パリのノートルダム大聖堂は、ゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。
「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。
現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。
ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。
パリのノートルダム大聖堂は、ゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。
「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。
現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。
ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。
【テクラ・バダジェフスカ】
彼女はポーランド出身の作曲家でありピアニストなのですが、生年を1834年とする説と1838年とする説があります。1861年9月29日に亡くなっていますので、20代の若さでこの世を去っております。
本格的な音楽教育は受けていなかったものの、20歳前後の頃に作曲した『乙女の祈り』で有名に!この曲を作曲したのちに結婚し5人の子供を産み育てます。
この曲を含め小品を35曲ほど作曲したのですが、病弱のため亡くなってしまいました。
彼女の作品は第二次世界大戦により大半が消失したため、現在では『乙女の祈り』以外はほとんど知られていません。
そして悲しいかな、本国ポーランドでは認知度が非常に低いのです。これは、「祈り」という言葉が、共産圏の影響下にあったポーランドで不適切とみなされたためとされています。
さらに、音楽教育を受けていない『少女』に対しての「偏見」があったとする見方もあります。
バダジェフスカの『乙女の祈り』は、明治時代に日本に伝えられて以来、オルゴール曲の定番として日本で広く愛されています。
ちなみに台湾では、ゴミ収集車が『乙女の祈り』を流しているため、台湾でも馴染みの曲となっています。
三亜の名称は「三亜河」(旧称: 臨川水)に由来する。三亜の東西から流入する川が合流しY字となっていたことより三亜と命名された。
三亜が中原の支配を受けるようになったのは前漢のことである。秦代には崖州が設置されていたが、実際の支配は武帝により南越国が滅亡された後の前110年に臨振県が設置された後である。その後臨振郡、崖州、珠崖軍、吉陽軍、崖州と名称の変遷があった。明代の『正徳瓊台志』には既に「三亜村」、「三亜里」の的記載が登場している。清末の1905年(光緒31年)に崖州は直隷州となり万安・陵水・昌化・感恩の四県を管轄するようになった。
中華民国が成立すると1912年に直隷州は廃止され、崖県が設置され県治が三亜に設置され、三亜が地域の中心として発展するようになった。1984年5月に崖県は県級市の三亜市に昇格、更に1987年11月に地級市に昇格し現在に至っている。
かつては中国と東南アジアとの間の海路の中継点にあたる場所であり海上交通中継地・軍事上の要地ともされたが、同時に中原政権にとり辺境に位置する三亜は歴代王朝により流刑地として使用されていた。歴史的にリー族やミャオ族が多く、その他イスラム教を信仰する回族も一定数いるが、中国全土からの人口流入により漢族が人口の大半を占めるにいたっている。
フレデリック・フランソワ・ショパン(仏: Frédéric François Chopin 、ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin 、生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もあり) – 1849年10月17日)
ポーランド出身のショパンは、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。
当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。
その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。
様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いていった。
夜想曲やワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られている。これらの情熱的かつダイナミックな曲はクラシックピアノを学ぶ者の憧れであり、大きな目標となっている。そのためピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。また、母国ポーランドへの強い愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。
