老舗料亭 八勝館

八勝館

名古屋市昭和区広路町にある老舗料亭。

料亭八勝館は、名古屋の東の郊外の起伏に富んだ景勝地に所在する。
この場所には、明治時代前期に造営された、材木商柴田孫助の別邸があった。

1910年(明治43年)に料理旅館八勝館となり、
1925年(大正14年)には名古屋の経済人によって設立された株式会社八勝館の経営するところとなった。
その後、1977年(昭和52年)、経営体は株式会社八勝館となっている。

1950年(昭和25年) – 第5回国民体育大会に出席する昭和天皇が宿泊するため「御幸の間」を建設。
1951年(昭和26年) – 「御幸の間」が日本建築学会賞を受賞。
1999年(平成11年) – 「御幸の間」が日本の近代建築20選(現在はDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に選出。 
2020年(令和2年) – 建造物9棟と土地が国の重要文化財に指定。

建物
建物の配置は以下の通りである(以下の文中の太字の建物は国の重要文化財)。
西門を入ると、右手奥に玄関棟、その奥に松の間棟が建つ。
松の間棟の右手(西)には御幸の間棟、左手(東)には新座敷棟、そのさらに東に菊の間棟が建つ。
敷地の南側には池のある庭園が広がり、その中に田舎家と中門が建つ。
このほか、玄関棟の北側には新しい大広間棟と厨房棟が建つが、この2棟は重要文化財の指定対象外である。
さらに離れた北側には正門が建つ。
これらのうち玄関棟と松の間棟は柴田家別邸時代の明治中期の建築、新座敷棟と菊の間棟は料理旅館の施設として明治後期に建てられた。
田舎家は滋賀県甲賀の古民家を移築したものである。
柴田家別邸時代の建物は、材木商の別邸らしく、良材を用いた数寄屋建築である。
太平洋戦争後には、数寄屋建築研究の第一人者である堀口捨己の設計によって御幸の間棟の新築、新座敷棟の増築、菊の間棟の改修が行われており、数寄屋と現代建築の融合をめざした堀口の作風が随所にみられる。
門3棟はいずれも明治中期の建築とみられる。

御幸の間
堀口捨己設計の16畳の和室。
西面には4間の杉の面皮の床框(とこがまち)を据え、中央を床(とこ)、左右を床脇とする。
南面は付書院を設け、桂離宮の笑意軒にならった丸窓を設ける。
北側の次の間境の襖は摺箔(能装束)の裂を貼り合わせて山水を表現している。
天井は、南北軸の中央に一直線に障子を嵌め、その左右は棹縁天井とする。
照明器具は直接見えないように天井裏に設置され、前述の障子を通して室内を照らす。その左右の天井は場所によって棹縁の向きを変え、非対称のデザインになっている。

残月の間
「御幸の間」と同じ棟にある、堀口捨己設計の10畳の和室。
表千家の茶室「残月の間」の写しである。
北面の西側は床高を高めて2畳の上段とし、北面の東側には付書院を設ける。

文化財
以下の建造物9棟及び土地が2020年(令和2年)、国の重要文化財に指定された。

八勝館・9棟

玄関棟明治中期の建築。
式台、内玄関、玄関の間、応接室からなる。
松の間棟玄関棟の南に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。明治中期の建築。
1950年(昭和25年)に増築。
梅の間と次の間、松の間と次の間、席の間と次の間からなる。
このうち席の間と次の間の部分は増築である。
御幸の間棟松の間棟の西に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
1950年(昭和25年)、愛知国体にともなう昭和天皇行幸に際し、堀口捨己の設計で建てられた。
御幸の間と次の間、残月の間と次の間のほか、配膳室を設ける。
御幸の間から入側を隔てたところには月見台(ベランダ)を設ける。
新座敷棟玄関棟の南東に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
明治後期の建築。
1953年(昭和28年)、堀口捨己によって増築。
紅梅の間、白菊の間、蘭の間、竹の間、松の間と次の間からなる。
このうち松の間と次の間は増築である。
菊の間棟新座敷棟の北東に位置し、両棟は渡廊下で連絡する。
明治後期の建築。
1953年(昭和28年)、堀口捨己によって改修。菊の間と次の間、紅葉の間と次の間からなる。
田舎家敷地の南側に位置する。
1938年(昭和13年)に滋賀県甲賀地区の古民家を移築したもの。
正門明治時代中期の建築。
西門明治時代中期の建築。
中門明治時代中期の建築。
附:塀4棟正門東方、正門西方、西門南方、西門北方。土地宅地、山林10,365.41平方メートル。

