所沢 狭山丘陵

「トトロ」の名前の由来は「所沢にいるとなりのオバケ」を縮めたものとされ、宮崎監督の知人の少女が所沢を「ととろざわ」と発音していたことに由来するとも言われている。

トトロの原型となっているのは、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』である。劇中ではトトロについて、サツキが「絵本に出てたトロルのこと?」とメイに聞き、メイが「うん」と答える場面があり、そうみなす描写があるが、エンディングで姉妹にお母さんが「三匹の山羊 (やぎ) 」と題した絵本を読み聞かせている描写があり、この本をトロルの登場する昔話『三びきのやぎのがらがらどん』とする読み解きも行われている。

上海街歩き「前灘太古里(QianTan TaiGuLi)」

成都や北京にも同じ太古里があるが、その3か所目がここ上海に開業た。

前灘太古里の特徴は、一つの大きな建物ではなく、このエリアに複数の建物が並んで街中を歩くようになっている。

日本で言うなら、ららぽーとやイオンモールのような一つの大きな建物ではなく、御殿場プレミアム・アウトレットのような風情。

中国で流行っているショッピングモールは、エリア内で迷い込むように歩くようになっているのが特徴だ。

ナウル共和国

スペイン語で「鳩」を意味し、ハバナを去る自分を鳩に托す歌詞を持つ。

イラディエルはキューバに滞在したときに当地のハバネラについて知り、このリズムを使って書かれたのが『ラ・パロマ』である。

正確な作曲年は不明だが、マドリードの著作権管理局に1859年のイラディエル作曲「ラ・パロマ(ピアノ伴奏つきアメリカ歌曲)」(La Paloma (Canción Americana con acompañamiento de Piano))として登録されているのが文献上の初出である。

メキシコでは第二帝政時代の1866年にソプラノ歌手のコンチータ・メンデスがこの曲を歌って非常に有名になり、今もメキシコ音楽と思っている人が多い。

スペイン語圏に限らず、世界各地の言語で歌われている。1961年の映画『ブルー・ハワイ』でエルヴィス・プレスリーの歌う「ノー・モア」も本曲の編曲に英語の歌詞を加えたものである。

ドイツでは1944年の映画『グローセ・フライハイト7番地』で主人公を演じたハンス・アルバースの歌う「ラ・パロマ」がヒットし、1958年にビリー・ヴォーンのオーケストラ版、1961年にフレディ・クイン(英語版)の歌った「ラ・パロマ」がミリオンセラーになった。

チェコでは「Hřbitove」(墓場にて)という全然異なる歌詞がつけられ、曲調もかなり変化している。

シチリア島 カターニア(Catania)

シチリアーナ(siciliana)
ルネサンス音楽末期から初期バロック音楽に遡る舞曲

ゆるやかな8分の6拍子か8分の12拍子で作曲され、ためらいがちにたゆとう曲想と付点リズムが特徴的で、通常は短調(もしくは自然短音階)をとる。器楽曲の楽章として利用されただけでなく、オペラ・アリアにも応用されている。シチリアーナは、おそらく「シチリア舞曲 danza siciliana」ないしは「シチリア風に A la Siciliana」に由来する女性名詞であるが、男性名詞であるシチリアーノ(siciliano)や、フランス語の女性名詞・シシリエンヌ(Sicilienne)も用語法として定着している。

古い時代のシチリアーナとして有名なものとして、20世紀にレスピーギによって《リュートのための古風な舞曲とアリア》第3組曲の第3曲として弦楽合奏用に編曲された、16世紀イタリアの作者不詳のリュート曲が挙げられる。この原曲は1999年に、カゴメのパスタソースのTVCMに利用され、曲名と演奏者についてメーカーに問い合わせが殺到し、急遽リリースされたマキシシングルCDがヒットチャートに躍り出るという事態を招いた。