略歴
1810年 – 0歳:ワルシャワ公国中央のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。
1816年 – 6歳:ヴォイチェフ・ジヴヌィの指導を受ける。
1817年 – 7歳:ジヴヌィよりピアノを習う。現存する最初の作品『ポロネーズ ト短調』を作曲・出版。
1818年 – 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。
1823年 – 12歳:ユゼフ・エルスネルより対位法・和声学を学ぶ。
1826年 – 16歳:父親の勧めでワルシャワ音楽院に入学[1]。
1828年 – 18歳:ベルリンに2週間滞在。
1829年 – 19歳:ワルシャワ音楽院を首席で卒業。ウィーンで演奏会を開く。
1830年 – 20歳:ワルシャワを去りウィーンへ向かう。
1831年 – 21歳:ウィーンを去りパリへ向かう。デルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。
1832年 – 22歳:2月26日、パリでの初の演奏会を開く。
1835年 – 25歳:カールスバートで両親と最後の再会。マリア・ヴォジンスカとも再会。
1836年 – 26歳:マリアに求婚。ジョルジュ・サンドと出会う。
1837年 – 27歳:マリアとの婚約が破棄される。
1838年 – 28歳:サンドとの交際が始まる。マヨルカ島に滞在。
1839年 – 29歳:冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる。
1844年 – 34歳:冬、インフルエンザにかかる。
1847年 – 37歳:ジョルジュ・サンドとの別れ。
1848年 – 38歳:2月26日、パリでの最後の演奏会。イギリスへ演奏旅行。
1849年 – 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。10月17日、永眠。
1.パナマ運河
パナマシティを観光で訪れた誰もが訪れる場所がここパナマ運河。南北のアメリカ大陸を結ぶパナマ地峡が一番細くなる部分に築かれたもの。太平洋側と大西洋側を結ぶもので、1914年に開通しました。
こちらパナマ運河を観光する方法としては大きく分けて3つほどあります。まずはパナマ運河クルーズに参加するパターンです。毎週土曜日にパナマシティのバルボア港から遊覧船が出港。ミラフローレス水門に向かい、パナマ運河に入っていきます。その後ミラフローレス湖に入り次の水門を目指していくといったクルーズです。次はミラフローレス水門に直接行き、パナマ運河を往来する船を見学すること言ったコース。最後がパナマ運河鉄道に乗り、その車窓からパナマ運河の雄大な景色を堪能するもの。
名称:Panama Canal(パナマ運河)
公式・関連サイトURL:http://www.pancanal.com/eng/
2.パナマ運河博物館
出典: Isaías Montilla (CC BY-SA 3.0)
パナマシティ観光の一番の重要な場所、パナマ運河に行くのならば、その前後に是非こちらのパナマ運河博物館も観光にて訪れてみましょう。場所はパナマ政庁舎の隣。カスコ・ビエホと呼ばれる歴史的地区にある独立広場に面しています。館内にはパナマ運河建設にかかわるものから、現在のパナマ運河の役割にいたるものまで、多くの資料が展示されています。説明はスペイン語の物のみとなっていますが、英語での音声ガイドもあります。
また建設当時のもの、パナマ運河クルーズの様子、またアメリカからの返還式典の様子などの映像も見ることができます。
名称:Museo del Canal Interoceanico de Panama(パナマ運河博物館)
住所:Plaza de la Independencia, Calle 5a Este, Panamá, パナマ
公式・関連サイトURL:http://museodelcanal.com/
3.パナマ・ビエホ
パナマ運河に次いで重要な観光スポットとなるのが、旧市街カスコ・ビエホとこちらパナマ・ビエホ。1519年にスペイン人によって最初に作られた植民都市の廃墟で、ユネスコ世界遺産として登録されています。太平洋側にあったインカ帝国などで略奪された財宝は、全て、ここを経由してパナマ地峡を通過し、大西洋岸の港を経て、スペインに運ばれました。その為、街は大いに繁栄したのですが、1671年海賊の侵攻で、街は廃墟となってしまったのです。スペイン人達は街の再建をあきらめ現在のカスコ・ビエホにあたる場所に新たに街をつくります。長いこと放置されていたパナマ・ビエホですが、現在は修復され遺跡公園のようになっています。パナマ・ビエホ塔は展望台として360度の光景を楽しむこともできますよ。この街を知る上で外せない観光スポットです。
名称:Panama Viejo (パナマ・ビエホ)
