黒田記念館 (以下、Webサイトから引用)
日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13(1924)年に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3(1928)年に竣工したのが黒田記念館です。
館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。昭和5(1930)年には、同館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、日本・東洋美術に関する調査研究業務が行われてきました。
平成12(2000)年の新庁舎の竣工により、東京文化財研究所の全ての業務が新庁舎に移ったのに伴い、黒田記念館が昭和初期における美術館建築(岡田信一郎設計)として貴重なものであることから、創建当初の姿に復することとなりました。そこで、2階部分を中心に改修が行われ、
平成13(2001)年9月に開館、
平成14(2002)年には国の登録有形文化財となっています。
平成19(2007)年4月1日には独立行政法人文化財研究所と独立行政法人国立博物館が統合し、新たに独立行政法人国立文化財機構が設置されました。これにともなう組織改編により、黒田記念館は東京国立博物館に移管されました。
平成24(2012)年4月からは、耐震補強を中心とした改修工事のため閉館していましたが、平成27(2015)年1月2日にリニューアルオープンいたしました。
黒田 清輝
1866年8月9日(慶応2年6月29日)〜 1924年7月15日(満57歳没)
日本の洋画家、政治家。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は子爵。
東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任。
1884年から1893年まで、法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。
1893年に帰朝すると、美術教育者として活躍する。
1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設し、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立させた。
1895年には全裸で立つフランス女性を描いた「朝妝」を内国勧業博覧会に出展して論争を呼ぶ。
1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させる。
また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、
以後の日本洋画の動向を決定付けた。
1898年、東京美術学校教授に就任。
1901年、白馬会展に全裸の裸婦像「裸体婦人像」を展示して、
警察に咎められ、
絵の下半分が布で覆われる「腰巻事件」が起きる。
1910年10月18日には
洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、
また帝国美術院院長などを歴任した。
1917年には養父の死去により子爵を襲爵する。
第5回貴族院子爵議員互選選挙にて当選し、
1920年に貴族院議員に就任している。
主要作品
アトリエ(1890年、鹿児島市立美術館)
読書(1892年、東京国立博物館)
舞妓(1893年、東京国立博物館、重要文化財)
朝妝(ちょうしょう)(1895年、焼失)
湖畔(1897年、黒田記念館、重要文化財) – モデルは友人の画家安藤仲太郎が紹介した芸者で、当時23歳の金子種子。
のちに清輝の妻となり照子と改名した。
縦69cm×横84.7cm。
描かれた地点は、箱根芦ノ湖の観光船の乗り場や箱根駅伝スタート地点のすぐ近くである。
夕陽(1898年、豊橋市美術博物館)
智・感・情(1899年、東京国立博物館黒田記念館、重要文化財)
花野(1907年 – 1915年、東京国立博物館黒田記念館)
桜島爆発図(1914年、鹿児島市立美術館) – 桜島の爆発を描いた。
梅林(1924年、東京国立博物館黒田記念館) – 絶筆。