※ 出典:各建物の建築年代と間取りについては、文化庁文化財第二課「新指定の文化財」『月刊文化財』687、第一法規、2021年、pp.47 – 55による

マドリードのカバ・バハ(Cava Baja)通り

美食の国とも言われるスペインへの旅行では、食事が楽しみのひとつになることでしょう。中でも、短い滞在で沢山のお店や食材、味に触れられる「バル巡り」は特にお勧めです。こちらの記事では、スペイン初心者でも楽しめるバル巡りのコツとおすすめのバル通りやバル料理をご紹介します。バル巡りでマドリードならではの雰囲気と食事を楽しみましょう。

マドリードのおすすめバル通り「カバ・バハ通り」

マドリードには地元の人も訪れるバル通りがいくつもあります。その中でもバル巡り初心者におすすめなのが、活気あふれる中央広場「マヨール広場」から5分ほど坂を下ったところにある老舗のバル通り「カバ・バハ通り」です。300mほどの小道に50軒以上ものお店が並んでいて、観光客でも気取らずに入ることができるのが魅力です。新旧さまざまなお店があるので、気になるお店をはしごするのも楽しいでしょう。地元の人に人気の生ハム専門店やキノコ専門店の他、スペイン各地の名物を提供するバルが多いのもマドリードバル巡りの魅力の一つです。

マドリードのバルの楽しみ方

現地ではタペオ(Tapeo)と呼ばれる「バルのはしご」。1杯のお酒とおすすめのおつまみを食べたら、次のお店へ行くバル巡りは観光客でも気軽に楽しめるのが魅力です。お店の中を覗き、カウンター席の下が紙ナプキンや爪楊枝で散らかっていたら喜んでください。床に落ちたゴミが多ければ多いほど美味しくて人気がある証拠。スペインのバル文化では、カウンター席ではごみを床に落とす人が殆どです。床が散らかっているお店に入ったら、思い切って真似してみるのも面白いでしょう。定番料理を食べ比べたり、オリジナル料理に舌鼓を打ったり、バル巡りは楽しみがいっぱいです。

バルでのルール&注文方法

事前にバルでのルールをチェックしておきましょう。まず、お店に入る時と出る時には必ず挨拶をすることです。入る時は「オラ!」、出る時は「グラシアス!」と声をかければお互い気持ちよく過ごせるでしょう。注文方法は、カウンターまたは店員を呼んで指差しでOKなので、会話ができなくても心配いりません。メニューがない場合は、カウンターの料理や他の客の料理を指差しても良いでしょう。会計はテーブルで現金かクレジットカードを使って支払います。基本的にチップは不要ですが、何か特別なサービスを受けたら飲食代の10%を渡しましょう。

バル巡りで味わいたいおすすめ料理

マドリードでは「とりあえずベルムー(日本で言うベルモット)で乾杯」が主流です。タパスと呼ばれる一皿料理では、日本でも馴染みのあるアヒージョやパエリヤの本場の味を食べてみましょう。スペインの伝統卵料理トルティージャも欠かせません。また、パンにおかずを乗せて串で刺したピンチョスは、イベリコ豚の生ハムやサーモン、マグロのたたき、野菜類やチーズなど、一口サイズのスペインおつまみをお楽しみください。スペイン各地の名物ピンチョスを食べ比べするのもまた乙です。お店ごとに異なる味わいを楽しみながら、バル巡りを楽しみましょう。

マドリードのバル巡りで地元の雰囲気を楽しもう!

