ニンフェンブルク宮殿( Schloss Nymphenburg)

コンチネンタル・タンゴ(ヨーロピアン・タンゴ)は一般に、アメリカン・タンゴとは区別されている。とは言え、両者の間に全く交流が無いわけではない。たとえばルロイ・アンダーソンのビルボードチャート一位に輝いた「ブルー・タンゴ」はアメリカン・タンゴのヒット作であったし、アルフレッド・ハウゼ楽団もこれを録音した。

和製英語の由来「コンチネンタル・タンゴ」という和製英語は1965年のアルフレッド・ハウゼ楽団初来日記念のために発売されたLPのジャケットに表記されたことをきっかけにして広まったようである。

歴史

ブエノスアイレス、モンテビデオ近辺のラ・プラタ川流域で1880年ごろに生まれたとされるアルゼンチン・タンゴが、1910年代にヨーロッパ大陸とアメリカ大陸に輸入された。1910年代にフィンランド、ロシアへ伝わり、1920年代にはポーランド、ドイツ、チロルへ伝わった。フランスでは1910年代から流行したことが確認されている。ドイツの流行は1930年代だったことがフアン・ジョサス(ドイツ語版)の活動からわかる。デンマークでは、1925年にヤコブ・ゲーゼ作曲「ジェラシー」がヒットしたことにより、1920年代から北欧タンゴの伝統が始まった。

コンチネンタル・タンゴとアルゼンチン・タンゴの区分は第二次世界大戦前は余り明白ではなかったが、第二次世界大戦後にアルゼンチン・タンゴ専門の楽団が日本でも1950年代に出現するようになると、差別化しファンが住み分けていったようである。バルナバス・フォン・ゲッツィやアダルベルト・ルッター、フアン・ジョサスのような戦前派タンゴはドイツを中心に広く聞かれたが、第二次世界大戦終了後にほとんど姿を消し、ジョサスが急死してしまったことでアルフレッド・ハウゼ楽団は1960年代にトップに上り詰めた。

1980年代以降はアルフレッド・ハウゼ楽団レヴェルの著名度がないと活動がひどく困難になった。1965年以降日本を拠点にしていたアルフレッド・ハウゼ楽団も1989年に日本ポリドールレコードとの活動を終了し世代交代した。2010年代現在も活躍している楽団は世代交代で延命したマランドのようにあるが、解散あるいは活動休止した楽団も多い。コンチネンタル・タンゴ楽団としてのポリシーで活動する楽団は非常に少なくなってしまっており、コンチネンタル・タンゴをレパートリーに加えた楽団という形で生き延びた楽団が多い。

日本ではアルゼンチン・タンゴよりも後発であるコンチネンタル・タンゴが早く伝わっている。1920年代前半から1930年代にかけて親しまれた。通常「タンゴのリズム」を思い浮かべる場合には、8分の4拍子(8分音符3つと16分音符2つ)が多く、これはコンチネンタル・タンゴのリズムの刻み方である。カタカナ語で「コンチネンタル・タンゴ」と呼ばれているものは1910年代から1920年代にアルゼンチン・タンゴがパリに紹介され、パリの音楽家たちが、そのリズムをまねて作った楽曲である。

日本タンゴアカデミーを含む、かつての硬派のオールド・ファンは言及するのも嫌、という有様だった。しかし、一般大衆からの需要は高く、アルフレッド・ハウゼ楽団やマランド楽団は来日を果たして、LPも日本で販売できた。日本は戦前からタンゴが知られており、一世を風靡したキユーピー・バックグラウンド・ミュージックも開始のBGMにアルフレッド・ハウゼ楽団の「ミリタリー・タンゴ」を長期間用いていたこともあって、多くの日本人ならコンチネンタル・タンゴを連想する土壌はすでに生まれていた。かつての昭和時代のレコード屋の棚は「アルゼンチン・タンゴ」と「コンチネンタル・タンゴ」の二つしかなかった。一種の「ムード音楽」としても受容された。

ジョゼフ・リックスナー
ドイツの作曲家、指揮者

ヨーゼフ・リックスナー( 1902 年5 月 1 日 ミュンヘン生まれ、† 1973 年6 月 25 日ガルミッシュ・パルテンキルヒェン生まれ) はドイツの作曲家、指揮者であり、その作品は今日でも金管音楽や軽音楽に残されています。

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