高齢者人口比率は29.4%である。
2000年(平成12年)の国勢調査による人口密度は2,882人/km2であり、2位の池島(長崎県、2,641人/km2)、3位の篠島(2,192人/km2)などを上回って日本の離島中最高だった。明治・大正・昭和にかけて篠島より人口が少なかったが、戦後には篠島の人口減少が著しく、1990年の国勢調査では日間賀島2,397人、篠島2,352人となり、2世紀以上ぶりに篠島の人口を上回った。
古代から近世
東港近くの日間賀神社境内には7世紀から8世紀にかけての古墳が14基あり、北地古墳群と呼ばれている。日間賀島全体では35基の古墳があり、石錘・釣針・直刀・須恵器などが出土している。古くから渥美半島の福江(現田原市)との交流が活発で婚姻などが行われ、言語にも三河地方の文化の影響がみられる。
奈良時代の文献には三河国幡豆郡比莫島という文字がみえ、平城京にサメやクロダイが調進されていた。
江戸時代は尾張国知多郡に属する尾張藩領であり、篠島とともに千賀氏が支配した。『寛文郷帳』『天保郷帳』における村高は50石であり、『旧高旧領』『寛文覚書』では93石余だった。江戸時代もやはり漁業が中心であり、コノワタを名産とした。元禄4年(1691年)の『知多郡船勢』では日間賀島を121艘(2512石)としており、知多郡内で最も船数の多い地域だった。
近代から現代
1876年(明治9年)には本土の師崎村や篠島村と合併して鴻崎村となったが、1881年(明治14年)に再び三村に分離して単独で日間賀島村となった。明治中期以後には漁業に加えて養蚕業が盛んとなった。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、知多郡日間賀島村として村制を敷いた。
江戸時代までの漁業は三河湾内に限られていたが、明治時代以降には外海に飛び出して延縄漁を行なうようになり、大正初期以降には漁船の動力船化が進んだ。1951年(昭和26年)時点でも漁船の1/3は無動力船だったが、1965年(昭和40年)には無動力船の割合は5%程度まで減少した。
1957年(昭和32年)には離島振興法の第7次指定地域となり、篠島・佐久島とともに「愛知三島」という指定地域名が付けられた。1961年(昭和36年)6月1日、内海町・豊浜町・師崎町・篠島村・日間賀島村の本土3町と離島2村が合併して南知多町となった。1958年(昭和33年)4月には三河湾国定公園に指定され、1991年(平成3年)には三河湾地域リゾート整備構想の重点整備地区に指定されている。
平成の大合併の際には南知多町・美浜町の任意合併協議会が設置されたが、南セントレア市という新市名候補に両町の住民が拒否反応を示して合併自体が不成立となった。2011年(平成23年)9月から12月にかけて、「あいちの離島80日間チャレンジ」という離島観光振興キャンペーンが行なわれた。日間賀島には27歳の女性アマチュア歌手が80日間滞在し、日間賀島のテーマソングを制作するなどの活動を行なった。2012年(平成24年)10月には佐久島に滞在したイラストレーターによって各島のゆるキャラがデザインされ、特産のタコをモチーフにした「たこみちゃん」がお披露目された。