初めてのスペイン旅行では一見難しそうなバル巡り。実際にはそんなに敷居が高くなく、多くの観光客がバル巡りを楽しんでいます。基本的なルールだけチェックしておけば、初めてでも安心です。スペイン各地の名物や個性、食文化が共存するマドリードならではの、贅沢なバル巡りをお楽しみください。

京都府宇治市三室戸寺『あじさい寺』

当寺の創建伝承については伝説的色彩が濃く、創建の正確な事情についてははっきりしない。

園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』所収の僧・行尊の三十三所巡礼記は、西国三十三所巡礼に関する最古の史料であるが、これによると、11世紀末頃に行尊が三十三所を巡礼した時は、御室戸寺は三十三番目、つまり最後の巡礼地であった。

寛平年間(889年 – 898年)には園城寺の円珍が留錫し、その後、花山法皇がこの地に離宮を設け、当寺を西国三十三所巡礼の第10番札所とした。

康和年間(1099年 – 1103年)、園城寺長吏の隆明大僧正が当寺を中興し、また園城寺子院の羅惹院を当寺に移転させ、自らも住するようになると、御室戸の僧正と呼ばれるようになり、御室戸寺も隆盛を誇った。この頃、光仁天皇、花山法皇、白河法皇三帝の離宮になったことから御室戸寺の「御」を、「三」に替えて三室戸寺と称するようになる。

その後寛正3年(1462年)の火災で伽藍を失うが、文明19年(1487年)に園城寺阿弥陀院の壱阿によって本堂が再建される。しかし、天正元年(1573年)には織田信長に敵対して槙島城に立て籠もった将軍足利義昭の味方をしたために寺領を悉く没収されて衰退した。

寛永16年(1639年)、道晃法親王によって復興される。

現存する本堂は江戸時代後期の文化11年(1814年)に法如和尚によって再建されたものである。

本尊

本尊は千手観音像であるが、厳重な秘仏で、写真も公表されていない。本尊厨子の前に立つ「お前立ち」像は飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。この本尊像に関わる伝承は「歴史」の項で述べたとおりで、高さ二丈の観音像は寛正年間(1460年 – 1466年)の火災で失われたが、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事であったという。

秘仏本尊を模して造られた前述の「お前立ち」像は、大ぶりの宝冠を戴き、両手は胸前で組む。天衣の表現は図式的で、体側に左右対称に鰭状に広がっている。こうした像容は奈良・法隆寺夢殿の救世観世音菩薩像など、飛鳥時代の仏像にみられるものである。厨子内の秘仏本尊像自体については、指定文化財でないため、年代等の詳細は不明である。

2008年(平成20年)が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年(平成20年)から2010年(平成22年)にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。三室戸寺本尊の千手観音像は2009年(平成21年)10月1日 – 11月30日に開扉されたが、これは前回開扉(1925年)以来84年ぶりの公開である。

本堂(京都府指定有形文化財) – 文化11年(1814年)に再建。重層入母屋造の重厚な建物で、秘仏の千手観音立像が安置されている。

阿弥陀堂(京都府指定有形文化財) – 元々ここには親鸞の父日野有範の墓があったが、親鸞の娘覚信尼が祖父有範の墓を整備し、その上にお堂を建てて阿弥陀堂とし、その菩提を忌った。

鐘楼(京都府指定有形文化財) – 吹き流し形式。

三重塔(京都府指定有形文化財) – 元禄17年(1704年)建立の全高16メートルの三重塔で、もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、1910年(明治43年)に当寺が買い取って参道西方の丘上に移設した。その後1977年(昭和52年)に境内の現在地(鐘楼の東隣)に移された。

十八神社(重要文化財) – 鎮守社。三室戸寺の中にあるが独立した神社であり、三室戸寺の所有ではない。長享元年(1487年)再建。三間社流造で本堂の左背後にある。そもそもは三室村の産土神を祀る三室神社であったが、承和7年(840年)に円珍が山王信仰の十五神を合祀し、十八神社と改めたという。

浮舟の碑 – 源氏物語宇治十帖の登場人物である浮舟を祀る「浮舟古跡」と刻まれた古碑が、鐘楼脇にある。これは寛保年間に「浮舟古跡社」 を石碑に改めたものと伝えれられている。

