京都府宇治市三室戸寺『あじさい寺』

当寺の創建伝承については伝説的色彩が濃く、創建の正確な事情についてははっきりしない。

園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』所収の僧・行尊の三十三所巡礼記は、西国三十三所巡礼に関する最古の史料であるが、これによると、11世紀末頃に行尊が三十三所を巡礼した時は、御室戸寺は三十三番目、つまり最後の巡礼地であった。

寛平年間(889年 – 898年)には園城寺の円珍が留錫し、その後、花山法皇がこの地に離宮を設け、当寺を西国三十三所巡礼の第10番札所とした。

康和年間(1099年 – 1103年)、園城寺長吏の隆明大僧正が当寺を中興し、また園城寺子院の羅惹院を当寺に移転させ、自らも住するようになると、御室戸の僧正と呼ばれるようになり、御室戸寺も隆盛を誇った。この頃、光仁天皇、花山法皇、白河法皇三帝の離宮になったことから御室戸寺の「御」を、「三」に替えて三室戸寺と称するようになる。

その後寛正3年(1462年)の火災で伽藍を失うが、文明19年(1487年)に園城寺阿弥陀院の壱阿によって本堂が再建される。しかし、天正元年(1573年)には織田信長に敵対して槙島城に立て籠もった将軍足利義昭の味方をしたために寺領を悉く没収されて衰退した。

寛永16年(1639年)、道晃法親王によって復興される。

現存する本堂は江戸時代後期の文化11年(1814年)に法如和尚によって再建されたものである。

本尊

本尊は千手観音像であるが、厳重な秘仏で、写真も公表されていない。本尊厨子の前に立つ「お前立ち」像は飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。この本尊像に関わる伝承は「歴史」の項で述べたとおりで、高さ二丈の観音像は寛正年間(1460年 – 1466年)の火災で失われたが、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事であったという。

秘仏本尊を模して造られた前述の「お前立ち」像は、大ぶりの宝冠を戴き、両手は胸前で組む。天衣の表現は図式的で、体側に左右対称に鰭状に広がっている。こうした像容は奈良・法隆寺夢殿の救世観世音菩薩像など、飛鳥時代の仏像にみられるものである。厨子内の秘仏本尊像自体については、指定文化財でないため、年代等の詳細は不明である。

2008年(平成20年)が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年(平成20年)から2010年(平成22年)にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。三室戸寺本尊の千手観音像は2009年(平成21年)10月1日 – 11月30日に開扉されたが、これは前回開扉(1925年)以来84年ぶりの公開である。

本堂(京都府指定有形文化財) – 文化11年(1814年)に再建。重層入母屋造の重厚な建物で、秘仏の千手観音立像が安置されている。

阿弥陀堂(京都府指定有形文化財) – 元々ここには親鸞の父日野有範の墓があったが、親鸞の娘覚信尼が祖父有範の墓を整備し、その上にお堂を建てて阿弥陀堂とし、その菩提を忌った。

鐘楼(京都府指定有形文化財) – 吹き流し形式。

三重塔(京都府指定有形文化財) – 元禄17年(1704年)建立の全高16メートルの三重塔で、もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、1910年(明治43年)に当寺が買い取って参道西方の丘上に移設した。その後1977年(昭和52年)に境内の現在地(鐘楼の東隣)に移された。

十八神社(重要文化財) – 鎮守社。三室戸寺の中にあるが独立した神社であり、三室戸寺の所有ではない。長享元年(1487年)再建。三間社流造で本堂の左背後にある。そもそもは三室村の産土神を祀る三室神社であったが、承和7年(840年)に円珍が山王信仰の十五神を合祀し、十八神社と改めたという。

浮舟の碑 – 源氏物語宇治十帖の登場人物である浮舟を祀る「浮舟古跡」と刻まれた古碑が、鐘楼脇にある。これは寛保年間に「浮舟古跡社」 を石碑に改めたものと伝えれられている。

狛蛇(宇賀神) – 本堂前に鎮座する石像で、身体は蛇がとぐろを巻く姿。近年の作。

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