闇之森八幡社

名古屋市中区正木2-6-18、闇之森八幡社
創建は長寛年間(1163-1164年)
かつて神域には大木が鬱蒼と茂り、それは月の光も射さぬと句に詠まれるほどで、いつしか闇の森と呼ばれるようになった。名古屋十名所のひとつ。

源為朝が石清水八幡宮を勧請したと伝えられる。境内に為朝の甲冑を埋めたといわれる「鎧塚」がある。
祭神は、応神天皇、神功皇后、仁徳天皇
例祭(10月14日、15日)

享保18年(1733年)、浄瑠璃名古屋心中の元となる、遊女小さんと畳職人喜八の心中未遂事件が起きる。

質素倹約をスローガンに享保の改革を推進していた八代将軍吉宗の政策に対し、宗春は、真っ向から対立する財政緩和、消費拡大政策を推進した。これによって緊縮政策で火の消えたような三都に比べ、名古屋城下には、遊女、芸人、役者から大小の商人まで、全国から人が集まり、城下は当時日本一といわれる活況を呈したのである。

闇森(中区正木)は、宗春が公認した葛町(かずらまち)遊郭と西小路遊郭に隣接する八幡社の境内である。享保18年11月下旬(一説には夏頃)飴屋町花村屋の遊女小さんと日置村畳屋喜八の心中事件が発生し、たちまち評判となった。

心中は未遂に終わり、入牢後、翌年2月、牢屋敷前に3日間さらされた後許されて、2人は夫婦となって暮らしたという。当時としては軽すぎるともいえる寛大な裁きも評判の一因となった。

ちょうど名古屋に来ていた豊後節の祖宮古寺豊後掾(みやこじぶんごのじょう)は、この事件を題材に、翌享保19年1月、新作浄瑠璃「睦月連理玉𒢫(むつきれんりのたまつばき)」を黄金薬師の境内(現中区円輪寺)で上演し、「広小路が狭小路になり」といわれるほどの大当たりをとった。

評判は、江戸、上方にも聞こえ、翌年には江戸中村座でも上演されて、これも大当たりとなり、常磐津、清元、新内などにつながる豊後節の大流行を招いたほどであった。

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