住所:Vía Cincuentenario, Panamá,
公式・関連サイトURL:http://www.patronatopanamaviejo.org/ppv2014/es/
4.カテドラル
パナマシティへ観光に訪れた人なら必ず訪れるであろうカスコ・ビエホ。そちらの中心にあたる場所が独立広場。その独立広場に面して建っているのが、旧市街の象徴のひとつカテドラルなのです。1688年~1794年という100年以上の長い年月をかけて建設された現在のカテドラルは、正面に美しい飾りを持ち、またイギリスの海賊ヘンリー・モーガンによって破壊されたパナマ・ビエホにあった旧カテドラルから、3つの鐘が移設されています。このカテドラルのある旧市街カスコ・ビエホは、カラフルな色合の建物が多く、スペイン植民地時代のコロニアル調の街並みを今も残しています。
名称:catedral de panama(カテドラル)
住所:N.º 20 de 172 cosas que hacer en Ciudad de Panamá
公式・関連サイトURL:http://www.panamaviejaescuela.com/historia-catedral-metropolitana-de-panama/
5.サン・ホセ教会
出典: Editorpana (CC BY-SA 3.0)
黄金の祭壇を持つことで有名なサン・ホセ教会。旧市街のカスコ・ビエホの中心に位置する独立広場から、徒歩3分ほどの場所にあります。1671年にイギリスの海賊ヘンリー・モーガンによって襲撃されたパナマシティは、当時の中心地パナマ・ビエホにあった建物など徹底的に破壊され、金銀財宝などは持ち去られてしまいます。しかしここサン・ホセ教会の黄金の祭壇は、漆喰で塗られ隠されていたために、奇跡的に略奪されることなく現在に至っています。カスコ・ビエホ地区は新市街地と異なり、治安に関しては若干の不安があります。
名称:Church of San Jose(サン・ホセ教会)
住所:パナマ パナマ市
6.フランス広場
パナマシティ重要な観光地のもう一つがここフランス広場です。カスコ・ビエホ地区の南東にある美しい広場で、フランス大使館が隣接していることからその名前が付けられました。パナマ運河建設を最初に手掛けたフランス人レセップや、運河建設に携わっていた人達をマラリヤなどの病気から救ったキューバ人医学者など、記念像などが並びます。パナマにとって記念的な広場なのです。広場沿いの海を眺められる遊歩道からは、パナマシティ新市街地の高層ビル群からなる、美しい夜景も見れます。暗くなってからのパナマシティには危険付きまとうもの。気をつけて行動しましょうね。
名称:Plaza de Francia
住所:Casco Viejo, Panama City, Panama
7.バルボア駅舎
パナマシティの観光スポットとしてバルボア駅舎もおすすめいたします。
かつてはパナマ運河にそって運行していた鉄道の駅舎でした、現在はショッピングモールとなっています。運河建設当時の歴史的遺産が、広い庭や駐車場の一角にあり、また軌道を利用して走っていた蒸気式の大型クレーン車や、土砂などを運んだ貨物車などの展示品もあります。鉄道ファンには特にたまらない観光スポット。パナマシティの中心部からはタクシーやバスで行けますよ。
名称:Estación de Balboa(バルボア駅舎)
住所:Av Julio Linares, Panamá, パナマ
8.パナマシティ新市街
現在のパナマを感じるためには新市街に訪れましょうね。旧市街エリアのコロニアル調の街並みとは一転!そこはまるでニューヨーク、シンガポール、香港!?などのように高層ビルが乱立。世界的な銀行から高級ホテルまでが展開し、世界中のビジネスマンが達が集まっています。旧市街地とは異なり治安もそこまで悪くないのも安心のポイント。特に観光地として観光客が行く場所ではないですが、現在のパナマシティを感じる上では絶対に外すことができないエリアです。
名称:パナマシティ新市街
成都や北京にも同じ太古里があるが、その3か所目がここ上海に開業た。
前灘太古里の特徴は、一つの大きな建物ではなく、このエリアに複数の建物が並んで街中を歩くようになっている。
日本で言うなら、ららぽーとやイオンモールのような一つの大きな建物ではなく、御殿場プレミアム・アウトレットのような風情。
中国で流行っているショッピングモールは、エリア内で迷い込むように歩くようになっているのが特徴だ。
スペイン語で「鳩」を意味し、ハバナを去る自分を鳩に托す歌詞を持つ。
イラディエルはキューバに滞在したときに当地のハバネラについて知り、このリズムを使って書かれたのが『ラ・パロマ』である。
正確な作曲年は不明だが、マドリードの著作権管理局に1859年のイラディエル作曲「ラ・パロマ(ピアノ伴奏つきアメリカ歌曲)」(La Paloma (Canción Americana con acompañamiento de Piano))として登録されているのが文献上の初出である。
