縮景園 (広島)

縮景園は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)が、元和(げんな)6年(1620)から別邸の庭園として築成されたもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇である。

園の名称は、幾多の景勝を聚め縮めて表現したことによるが、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられている。 園の中央に濯纓池(たくえいち)を掘って大小10余の島を浮かべ、周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿(あずまや)などが巧妙に配置され、それをつなぐ園路によって回遊できるようになっている。

この種の庭園は、回遊式庭園と称され、室町時代にその萌芽(ほうが)がみられ、江戸時代初期に最盛期を迎えた形式で諸大名の大庭園の多くはこれに属する。池の中央にかけられた跨虹橋(ここうきょう)は、七代藩主重晟(しげあきら)が京都の名工に二度も築きなおさせたものといわれ、東京小石川後楽園の円月橋や京都修学院離宮の 千歳橋にも似た大胆奇抜な手法が駆使されている。

清風館は庭園のほぼ中央にあり、庭園にふさわしい数寄屋造りで、屋根はこけら葺きである。西側は優雅な書院造りの様式をそなえており、東側には花頭窓を設け跨虹橋を臨んでいる。

昭和15年(1940)浅野家から広島県に寄付され、同年7月12日国の名勝に指定された。 昭和20年(1945)原爆によって壊滅状態になったが、県教育委員会は、戦災前の景観に復すべく整備をすすめ、清風館、明月亭などの亭館も復元した。

元和5年(1619) 浅野長晟(安芸一円・備後8郡42万6千石)広島入城
元和6年(1620) 藩主長晟、家老の上田宗箇をして作庭に着手
宝暦8年(1758) 広島大火災により亭館・樹木等焼失したものがあり、その後復旧。
天明3年(1783) 同8年(1788) 藩主重晟、京都の庭師清水七郎右衛門を招いて改修
文化元年(1804) 重晟、頼春水・梅園太嶺・岡岷山らに園内名勝三十四景の名称を付けさせる
文化3年(1806) 頼春水に「縮景園記」、加藤定斎に「縮景園之和歌」の執筆を命じる
文化4年(1807) 頼春水「題縮景園詩五首」を詠ず。 牛田清水谷から導水装置をつくる
明治27年(1894) 大本営副営指定、明治天皇御来園
大正2年(1913) 園内に観古館設置
昭和15年(1940) 広島県に寄贈、国の名勝に指定
昭和20年(1945) 原子爆弾により亭館・樹木等すべて焼失
昭和24年(1949) 園の復旧開始
昭和25年(1950) 植栽に着手
昭和26年(1951) 復旧につとめながら開園
昭和39年(1964) 清風館を復元
昭和43年(1968) 悠々亭、看花榻復元
昭和44年(1969) 夕照庵、超然居復元
昭和49年(1974) 明月亭復元
昭和51年(1976) 管理棟完成

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