ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)

1841年フランスのブールジュに生まれる。

ウーディノ、コローらのもとで絵画を学び、マネやルノワールら印象派の画家たちとの交流を通じ独自の絵画技法を編み出す。

男性中心の19世紀における印象派画家の一人で、美術史においても数少ない女性画家である。

パステルカラーの色合いで対象物を写真の一風景のように捉える構図、そして、大胆な筆さばきが特徴。

マネとは非常に親しい間柄マネの絵画のモデルとしても知られ、後にマネの弟ウジェーヌと結婚し娘ジュリーをもうける。

後年の作品はこの娘ジュリーや、夫であるウジェーヌを題材にした牧歌的な作品が多い。

モリゾ家はロココ時代の画家ジャン・オノレ・フラゴナールの家系と言われ、モリゾが好んで描いたモチーフは、自らの周囲、当時の上流階級の優雅な生活の風景が多く、風俗画の伝統を受け継いでいるという一面もある。

晩年にいたるまで盛んに製作を行い、画家ではマネやルノワール、画家以外ではマラルメと盛んに交流を行った。

1895年に54歳で死去。

エーゲ海、アンドロニス ラグジュアリー スイーツホテル

アンドロニス・ラグジュアリー・スイーツ・サントリーニ(Andronis Suites)は,崖を彫って建設され、神々しい火山の威容と紺碧のエーゲ海をカルデラの崖から見下ろすチャーミングな白塗りの別荘。

伝統的なキクラデス様式の建築と現代的なインテリアで、広々とした客室から望む息を呑むような景観はエレガンスとミニマリズムの美しい融合。

静かで落ち着いた滞在を楽しみながら賑やかなイア地区にも簡単にアクセスできる便利な場所に位置する。

健康的で自然なライフスタイルを提唱するというコンセプトで、マッサージルーム、高級スパ、バイオ・オーガニックの食材のみを使用した料理の地中海料理レストランに反映される。

客室数は16 室で冬季は閉館。

ジャン・フレデリック・バジール

フランスの印象派画家、ジャン・フレデリック・バジール(Jean Frédéric Bazille
1841年12月6日 – 1870年11月28日 )は、ラングドック=ルシヨン地域圏・エロー県のモンペリエで裕福なプロテスタントの家庭に生まれた。

ウジェーヌ・ドラクロワの作品を見て絵画制作に興味を持ち、医学も同時に勉強するという条件つきで、1862年、パリに出た。

ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーと会い印象派絵画に引き寄せられる。

医学の試験に失敗した後は絵画に専念し、親しく付き合った友人には、クロード・モネ、アルフレッド・シスレー、エドゥアール・マネがいる。

バジールの作品の多くは人物画で、風景の中に主題の人物を配置する。

バジールは裕福で気前がよい性格で、困っている友人たちに自分のアトリエや画材を使わせたりして支援を惜しまなかった。

サロン・ド・パリに落選したクロード・モネの『庭の女たち』を2,500フランで買い取り、月に50フランずつの分割払いにして援助した。

普仏戦争で、28才で戦場に斃れた。

アレクサンドル・カバネル (Alexander Cabanel)

フランスの新古典主義・アカデミー画家、歴史画家、肖像画家であるアレクサンドル・カバネル (Alexander Cabanel、1823年9月28日 – 1889年1月23日)は、正確なデッサンで甘美で官能性に溢れた神話的女性像を手がけ名声を博す。

