如来教は熱田に生まれた「きの」(法名・媹姾)が、享和2年(1802年)に神懸かりとなって始まった講で、尾張藩士や富裕な商人などに多くの信者が居たとされる。青大悲寺は如来教の本山で尼寺、山号は登和山、山号は「きの」の若い頃の名「とわ」から取られている。寺号の青大悲寺については、青は若く新鮮な力強さを表し、大悲は大きな慈悲の意味であるという。
明確な創建年代は不明だが、天文年間(1532年 – 1555年)に創建された曹洞宗江南寺(現・成福寺)の大門前にあったとされる。弘治2年(1556年)、江南寺が現在地に移り「成福寺」と寺号を改めたことで北山墓地の入口となったが、後に現在地に移転し成福寺末であったが、後に法持寺末となった。「きの」の父親が鉄地蔵を信仰していた縁で、文政12年(1829年)この講に成福寺が所有していた地蔵堂と鋳鉄地蔵1体を譲り受けた。鋳鉄地蔵については、天保14年(1843年)に刊行された尾張藩の官撰地誌『尾張志』において「尾張六地蔵」の一つとして記されている。
弘化3年(1846年)、講を守っていた小寺左兵衛(月中一夢)が法持寺の27世・大達玄中の弟子となって地蔵堂を再興し、玄中を地蔵堂の開山に迎えたことで、法持寺の境外仏堂・鐵地蔵堂となった。この際に媹姾を合わせて祀り、その説を奉じたという。1873年(明治6年)に一旦は廃絶。1876年(明治9年)に一夢の息子である小寺大拙によって再興された。
大拙は曹洞宗の僧侶であったことから寺は再び法持寺末となり、曹洞宗の寺として扱われた。
1945年(昭和20年)12月の宗教法人令施行に伴って法人となって「如来宗」を称するようになり、1952年(昭和27年)7月に宗教法人法に基づいて法持寺との本末関係を解消して、「宗教法人媹姾院」として独立する。1962年(昭和37年)に「如来教」と変更、鐵地蔵堂も「登和山 青大悲寺」と改号した。
鋳鉄地蔵菩薩立像
地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は、文政12年(1829年)に同寺が所有するようになったもので、観潮寺にある2体と同様にかつて成福寺の地蔵堂に祀られていたものと伝わる。像高160センチ、裾幅42センチで観潮寺の像とほぼ同形だが、こちらのものは沓を履いていることと、裾部分の造型に若干の違いがあり、そこに施された陽鋳名から室町時代初期の作と考えられている。1960年(昭和35年)に愛知県の文化財に指定された。