旧東海道、知立松並木

天保14年の宿村大概帳によると、池鯉鮒は人口1620人、家数292軒で、旅籠35軒、本陣1軒の規模であった。この地名は、池鯉鮒明神の池に鯉と鮒がいたことに由来し、池鯉鮒が知立と改められたのは明治3年。知立の松並木は、幅7m、約500mにわたり、170本ほどの松が植えられている。この地で行われた馬市の馬をつなぐための側道があることが特徴である。

この松並木の西の地名は引馬野と呼ばれ
「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾 長忌寸奥麻呂」
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほほせ たびのしるしに
と、万葉の歌碑にがあるが、持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌なのか、行幸の推定地ともされているようだ。

安藤広重『東海道五十三次之内池鯉鮒 首夏馬市之図』には一本松と馬市が描かれていて、この池鯉鮒名物の馬市は江戸時代は特に盛大であった。

A列車で行こう・・・旧東海道、知立松並木

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