新ロココ様式とも呼べる画風の『ヴィーナスの誕生』は、時の皇帝ナポレオン3世が購入するほどの高評価を得た。

カバネルは典型的なアカデミー的作風で成功したため、同時代の印象派の画家らから敵対視され、印象派の陰となり評価が不当に低くなっていた。

そのため現在も研究が進んでおらず、多くの代表作が行方不明となっている。

1823年パリに生まれ、1840年から五年間パリ国立美術学校でアカデミックな絵画を学ぶ。

1841年、サロン初出展、1845年にはローマ賞し、イタリアへ留学。

1863年、アカデミー会員選出など、順調に地位を確立し、フランス支庁舎の装飾など公的な注文を受けるなど、数々の名誉を得た。

1889年、生地であるパリで死去。

代表作

モーゼの死(1851年)ニューヨーク、ダヘッシュ美術館

ニンフとサチュロス(1860年)私蔵

ヴィーナスの誕生(1863年)パリ、オルセー美術館

フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの死(1870年)パリ、オルセー美術館

Keller伯爵夫人(1873年)パリ、オルセー美術館

フェードル(1880年)モンペリエ、ファーブル美術館

オフィーリア(1883年)私蔵

カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵夫人(1887年)イギリス、ケドルストン・ホール

有罪の囚人で毒を試すクレオパトラ(1887年)私蔵

Eve After the Fal 私蔵

アダムとイヴの楽園追放 私蔵

アール・ポンピエ(L’art pompier)は、 Pompéin(ポンペイ)、pompeux(もったいぶった)の洒落とも言われている。

19世紀後期、フランスの格式ばったアカデミック絵画、とくに歴史画、寓意画を指す言葉で、侮蔑的に使われた。

直訳すると、「消防士の美術」で、当時のフランスの消防士がかぶっていた、馬の尻尾の毛のついた風変わりなヘルメットに由来する。

このジャンルの作品の中に出てくる、寓意的な化身、古代ギリシア・ローマの戦士、ナポレオンの騎兵のかぶっていたギリシア式のヘルメットによく似ていたことによる。

ポンピエ美術は、ブルジョワジーの嗜好を具現化したもの、偽りのもの、誇張と見られていた。しかし、このジャンルの絵を支持する人は、この言葉を忌み嫌った。

パリのオルセー美術館では、アール・ポンピエが、当時の印象派、写実主義と同等に展示され、アール・ポンピエは再評価を受けている。

徳力富吉郎版画館 (伊勢、おかげ横丁)

木版画家の徳力富吉郎氏は京美工卒後、土田麦僊塾に学び日本画で国展樗牛賞・国画賞を受賞する。自画・自刻・自摺りによる創作木版画を手がけ、平塚運一・棟方志功らと同人誌「版」を、麻田弁自らと「大衆版画」を発行する。

版画制作所を設立し、浮世絵方式による量産も行いニューヨーク等海外個展多数開催する。代表作に全紙判版画「京百景」等があり、茶人・粋人としても著名で、平成12年(2000)歿、98才。

木版画家徳力富吉郎氏の記念館が、伊勢市宇治中之切町52 おかげ横丁内にある。

おかげ横丁は伊賀上野にある「清雅堂」という骨董屋がモデルの建物で、軒先が低く母屋に蔵がついた伊賀地方独特の商家の様子を残す。山口誓子俳句館も併設され、投句箱が設けられ毎月入選句が掲示される。

赤福餅の中には、徳力富吉郎さんの作品『伊勢だより』が日替わりで入っている。

メゾン・ランドゥメンヌ東京 (Maison Landemaine Tokyo)

パリで「最高のパン屋賞」を受賞した人気ブーランジェリー・パティスリーが日本に初上陸。パリにある「メゾン・ランドゥメンヌ」の東京支店、「メゾン・ランドゥメンヌ東京」が2015年3月30日に港区麻布台にオープン。

「メゾン・ランドゥメンヌ」は、パン職人の石川芳美さんとパティシエとして活躍するロドルフ・ランドゥメンヌさんの二人で、2006年にオープンしたお店で開店以来人気が高まり、毎年出店を重ね現在ではパリ市内に8店舗を開く。

「メゾン・ランドゥメンヌ」は数々の賞を受賞し2011年にはパリのグルメガイド「ピュドロ」でブーランジェリー・オブ・ザ・イヤーパリ、”パリで最高のパン屋賞”を受賞。
ピュドロは、ミシュランの次に有名なグルメガイドブック。

2013年には仏フィガロ誌の「パリで最も美味しいクロワッサン」の第3位に選ばれる。

Maison Landemaine Tokyo(メゾン・ランドゥメンヌ トーキョー)
住所:東京都港区麻布台3-1-5 六本木
営業時間:月曜〜土曜 7:00~20:30(L.O 20:00)
日祝日 7:00~19:30(L.O 19:00)
※ランチタイム:平日11:30~14:30 / ブランチタイム:土日祝日 10:00~14:00
定休日: 不定休

タイ、クッド島の高級リゾート・ソネバキリ

タイで4番目に大きな島、昔ながらの原風景を残すクッド島。

自然に恵まれ、環境と共存する設計で、シャム湾を見渡す海側と丘側に建てられたヴィラはわずか35棟というソネバ キリ Soneva Kiri。

全てプライベートプール付きで、客室面積は403㎡以上、土に戻る地球に優しい素材を使用していて贅沢な空間の中、清閑なひとときを楽しめる。木の上で食事ができるユニークなレストラン、水辺にスクリーンを浮かべた野外シアター、部屋にはダイニングも多彩に用意されリゾート内で栽培された有機野菜、近海で採れた魚介などの食事ができる。

書の美術館、道風記念館 (春日井市)

平安時代中期の書の名人小野道風は、敏達天皇の末裔、小野篁の孫、父は太宰大弐葛絃で、藤原佐理、藤原行成と共に三跡と呼ばれる。父葛弦が尾張国春日部郡松河戸(現在の春日井市松河戸町)に滞在中、里人の娘との間に生まれ、幼少期をこの地で過ごし、10 歳頃に父とともに京に上り、12 歳で天皇に書を献上したと伝わる。

