那古野山古墳

那古野山古墳
愛知県名古屋市中区大須、大須観音近くにある大須古墳群のひとつが那古野山古墳(なごのやまこふん)。5世紀中~後半に建造されたと推測される前方後円墳ですが後円部だけが現存し、那古野山公園となっています。江戸時代に修験道の寺、富士山観音寺(清寿院)の後園となり、富士山信仰の聖地だった小山(古墳)です。
江戸時代には那古野山、庚申山(こうしんやま)、明治時代には浪越山と呼ばれていました。
富士山観音寺(清寿院)の後園となった際に、那古野山古墳の前方部を壊して庭が造られ、後円部は浪越山としてその一部に取り込まれました。
このため、現存する古墳は後円部のみなのです。
ただし、平成7年に名古屋市教育委員会が行なった那古野山古墳の墳丘確認調査から、現在古墳の墳丘と考えられた土の多くは中世以降の盛土と認定され、その盛土の下に古墳が隠されていることが判明しています(「那古野山古墳・発掘調査の記録」は名古屋市見晴台考古史料館の編集)。
このことからも、富士講の盛んだった江戸時代中期ころには富士塚として土が盛られたであろうことも容易に想像できるのです。
関東地方で富士塚が築かれるのは15世紀後半とされ、那古野山も中世の盛土という可能性があります。
現在の富士浅間神社(江戸時代は富士山観音寺の境内社)。が勧請されたのは明応4年(1495年)なので、その頃に、古墳を富士塚に修築したのかもしれません。
明治5年に清寿院が廃寺となると、明治12年に愛知県初の公園「浪越公園」(なごやこうえん)として整備開園されています。
明治43年に鶴舞公園が開園すると「浪越公園」も廃園となり、大正3年に規模が大幅に縮小されて後円部だけを残す那古野山公園になっています。
那古野山古墳からは、公衆トイレ改築、公園整備にともなう工事で円筒埴輪片も出土しています。
ちなみに大須古墳群には、願証寺名古屋分院の後園に大須二子山古墳(前方後円墳)がありましたが、現存していません。
富士浅間神社、日出神社(ひのでじんじゃ)の社殿が建つ場所も古墳の墳丘だと推測されています。

尾張名古屋の三名水
江戸時代に「尾張名古屋の三名水」と呼ばれた井戸「清寿院(せいじゅいん)の柳下水(りゅうかすい)」を復元する取り組みが、名古屋市中区の大須商店街で進められている。再開発で存在を伝えるモニュメントが失われかけたが、庶民の生活を支えた井戸を後世に伝えようと、地元の人たちが名古屋市に要望。その熱意が実り、来年度にも井戸の構造物が再現されることになった。 
 市教委などによると、柳下水は江戸中期の尾張藩士、高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)が描いた絵図「尾張名陽図会」で、「蒲焼町の風呂屋の井戸」(中区)、「亀尾志水(かめのおしみず)」(北区)とともに三名水と紹介されている。
 井戸があったのは、現在の大須商店街内の大須観音通りの一角。清寿院という寺の柳の木の下にあったことからこの名が付いたという。上洛(じょうらく)の道中で名古屋に立ち寄った将軍に、井戸の水が飲用に献上されたとも伝わる。
 井戸は、寺が明治期に廃れた後も生活用水として長く使われたが、昭和五十年代に喫茶店の建築工事に伴って埋め立てられた。住民らは、店舗の敷地内にある跡地に井戸を模した石囲いのモニュメントを設置。

大須演芸場
大須演芸場(おおすえんげいじょう)は、愛知県名古屋市中区大須二丁目にある寄席・劇場。大須観音のすぐそばにある。中京圏で唯一の寄席として知られる。
落語や色物などを上演する常設の寄席である。木造の2階建てで1階は椅子、2階は座敷席となっている[新聞 1]。戦後の名古屋でほぼ唯一の常打ちの寄席だった。名古屋に限らず中京地区唯一の寄席で、落語・漫才・手品・浪曲などの演芸や、年2回のロック歌舞伎スーパー一座による公演が行われ、大須大道町人祭の会場としても使われていた。ビートたけしや明石家さんまらがまだ売れない駆け出し時代に出演している。客が少ないことでも有名で、客が1人しかいない中で上演されることもあった。
常に経営難で、大須演芸場の苦境を知って、古今亭志ん朝が独演会を開いて応援するなど、救いの手をさしのべる人々によって閉鎖の危機を乗り越えたことでも知られる。
2015年9月22日一般社団法人としてリニューアル開場し、毎月1日-7日の上席のみ寄席を開催し、残りの8日-末日は貸席として演芸に関する催し物、地域住民のためのイベント、非公開の企業セミナー会場などとしても利用が可能。新装開場当初は定席は10日間であったが、2019年6月より7日間に短縮した。

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