名古屋西部 水郷めぐり

あおなみ線

ささしまライブ駅
駅周辺には異文化体験ができる「JICA中部」や東海地区最大のライブホールである「Zepp名古屋」、総合エンターテイメント施設として「マーケットスクエアささしま」がある。駅南側地区は愛知大学があり、さまざまな都市機能の複合的な集積が予定されている。

名古屋競馬場前駅
地名をとって通称「ドンコ(土古)」の競馬場として親しまれる名古屋競馬場は、文字通りあおなみ線名古屋競馬場前駅と目と鼻の先。スタンドの歓声が聞こえてきそうな位置にある。
あおなみ線の往復きっぷで観覧席への招待も。

百曲街道
江戸初期、尾張藩主・徳川義直の命により、堀川と庄内川の間の海岸線約4平方キロメートルを干拓し、熱田新田が開かれた。慶安2年(1649)、熱田新田の干拓が行われた後、この新田の北側に自然にできた道路で、中川区尾頭橋から港区正徳橋まで続き、くねくね曲がっていることから、「百曲街道」と呼ばれるようになった。江戸末期から明治期には、名古屋の城下町と西南部をつなぐ産業道路の役割を果たした。

あおなみ線

ささしまライブ駅
駅周辺には異文化体験ができる「JICA中部」や東海地区最大のライブホールである「Zepp名古屋」、総合エンターテイメント施設として「マーケットスクエアささしま」がある。駅南側地区は愛知大学があり、さまざまな都市機能の複合的な集積が予定されている。

名古屋競馬場前駅
地名をとって通称「ドンコ(土古)」の競馬場として親しまれる名古屋競馬場は、文字通りあおなみ線名古屋競馬場前駅と目と鼻の先。スタンドの歓声が聞こえてきそうな位置にある。
あおなみ線の往復きっぷで観覧席への招待も。

百曲街道
江戸初期、尾張藩主・徳川義直の命により、堀川と庄内川の間の海岸線約4平方キロメートルを干拓し、熱田新田が開かれた。慶安2年(1649)、熱田新田の干拓が行われた後、この新田の北側に自然にできた道路で、中川区尾頭橋から港区正徳橋まで続き、くねくね曲がっていることから、「百曲街道」と呼ばれるようになった。江戸末期から明治期には、名古屋の城下町と西南部をつなぐ産業道路の役割を果たした。

東海通
名古屋市道東海橋線につけられた愛称で、名古屋市の南部をほぼ東西に横切るように走る路線であり、西は蟹江町との境にあたる河合小橋交差点から、千年交差点・野並交差点などを経由しながら、東は豊明市との境に近い徳重交差点までを結ぶ。
古くからの街道である東海道とは一字違いで読みも似ており、名古屋市南部を東西に横切るという特徴も似ていることから混同されやすいが別物である。
東海通と東海道(国道1号)は、名古屋市南区にある千竃通1丁目交差点で交差しており、江戸時代のルートである旧東海道とは同区の呼続小学校前交差点で交差している。

名古屋市港区の大音寺
お寺だけでなく寺カフェ“一輪いちりん”というもうひとつの顔がある。
一輪という店名の由来は「皆さんがここで集まれる場所であってほしい」という願いが込められ、ひとつの輪=一輪と名付けられた。
名付け親は代表を務める大音寺若坊守の西川さやかさん。西川さんは調理師学校を卒業した後、フランスで料理を学び、帰国後はお料理教室を開いた。
西川さんの心の中には、「お寺の仏事にしかお斎場などを活用しないのではせっかく建物を新しくしてももったいない」という気持ちがあったそうです。
そこで出来るだけ活用できる方法を考えた末、毎日カフェを開けば、気軽にお寺に寄ってもらうことが出来るのではという思いからカフェを開く決心をされた。

戸田川緑地
名古屋市中川区と港区にまたがる都市公園。
平成元年(1989年)に開園、名前が示す様に戸田川中流の両岸2.5kmに渡って広がる。公園は南地区・中央地区・北地区に分かれており、計画面積は59.6ヘクタール(陸地面積40.1ヘクタール)となっているが、未完成の部分も多く、現在も工事が進められている。

蟹江川排水機場
蟹江川は上流域で大江用水につながっており、一宮市を除く流域内の地盤は、地下水の汲み上げで沈下していることから、河床は比較的高く、これらの地域では降った雨水はポンプにより排水を行っている。
蟹江川は下流部で日光川に合流するが、日光川本川の水位が高いため、常に自然流下で日光川に排水するには、蟹江川の堤防を現在より2メートル程度上げる必要があった。
そのため、新たに両側に堤防の用地が必要になるが、この川の両岸とも人家が密集しており、用地取得には住民への影響や長期間の日数を要することなどが懸念されるため、堤防の高さをそのままにし、蟹江川の水を排水機で日光川に排水する計画とした。
蟹江川排水機場は、昭和53年に排水能力毎秒40立方メートルを持つ施設を完成し、その後、平成5年に、流域の都市化等による流出量の増加に対処するため、ポンプ1台を増設し、毎秒52立方メートルの排水能力となった。
日光川から蟹江川への逆流防止、及び蟹江川の水位調節を目的として、排水機場に隣接して水門を設置している。 

飛島村
その面積のほとんどが開墾された土地で、1693年に大宝新田、1801年に飛島新田、1879年に政成新田が開拓された。
飛島村開拓の歴史の中でも飛島新田は767ヘクタールと規模が大きく、大変困難をきわめた開拓だった。この新田は、当時、熱田奉行兼船奉行であった津金文左衛門が尾張藩主の命を受けて開墾されたもので、現在も飛島村開拓の恩人として、元松神明社に銅像としてその姿を留め、飛島の地を見守り続けている。
東は日光川の中央を境とし、蟹江町・名古屋市港区に、西は筏川の中央を境とし、北は弥富市に隣接し、南は伊勢湾の最北部に面している。
全体の面積は約22.42km2と小さな村だが、北部は農村地帯、南部は臨海工業地帯となっており、昔ながらの、田園風景と名古屋港を中心とした貿易の拠点としての機能が共存している。
農村地帯では、水稲・麦・露地野菜・温室野菜・花卉等の栽培が盛んに行われ、また、一部では金魚の養殖も行われている。
臨海工業地帯には、輸送関連会社・倉庫会社・木材関連事業所・鉄鋼関連事業所・火力発電所などが立地し、名古屋港の物流の重要な地域となっている。

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