メキシコでは第二帝政時代の1866年にソプラノ歌手のコンチータ・メンデスがこの曲を歌って非常に有名になり、今もメキシコ音楽と思っている人が多い。
スペイン語圏に限らず、世界各地の言語で歌われている。1961年の映画『ブルー・ハワイ』でエルヴィス・プレスリーの歌う「ノー・モア」も本曲の編曲に英語の歌詞を加えたものである。
ドイツでは1944年の映画『グローセ・フライハイト7番地』で主人公を演じたハンス・アルバースの歌う「ラ・パロマ」がヒットし、1958年にビリー・ヴォーンのオーケストラ版、1961年にフレディ・クイン(英語版)の歌った「ラ・パロマ」がミリオンセラーになった。
チェコでは「Hřbitove」(墓場にて)という全然異なる歌詞がつけられ、曲調もかなり変化している。
シチリアーナ(siciliana)
ルネサンス音楽末期から初期バロック音楽に遡る舞曲
ゆるやかな8分の6拍子か8分の12拍子で作曲され、ためらいがちにたゆとう曲想と付点リズムが特徴的で、通常は短調(もしくは自然短音階)をとる。器楽曲の楽章として利用されただけでなく、オペラ・アリアにも応用されている。シチリアーナは、おそらく「シチリア舞曲 danza siciliana」ないしは「シチリア風に A la Siciliana」に由来する女性名詞であるが、男性名詞であるシチリアーノ(siciliano)や、フランス語の女性名詞・シシリエンヌ(Sicilienne)も用語法として定着している。
古い時代のシチリアーナとして有名なものとして、20世紀にレスピーギによって《リュートのための古風な舞曲とアリア》第3組曲の第3曲として弦楽合奏用に編曲された、16世紀イタリアの作者不詳のリュート曲が挙げられる。この原曲は1999年に、カゴメのパスタソースのTVCMに利用され、曲名と演奏者についてメーカーに問い合わせが殺到し、急遽リリースされたマキシシングルCDがヒットチャートに躍り出るという事態を招いた。
バロック時代の有名なシチリアーナには、ヘンデルの《リコーダー・ソナタ ヘ長調》HWV369の第3楽章(ニ短調)や、伝バッハ(偽作)の《フルート・ソナタ 変ホ長調》BWV1031の中間楽章(ト短調)が挙げられる。またバッハはカンタータなどの中に多くの真作シチリアーナを作っている。
シチリアーナのリズムは古典派音楽においても愛用され、モーツァルトの《ピアノソナタ第11番》、《ピアノ協奏曲第23番》や、ハイドンのオラトリオ《天地創造》のソプラノ独唱のアリアにも利用されている。チマローザの《オーボエ協奏曲》にもシチリアーナの楽章が含まれている。
19世紀の間、シチリアーナによる有名な曲はほとんど産まれなかったが、世紀の変わり目にフォーレによって、チェロとピアノのための《シシリエンヌ ト短調》が作曲された。これは後にフォーレの高弟・ケックランによりオーケストラ用に編曲され、劇付随音楽《ペレアスとメリザンド》とその組曲版に挿入され、いっそう広く知られるようになった。
朱印船貿易が盛んだった17世紀頃には日本人町があり、300人以上(1,000人以上とも)の日本人が住んでいたと言われているが、1633年の第一次鎖国令(5年以上海外に住んだ日本人の帰国禁止)、1635年の第三次鎖国令(東南アジアからの帰国禁止)により、徐々に日本人は帰国した。
その後ホイアンでは大火があり、現在の街並みはすべて19世紀以降のものになっているため、日本人街の遺構は残っていない。日本人が造ったとされる来遠橋(通称「日本橋」)も、建築様式が日本のものと異なることから、後年架け直されたものと思われるが、1993年(平成5年)から継続的に行なわれている昭和女子大学らの発掘調査により、橋のすぐ横から木杭や板材が見つかり、それが本来の日本橋の遺構ではないかと見られている。
発掘調査では、他にも古伊万里焼の破片や日本独特の仏具である仏飯器なども出土した。ホイアン郊外には1647年に没した谷弥次郎兵衛の名が刻まれた日本人墓地(昭和5年(1930年)に日本人によって修復されたもの)もある。
また、ホイアン郷土料理の汁なし麺であるカオラウ(Cao lầu)は、日本の伊勢うどんが変化したものではないかとする説もあるが、スープでなくタレをからめて食べる点の類似や、カオラウの漢字「高樓」が2階建て家屋があったとされる日本人街の通称「高樓」に由来するのではないかという推測からであり、証拠はない。
近年においては、1990年以降の昭和女子大学や文化庁、JICAの専門家が携わる伝統的建造物の保存修理・技術協力や、建築史・歴史・生活調査・研究があげられる。これらには、ベトナム人研究グループや修理支援グループが参加、地域の技術能力向上にも貢献している。2003年以降は、地元在住の日本人が政府機関や地域コミュニティー関係者と開催する「ホイアン日本祭り」も行われている。
2009年には、昭和女子大学が修復・展示に協力(文化庁が指導)した貿易陶磁博物館を、皇太子徳仁(当時)が訪問。2017年には、ダナン市で開催されたAPEC首脳会議に出席した当時の安倍晋三、グエン・スアン・フック両首相が、旧市街の伝統的建築を見学。御朱印船の寄贈式や「長崎くんち」の公演を視聴した。