バロック時代の有名なシチリアーナには、ヘンデルの《リコーダー・ソナタ ヘ長調》HWV369の第3楽章(ニ短調)や、伝バッハ(偽作)の《フルート・ソナタ 変ホ長調》BWV1031の中間楽章(ト短調)が挙げられる。またバッハはカンタータなどの中に多くの真作シチリアーナを作っている。

シチリアーナのリズムは古典派音楽においても愛用され、モーツァルトの《ピアノソナタ第11番》、《ピアノ協奏曲第23番》や、ハイドンのオラトリオ《天地創造》のソプラノ独唱のアリアにも利用されている。チマローザの《オーボエ協奏曲》にもシチリアーナの楽章が含まれている。

19世紀の間、シチリアーナによる有名な曲はほとんど産まれなかったが、世紀の変わり目にフォーレによって、チェロとピアノのための《シシリエンヌ ト短調》が作曲された。これは後にフォーレの高弟・ケックランによりオーケストラ用に編曲され、劇付随音楽《ペレアスとメリザンド》とその組曲版に挿入され、いっそう広く知られるようになった。

ホイアン (ベトナム)

朱印船貿易が盛んだった17世紀頃には日本人町があり、300人以上(1,000人以上とも)の日本人が住んでいたと言われているが、1633年の第一次鎖国令(5年以上海外に住んだ日本人の帰国禁止)、1635年の第三次鎖国令(東南アジアからの帰国禁止)により、徐々に日本人は帰国した。

その後ホイアンでは大火があり、現在の街並みはすべて19世紀以降のものになっているため、日本人街の遺構は残っていない。日本人が造ったとされる来遠橋(通称「日本橋」)も、建築様式が日本のものと異なることから、後年架け直されたものと思われるが、1993年(平成5年)から継続的に行なわれている昭和女子大学らの発掘調査により、橋のすぐ横から木杭や板材が見つかり、それが本来の日本橋の遺構ではないかと見られている。

発掘調査では、他にも古伊万里焼の破片や日本独特の仏具である仏飯器なども出土した。ホイアン郊外には1647年に没した谷弥次郎兵衛の名が刻まれた日本人墓地(昭和5年(1930年)に日本人によって修復されたもの)もある。

また、ホイアン郷土料理の汁なし麺であるカオラウ(Cao lầu)は、日本の伊勢うどんが変化したものではないかとする説もあるが、スープでなくタレをからめて食べる点の類似や、カオラウの漢字「高樓」が2階建て家屋があったとされる日本人街の通称「高樓」に由来するのではないかという推測からであり、証拠はない。

近年においては、1990年以降の昭和女子大学や文化庁、JICAの専門家が携わる伝統的建造物の保存修理・技術協力や、建築史・歴史・生活調査・研究があげられる。これらには、ベトナム人研究グループや修理支援グループが参加、地域の技術能力向上にも貢献している。2003年以降は、地元在住の日本人が政府機関や地域コミュニティー関係者と開催する「ホイアン日本祭り」も行われている。

2009年には、昭和女子大学が修復・展示に協力(文化庁が指導)した貿易陶磁博物館を、皇太子徳仁(当時)が訪問。2017年には、ダナン市で開催されたAPEC首脳会議に出席した当時の安倍晋三、グエン・スアン・フック両首相が、旧市街の伝統的建築を見学。御朱印船の寄贈式や「長崎くんち」の公演を視聴した。

2018年には、日本政府の無償資金協力のもと、「日本橋」周辺水路の水質改善のための下水処理場が完成。また、日越外交関係樹立45周年記念事業として、日本フィルハーモニー交響楽団の四重奏が、日本橋前広場で公演。市内のエコ・カフェでは、地域の子どもを対象としたワークショップと演奏を行った。

アメリカ合衆国ミシガン州、ヒューロン湖に浮かぶ島マッキノー島(Mackinac Island)