現在生誕地と思われる場所に道風記念館が建つが、ここで生まれたという確証はなく、幼名や幼少期の事跡も伝わってはいない。道風が生きた平安中期は藤原氏全盛の時代で、兄の好古は藤原純友の乱で戦功をたて参議に任ぜられた。

道風は、それまでの硬い中国風の書体を、優雅でやわらかい日本風の書体として新たに生み出し書道で身を立てた。延喜二十年(九二〇)、27歳の時に「能書之撰」によって昇殿を許される。このいきさつを、『麒麟抄』では次のように紹介している。

「延喜の帝の時、右京大夫(葛絃)を召され、『汝の子が能書であることを耳にした。ここに一筆書かせよ』と言われ、団扇を一本賜った。

道風はこの団扇に『我遣三聖化彼震旦 礼儀先開大小乗経』と書いて帝に献上した。

帝はこれを御覧になった後、そのまま打ち捨てておかれた。道風は、首尾はいかがでしたかと父に問うたが、葛絃は特にお褒めの言葉は無かったと告げた。そこで道風は、父に乞うてその団扇を返していただき、裏に『私は晋の王羲之の筆跡を持っていて、それを学びました。恐れながら帝は筆芸に達しておいででしょうか』と書き、再び進上した。帝はこれを御覧になって大いに恥じ入り、河内国を給わって、昇殿を許された。」また「源氏物語」では「宇津保物語絵巻」について「絵は常則、手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目もかがやくまでみゆ」と、記される。平安時代は贈り物として名筆を送ることが流行し、当時尊崇を集めていた道風の書蹟は愛好され、その書風は広く流行したことが伺われる。さらに「御堂関白記」では、藤原行成も藤原道長から道風の書蹟を借りたとあるように、道風を学び和様の書風を完成させたとも言える。行成の書風は世尊寺流として書道の中心的存在であり、道風が書道界に与えた影響は極めて大きい。文化12年、尾張藩の学者、秦鼎の撰文によって建てられた小野朝臣遺跡碑によれば18世紀末、この土地で道風生誕が信じられ顕彰活動がおこなわれていたことが知られる。昭和56年11月1日、春日井市は道風誕生の地と伝えられ小野朝臣遺跡碑の建つ松河戸町に、書の専門美術館「道風記念館」が開館する。全国的にも数少ない書専門の美術館で小野道風を始めとする貴重な書作品が収蔵展示される。

長良川、芭蕉、十八楼ノ記

このあたり目に見ゆるものは皆涼しばせを 貞亨五仲夏 『笈の小文』の旅の帰路、油商賀島善右衛門の別邸に招かれた折、この邸に「十八楼」と命名し、その謂れを書いて与えた一文が『十八楼の記』である。

賀島善右衛門は岐阜の油商人で岐阜蕉門の一人、俳号は鴎歩。

芭蕉、十八楼ノ記 (貞亨5年6月8日:45歳)

美濃の国長良川にのぞんで水楼あり。あるじを賀島氏といふ。稲葉山うしろに高く、乱山西にかさなりて、近からず遠からず。田中の寺は杉のひとむらに隠れ、岸にそふ民家は竹の囲みの緑も深し。さらし布ところどころに引きはへて、右に渡し舟うかぶ。里人の行きかひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるおのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼するなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。かの瀟湘の八つの眺め、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひこめたり。もしこの楼に名を言はむとならば、「十八楼」とも言はまほしや。夏の夕、川風にうたれ長良川の岸辺に立つ高殿で鵜飼漁を眺める風流を詠み川に面して立つ高殿である水楼の命名を「十八楼」とした。老舗旅館、十八楼は、松尾芭蕉の「十八楼の記」に由来し、江戸時代末期、1860年(万延元年)地域再興のため旅館「山本屋」が「十八楼」と改名したものである。株式会社 十八楼岐阜市湊町10番地万延元年 1860年創業

エクアドル、クエンカの歴史地区

南アメリカのエクアドルの首都キトから、南へおよそ500km、16世紀半ばに建設されたスペインの植民都市クエンカ。アンデス山脈中の険しい崖の上にあり、標高は約2,500mで気温は15度前後と涼しい。

ヨーロッパから持ち込まれた建築様式の教会や修道院が数多く建てられ、スペイン植民地時代の美しい面影を残す。

丸石で舗装した道路、塔のある教会など植民地時代の建造物や街並みが多く残る。

クエンカは、サンタ・アナ・デ・ロス・リオス・デ・クエンカの歴史地区として、ユネスコの世界遺産に登録される。

ヤシの一種で編まれ、黒いリボンが特徴のパナマ帽は、1860年、パナマ帽の製造が法律で強制された事により普及する。クエンカやその周辺の町では、本業であったり副収入であったりと、違いはあるが多くの人々が帽子づくりに携わっている。南部地域の重要な産業であり、日本にも輸出されている。