白鳥庭園 (紅葉)

白鳥貯木場を埋め立てて、1983年(昭和58年)年から1991年(平成3年)年までかけて整備された、敷地面積約3.7ヘクタールと市内随一の規模を誇る池泉廻遊式庭園で、源流から大海までの“水の物語”がテーマとされる。

1989年(平成元年)開催された世界デザイン博覧会のパビリオン「日本庭園」として本格的に整備された。

閉幕後は、庭園専用の有料公園とするため継続整備され、1991年(平成3年)に完成・オープンした。池を中心に配置した「池泉回遊式」の日本庭園で、都市公園内の庭園としては東海地方随一の規模を誇り、東海三県を中心とした中部地方の地形をモチーフにしている。

小林かいち (日本の木版絵師、図案家)

日本の木版絵師、図案家、本名は小林嘉一郎(1896年-1968年)。大正後期から昭和初期にかけ、京都で木版絵師として絵はがき・絵封筒などのデザインを手がける。京都京極三条の「さくら井屋」を版元に数多くの作品が売り出された。

1928年(昭和3年)発表の谷崎潤一郎の小説『卍』の文中には、かいちの絵封筒「桜らんぼ」「トランプ」の2作品に関する記述がある。

昭和初期以降は、かいちの存在は少しずつ忘れ去られ、一部のアンティークのファンや絵はがきの収集家などの間でだけ認知されるようになった。作風はアール・デコスタイル、叙情性をもちモダンと呼ばれた西洋的な様式やモチーフと日本的な雰囲気との調和は、華やかな大正ロマンを感じさせる。

作品の画面はシンプルでシャープな線と面、印象的な色彩表現によりアール・デコ様式の装飾性を持ち「京都のアール・デコ」とも称される。モチーフはハート・月・星・薔薇・トランプ・十字架・女性などロマンティックなものがよく使われている。

目鼻立ちが描かれていないにもかかわらず物憂げな心情を感じさせる女性像など、装飾性を持ちながらメランコリックな雰囲気を醸し出した作風には表現主義の影響が見てとれる。雅号もしくは作品のサインには「嘉一」「歌治」「うたぢ」「う多路」「Utaji」がある。かいちの性別・生没年・正確な作品点数・私生活などは不明で「謎の叙情版画家」「謎の画家」と称される。

宇治平等院

藤原氏ゆかりの寺院、平等院は京都府宇治市にあり、山号を朝日山と称し、本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院で、平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝える「古都京都の文化財」として世界遺産に登録される。

京都南郊の宇治は『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台でもあり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。

平安時代後期になると、「末法思想」が広く信じられ平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たった。当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。

『観無量寿経』の一節に、「若欲至心生西方者、先当観於一丈六像在池水上」(若し至心に西方に生まれんと欲する者は、先ず当(まさ)に一の丈六の像池水の上に在(いま)すを観るべし)とある。

鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画や供養菩薩像、周囲の庭園などは『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、現世の極楽浄土として造られたことは間違いないが、そうした浄土教、末法思想という観点のみから平等院や鳳凰堂をみることは一面的な理解であるという指摘もある。

平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいたが、貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。

建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続し、平等院の境内は現在のような景観になった。