『ある日どこかで』(あるひどこかで、Somewhere in Time)は、1976年発売のリチャード・マシスンのSF小説(世界幻想文学大賞受賞作)及びそれを原作とする1980年のアメリカ合衆国のSF恋愛映画。

監督はヤノット・シュワルツ、出演はクリストファー・リーヴとジェーン・シーモアなど。ユニバーサル・ピクチャーズ製作、カラー(モノラル)、約103分。

「カルト古典」映画としてコアなマニアによって好んで視聴されており、2010年から開催された「午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本 第一回・第二回」にも選ばれているように、公開から40年以上を過ぎても熱烈なファンが多い。

ストーリー

1972年、ミルフィールド大学。脚本家志望のリチャード・コリアーの処女作上演後のパーティー会場に、成功を喜ぶ彼を会場の隅から見ている上品な老女がいた。彼女はリチャードに歩み寄り、「(私の所へ)帰ってきて」という不思議な言葉と共に懐中時計を手渡し去っていった。

周りの皆は誰一人として彼女が何者なのか知っている者はいなかった。彼女はグランドホテルの自室に戻り、リチャードの書いた脚本を胸に抱いて思い出の曲を聴きながら、その夜静かに息を引き取った。

8年後の1980年、脚本家となったリチャードのオフィスには、彼の大好きな曲が流れていた。仕事も私生活も行き詰まっていた彼は、原稿を求めに来る編集者から逃げるように、車で旅に出た。そしてドライブの途中で通りかかったグランド・ホテルに、引き寄せられたかのように宿泊した。レストランのオープン前に立ち寄ったホテル内の歴史資料室で、リチャードは背中に熱い視線を感じた。振り返ってみると、そこには若く美しい女性の写真が掛かっていた。しかし、名札は外されていた。ホテルの老ボーイのアーサーに尋ねると、彼女はそのホテル内の劇場で公演をした女優であることを知る。

その時から、リチャードは彼女のことが頭から離れなくなり夜も寝つけなかった。そして彼女についての調査に没頭し、写真の主は1912年当時、人気のあった女優エリーズ・マッケナであり、1912年以降活動しなくなったことを知る。また、彼女のメイドだったローラに話を聞きに行ったさいに、彼女が1972年の夜に亡くなったことも知る。彼はさらに調査を進めていくが、彼女の愛読書がリチャードの哲学教師の著書である『時の流れを超えて』であることに驚き、ここで「帰ってきて」の意味を知り、さらにホテルの過去の宿泊名簿から自分が1912年に時間旅行している事実を見付け出す。

リチャードは時間旅行を研究するフィニー教授に相談し、「現代の所持品を捨て、行きたい時代の品物を身に付けて催眠術をかける」という方法を聞き出し、1912年の衣服・硬貨を身に付け、ホテルの一室で自分に催眠術をかける。

目を覚ますと、リチャードは1912年に時間旅行していた。彼はホテル中を探し回り、ホテルの側の湖畔で佇むエリーズを見付け出し彼女に接触するが、マネージャーのロビンソンに追い返されてしまう。リチャードはロビンソンに追い返されながらもエリーズと接触を繰り返し、彼女は次第にリチャードに惹かれていく。エリーズはリチャードを公演に誘い、舞台で台本を無視した台詞を言い始める。その言葉はリチャードに向けた愛の告白であり、リチャードは彼女の気持ちを確信するが、その直後にロビンソンに呼び出される。ロビンソンは、自分がエリーズの才能を見出し、世紀の大女優にするために人生を捧げてきたことを告げると同時に、リチャードに対して彼女に近付かないように警告する。リチャードはその場を立ち去ろうとするが、ロビンソンの部下に殴られて気絶してしまう。翌朝、馬小屋で目覚めたリチャードはエリーズを探すが、既に公演の役者たちはホテルを出て行ったことを知りショックを受ける。エントランスで立ち尽くすリチャードは、役者たちと別れてホテルに戻ったエリーズと再会し、互いの気持ちを確かめ合う。