2018年には、日本政府の無償資金協力のもと、「日本橋」周辺水路の水質改善のための下水処理場が完成。また、日越外交関係樹立45周年記念事業として、日本フィルハーモニー交響楽団の四重奏が、日本橋前広場で公演。市内のエコ・カフェでは、地域の子どもを対象としたワークショップと演奏を行った。
『ある日どこかで』(あるひどこかで、Somewhere in Time)は、1976年発売のリチャード・マシスンのSF小説(世界幻想文学大賞受賞作)及びそれを原作とする1980年のアメリカ合衆国のSF恋愛映画。
監督はヤノット・シュワルツ、出演はクリストファー・リーヴとジェーン・シーモアなど。ユニバーサル・ピクチャーズ製作、カラー(モノラル)、約103分。
「カルト古典」映画としてコアなマニアによって好んで視聴されており、2010年から開催された「午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本 第一回・第二回」にも選ばれているように、公開から40年以上を過ぎても熱烈なファンが多い。
ストーリー
1972年、ミルフィールド大学。脚本家志望のリチャード・コリアーの処女作上演後のパーティー会場に、成功を喜ぶ彼を会場の隅から見ている上品な老女がいた。彼女はリチャードに歩み寄り、「(私の所へ)帰ってきて」という不思議な言葉と共に懐中時計を手渡し去っていった。
周りの皆は誰一人として彼女が何者なのか知っている者はいなかった。彼女はグランドホテルの自室に戻り、リチャードの書いた脚本を胸に抱いて思い出の曲を聴きながら、その夜静かに息を引き取った。
8年後の1980年、脚本家となったリチャードのオフィスには、彼の大好きな曲が流れていた。仕事も私生活も行き詰まっていた彼は、原稿を求めに来る編集者から逃げるように、車で旅に出た。そしてドライブの途中で通りかかったグランド・ホテルに、引き寄せられたかのように宿泊した。レストランのオープン前に立ち寄ったホテル内の歴史資料室で、リチャードは背中に熱い視線を感じた。振り返ってみると、そこには若く美しい女性の写真が掛かっていた。しかし、名札は外されていた。ホテルの老ボーイのアーサーに尋ねると、彼女はそのホテル内の劇場で公演をした女優であることを知る。
その時から、リチャードは彼女のことが頭から離れなくなり夜も寝つけなかった。そして彼女についての調査に没頭し、写真の主は1912年当時、人気のあった女優エリーズ・マッケナであり、1912年以降活動しなくなったことを知る。また、彼女のメイドだったローラに話を聞きに行ったさいに、彼女が1972年の夜に亡くなったことも知る。彼はさらに調査を進めていくが、彼女の愛読書がリチャードの哲学教師の著書である『時の流れを超えて』であることに驚き、ここで「帰ってきて」の意味を知り、さらにホテルの過去の宿泊名簿から自分が1912年に時間旅行している事実を見付け出す。
リチャードは時間旅行を研究するフィニー教授に相談し、「現代の所持品を捨て、行きたい時代の品物を身に付けて催眠術をかける」という方法を聞き出し、1912年の衣服・硬貨を身に付け、ホテルの一室で自分に催眠術をかける。
目を覚ますと、リチャードは1912年に時間旅行していた。彼はホテル中を探し回り、ホテルの側の湖畔で佇むエリーズを見付け出し彼女に接触するが、マネージャーのロビンソンに追い返されてしまう。リチャードはロビンソンに追い返されながらもエリーズと接触を繰り返し、彼女は次第にリチャードに惹かれていく。エリーズはリチャードを公演に誘い、舞台で台本を無視した台詞を言い始める。その言葉はリチャードに向けた愛の告白であり、リチャードは彼女の気持ちを確信するが、その直後にロビンソンに呼び出される。ロビンソンは、自分がエリーズの才能を見出し、世紀の大女優にするために人生を捧げてきたことを告げると同時に、リチャードに対して彼女に近付かないように警告する。リチャードはその場を立ち去ろうとするが、ロビンソンの部下に殴られて気絶してしまう。翌朝、馬小屋で目覚めたリチャードはエリーズを探すが、既に公演の役者たちはホテルを出て行ったことを知りショックを受ける。エントランスで立ち尽くすリチャードは、役者たちと別れてホテルに戻ったエリーズと再会し、互いの気持ちを確かめ合う。
エリーズは女優を引退してリチャードとの暮らしを満喫し、結婚後は彼の書いた脚本で女優に復帰することを夢見ていた。リチャードも彼女と人生を共に生きることを考えていたが、衣服のポケットから不意に取り出した硬貨が1979年製造の物だったため、リチャードは1980年に引き戻されてしまう。リチャードは再び1912年に戻ろうと催眠術をかけるが、二度と時間旅行することは出来ず、ショックを受けた彼はホテルの部屋に籠り食事をとらなくなってしまう。数日後、異変に気付いたアーサーが部屋に入り、憔悴し切ったリチャードを発見する。アーサーが医者を呼ぶ中、リチャードは薄れゆく意識の中でエリーズと再会する。