その昔近江国では、六角氏が衰退し、浅井氏の滅亡後多くの両氏一族、遺臣が帰農したり、あるいは商人へと転じていった。岡田家も元武士の家柄とされる。岡田弥三右衛門は、江戸時代初期、永禄、承応の頃に蝦夷地に進出した近江商人、岡田八十次家の初代である。
岡田家の当主は、代々八十次と称し弥三右衛門を初代の八十次とする記述もあるようだが、初代の名乗りは弥三右衛門が正しく、八十次を称したのは7代目以後とされているようだ。岡田弥三右衛門は当初安土城下で商売を営んでいたが、本能寺の変後安土城も落城し、豊臣秀次による八幡城築城を契機に八幡城下爲心町に新たに店を設けた。
その後八幡城の廃城後、町が衰退すると呉服太物を抱えて奥州に行商を始め八戸を拠点として蓄財をなしたと云われる。やがて松前藩家臣の助力を受け松前に進出し呉服・太物・荒物を販売する店を開き、屋号を「恵比須屋」とする。
松前藩の信任を受け、千石船で海産物を日本海を経由し、出羽から北陸、上方へと運んだり、蝦夷地における漁場経営や物資の調達を請け負ったりして御用商人として活躍する。子孫も事業を引き続き蝦夷地における近江商人の中心的存在として活動し、両浜町人の代表的商家の一つとなる。
岡田家第10代の時には小樽内・古平・礼文・利尻など23ケ所で場所請負を行った。明治4年に小樽(旧・小樽内)に支店を移し、12代目・13代目が北海道の開発事業に参加し、小樽の町の基盤整備を行った。北海道で炭礦や農場を経営したり、九州地方でも事業展開を見せたが、当時としては時代よりも進み過ぎた事業も多かったようで、やがて経営が悪化して明治34年、13代で破産を余儀なくされた。