エリーズは女優を引退してリチャードとの暮らしを満喫し、結婚後は彼の書いた脚本で女優に復帰することを夢見ていた。リチャードも彼女と人生を共に生きることを考えていたが、衣服のポケットから不意に取り出した硬貨が1979年製造の物だったため、リチャードは1980年に引き戻されてしまう。リチャードは再び1912年に戻ろうと催眠術をかけるが、二度と時間旅行することは出来ず、ショックを受けた彼はホテルの部屋に籠り食事をとらなくなってしまう。数日後、異変に気付いたアーサーが部屋に入り、憔悴し切ったリチャードを発見する。アーサーが医者を呼ぶ中、リチャードは薄れゆく意識の中でエリーズと再会する。

愛岐トンネル群 秋の特別公開 2023

三位一体の魅力=トンネル群、歴史遺産「玉野古道」、愛岐渓谷

  1. 近代化産業遺産「愛岐トンネル群」
    「三位一体の魅力」のトップバッターは、やはり赤レンガのトンネル群と廃線路です。
    トンネルをくぐり鉄道で運んだのは”もの”だけではありませんでした。物を運び、人を運び、夢も涙ものせて運びました。人がトンネルを特別な存在と感じるのは、 トンネルの漆黒を抜けたその向こうに時空を超えた何かがある、と思わせるからかもしれません。
    特に、愛岐トンネル群の100年を超えるで赤レンガのトンネルを眺めると、トラックも建設重機もない時代にこうしたものを造り上げた明治の人々の気概と苦労がしのばれます。トンネルのレンガに手をふれると、明治の人々の心意気が伝わってくるようです。

この愛岐トンネル群の3~6号のトンネル4基は、2009年に経済産業省「近代化産業遺産33」に認定されました。 2012年には文化庁の「NPO等による文化財建造物の管理活用事業」に選ばれ、文化庁から活用活動を受託しました。 また2016年7月には3基の施設が登録有形文化財(建造物)(※)に選ばれることが決まりました。「貴重で素晴らしい歴史 遺産」だと、公けに評価されたことになります。
(※3号4号トンネルと笠石洞暗渠の3施設が16年11月に登録有形文化財に正式登録)

  1. 歴史遺産「玉野古道」
    私たちは玉野古道も貴重な歴史遺産であると考え、整備を進めてきました。
    今では、年2回の特別公開時に大勢のお客様に玉野古道の 散策を楽しんでいただくことが出来るようになりました。

委員会ではさらに玉野古道の調査を進め、近い将来、玉野古道とトンネル(7号と8号)を併用し、古虎渓駅まで散策を楽しめる 「フットパス」を作り上げたいと考えています。それは他の観光地には類を見ないネイチャーロードになるはずです。 明治の人々の心に思いを馳せながら古道を歩くと、周りの景色も違って見えるかもしれません。

  1. 愛岐渓谷(玉野渓谷)
    愛岐渓谷(玉野渓谷)は愛知高原国定公園の西端に位置し、濃尾平野と東濃を隔てる山岳地帯への入口にあります。
    豊かな里山の自然を 残す庄内川のV字渓谷は、大都市近郊と思えない雄大な景観を楽しませてくれます。
    特に昭和初期から戦後しばらくの間は「名古屋の奥座敷」 として多くの観光客が訪れ、駅の下には食堂や旅館、土産物屋などがあってにぎわいました。

名古屋近辺に住む高齢者の方は、幼少の頃、小学校などの遠足で定光寺を訪れた方が多いようです。もちろん、観光バスのない時代のこと。 中央線のSLに乗って定光寺駅で降り、河原で遊んでお弁当を食べ、定光寺にお参りしました。愛岐トンネルに来て、懐かしいとおっしゃる高齢の 方が多いのはそんな理由があるのです。

時は移り、駅は無人となり、駅前銀座?は寂れ、大型ホテルは廃墟となりました。しかし、時代の移り変わりを眺めてきた玉野渓谷は、 今も変わらずそこに流れています。

庄内川は、上流の岐阜県では土岐川と呼ばれています。春日井市玉野町や定光寺駅付近は玉野川と呼ばれることが多いようです。

さっぽろホワイトイルミネーション2023

[大通会場] 11月22日(水曜日)~12月25日(月曜日)
[駅前通会場] 11月22日(水曜日)~2024年2月11日(日曜日)
[南1条通会場・札幌市北3条広場(アカプラ)会場・札幌駅南口駅前広場会場] 11月22日(水曜日)~2024年3月14日(木曜日)

モナコ公国

神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世から1191年にこの土地を与えられたジェノヴァ共和国は、1228年に現在のモナコを建設した。

1297年、ギベリン(皇帝派)に占領されていたモナコの要塞に、フランシスコ会の修道士姿に変装し法衣の下に武装して侵入したフランソワ・グリマルディらは、要塞の占拠に成功した。グリマルディは、現在のモナコ公家であるグリマルディ家の始祖である。そのため、グリマルディは、「狡猾な男」とあだ名される。

1419年、グリマルディ家はアラゴン王国からモナコを購入し、正式な支配者となる。

1528年、アンドレア・ドーリアがジェノヴァの貴族層と庶民層の合体を企て、そのために政権を特定の28氏族へ集中させた。グリマルディ家はその一つに数えられた。また、1612年から prince の称号を自称し始めた。オノレ2世の時代にはフランス王ルイ13世の保護下に入ることでスペイン(アラゴン王国の後身)の支配を抜け出し、歴代のモナコ公は独立君主であると同時にフランス王の臣下(ヴァランティノワ公爵)として宮廷で高い地位を占めた。

18 – 19世紀
1793年、フランス革命軍がモナコを占領・併合した。1814年までモナコはフランス第一帝政の直接支配下におかれた。1815年に催されたウィーン会議の結果、モナコはサルデーニャ王国の保護下に入った。サルデーニャはジェノヴァの後継である。

1858年のプロンビエールの密約で、サルデーニャは、イタリア統一運動をフランスに支援してもらう代償として、1860年にはサヴォワ(サヴォワ県とオート=サヴォワ県)とニース伯領(アルプ=マリティーム県)をフランスに割譲する。モナコ公の課す重税に倦み、サルデーニャへの併合を希望するマントンとロクブリュヌは、モナコからの独立を宣言する。

シャルル3世は1861年、フランス・モナコ保護友好条約を締結、領土の95%にあたるマントンとロクブリュヌをフランスに売却し、見返りにモナコ公国の主権を回復した。

20世紀
1911年、憲法を制定したことで立憲君主制となるも、モナコ大公は依然として絶対君主として振る舞い、アルベール1世はすぐに憲法を停止した。第一次世界大戦が勃発すると大公子ルイ(後のルイ2世)はフランス陸軍に志願、軍功をあげ将軍に上り詰めた。

1918年、保護友好条約を再締結、フランスの保護国となった。ヴェルサイユ条約などの第一次世界大戦の講和条約においては、この条約を各国が承認する規定が設けられている。

1922年、ルイ2世が即位する。モナコを文化・観光都市にする試みを続け、モナコ・グランプリの開催、ASモナコの創設などを行った。
第二次世界大戦中の1943年にイタリア軍がモナコを占領し、ファシスト政権を樹立した。ベニート・ムッソリーニの政権が崩壊すると、今度はナチス・ドイツのドイツ国防軍が占領した。ドイツは同地でもユダヤ人の迫害を行った。

ルイが1949年に死去すると、孫のレーニエ3世が即位した。1956年にはハリウッド女優のグレース・ケリーと結婚した。1962年、新憲法を制定した。この憲法で死刑が廃止され、女性参政権が実現し、また最高裁判所が設置された。1993年にモナコは国際連合に加盟した。

21世紀
2005年、レーニエ3世が死去し、息子のアルベール2世が即位した。同年12月、フランス・モナコ友好協力条約を締結した。この条約は、グリマルディ家に跡継ぎがなくなっても公国は将来も存続することをフランスが保証する代わりに、モナコの防衛は今後もフランス軍が行うことを骨子としている。また、モナコの自主的外交における制限が緩和され、外国と国交を結ぶ際のフランスによる事前同意が不要になった。

バルセロナ(Barcelona)

サグラダ・ファミリアは、民間カトリック団体「サン・ホセ教会」が贖罪教会(信者の喜捨により建設する教会)として計画し、初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受けた。1882年3月19日に着工したが、意見の対立から翌年にビリャールは辞任。その後を引き継いで2代目建築家に就任したのが、当時は無名であったアントニ・ガウディである。ガウディは設計を変更したものの既存の計画は踏襲された。

1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。一方、着工時の建築許可が更新されず失効していたことから、2018年にバルセロナ市当局と支払いなどで合意するまで130年以上にわたって違法建築状態が続くこととなる。

ガウディは、模型と、紐と錘を用いた実験道具を主に使ってサグラダ・ファミリアの構造を検討したとされる。ガウディの死後の1936年に始まったスペイン内戦により、ガウディが残した設計図や模型、ガウディの構想に基づき弟子たちが作成した資料のほとんどが散逸した。これによりガウディの構想を完全に実現することが不可能となり、サグラダ・ファミリアの建造を続けるべきかという議論があったが、職人による口伝えや、外観の大まかなデッサンなど残されたわずかな資料を元に、その時代の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードや内陣、身廊などはほぼ完成したがイエスの栄光を表すメインファサード、18本建てられる内の7本の塔が未完成である。これらの塔の12本が12使徒、4本が福音書記者、1本が聖母マリア、1本がイエス・キリストを象徴するものとされている。

東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはリンゴをくわえた蛇が彫刻されている。また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されている。中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られている。左門ではローマ兵による嬰児虐殺、聖家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られている。

西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ピラトと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴、そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されている。

かつては完成まで300年はかかると予想されていた工事だが、スペインの経済成長や拝観料収入などに支えられて進捗は加速している。さらには21世紀に入ってから導入されたITを駆使し、ソフトウェアによる3D構造解析技術と3Dプリンターによるシミュレーション検証、CNC加工機による成果が著しい。2026年の完成予定が現実となれば、1980年代に見込まれた約300年という建築期間はその後の30年で半減し、約144年の工期で完成することになる。他方、創建当初はヨーロッパの教会建築の伝統的な工法である組積造で行われてきたが、現在では礼拝堂内部、塔など多岐にわたってRC造が導入されており、この工法変化を批判する建築家や彫刻家も少なくない。

なお、建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して既存部の修復も行われている。

2006年、直下に高速鉄道AVEのトンネルを掘削する計画が持ち上がり、建設側は地元自治体などにトンネル掘削中止を働きかけたが拒否された。一連のやり取りの中で、サグラダ・ファミリア建設が行政に届け出を出していない工事(正確には1885年に建築許可を受けていたが、許可を出した自治体がバルセロナに吸収合併された際必要な更新がされていなかったという)であることが明らかになり話題を呼んだ。結局は調整が行われ、サグラダ・ファミリアの建築に対してサグラダ・ファミリア特別法を制定し合法化した上で、徹底した地盤強化を行って掘削工事が行われた。2018年10月20日にサグラダ・ファミリア管財当局が3600万ユーロ(日本円にして約46億8000万円)を今後10年かけて支払うことで、バルセロナ市当局より合法的に建築を行えるよう工事許可を得る形で両者が合意したことが発表され、2019年初頭にも建築が「合法化」される見通しとなった。 2019年6月7日、460万ユーロ(日本円にして約5億6400万)を支払うことで137年を経てようやく建築許可が下りた。