狛蛇(宇賀神) – 本堂前に鎮座する石像で、身体は蛇がとぐろを巻く姿。近年の作。

サン・シル・ラポピー (Saint-Cirq-Lapopie)

村の歴史
かつて多くの船舶で賑わいを見せたロット川の渓谷を監視するため、ガロ・ロマン期にはすでにこの地に多くの人々が住みついていた。中世にはカルダイヤック家、カステルノー家、グルドン家、ラポピー家という権力を分かつ4つの名家によって城が建設され、村は城塞化された。12世紀に試みられたイングランド王リチャード1世によるこの地の征服は失敗したものの、14世紀に勃発した百年戦争の時代には、フランスとイギリスの間で激しい争奪が繰り広げられた。

サン・シル・ラポピー城
16世紀の終わりにはカルヴァン派プロテスタントのユグノーによって2度この村が支配されたこともあり、ルイ4世やシャルル8世の提言に従いアンリ4世は街を完全に破壊した。その際に城塞のほとんどは失われたが、渓谷を見下ろす村の最も高い部分には、10世紀以降に姿を変えながら村を見守ってきたサン・シル・ラポピー城が廃墟となって残されている。また村の入口に佇むロカマドゥール門も、当時の強固な街の名残りを留めている。

サン・シル・エ・サン・ジュリエット教会
サン・シル・ラポピー城の麓には、12世紀に築かれた要塞化された教会が佇んでいる。ロマネスク・ゴシック様式の重厚かつ可憐なフォルムが印象的で、4世紀に最も若くして亡くなったキリスト教殉職者として知られる聖シルとその母だった聖ジュリエットに捧げられている。人口の増加と共に15世紀に大規模な改修が行われたが、最初の建設で施された植物を象った彫刻や、13世紀の壁画がかつての面影を今に伝えている。また城付属の教会として使われていた時代の後陣が残り、四角形の鐘楼は見事な螺旋階段を備えている。

芸術家に愛された村
多くの災難を経たサン・シル・ラポピーの村だったが、特徴的な建築に周囲の自然風景が調和する美しい村の景観が保たれている。シュルレアリスムの父としても知られるアンドレ・ブルトンもこの土地に惹きつけられ、別荘を購入し夏季を過ごした。現在でも村内には芸術家のギャラリーが数多く点在し、村内を散策するだけでも楽しい。この地域の伝統的な民家の中に造られたリニョー美術館(Musée Rignault)では、20世紀初頭に活躍した美術品収集家エミール・ジョセフ・リニョーが残した近代芸術の数々が展示されている。またこの建物の庭からは、ロット渓谷を見下ろす雄大な眺めが広がる。

ベネズエラ マラカイボ

カタトゥンボの雷(カタトゥンボのかみなり、スペイン語: Relámpago del Catatumbo)とは、ベネズエラマラカイボ湖に注ぐカタトゥンボ川の河口周辺で見られる気象現象である。

ヨーロッパでも大航海時代から存在が知られており、「マラカイボの灯台」とも呼ばれていた。

雷の発生が非常に多いことが特徴で、稲妻は上空5キロメートル以上で発生し、年に140〜160夜(多い年では200夜以上)、1晩10時間にわたり、1時間あたり約280回発光する。

また、落雷の際に雷鳴がしないことも大きな特徴である。この現象は世界最大規模の単一の対流オゾン源とされている。

干ばつの影響とされるが、2010年1月から4月にかけて現象が止んだことがある。

発生場所の地理的な座標は北緯8度30分 西経71度0分北緯9度45分 西経73度0分の範囲内である。マラカイボ湖をまたぐように吹く風と数多い沼地がこの嵐を形作っていると言える。

風はおのずと湖の三方向を囲む急なアンデスの山肌にぶつかり、風が取り込んだ熱と湿気が電荷を帯びて雷雲が形成されることで嵐が発生する。雷は高さ数キロメートルに及ぶほど巨大な天然のアーク放電である。夕暮れの1時間くらい後に発生することが多い。

ベネズエラの電磁気学者メルコール・センテーノ(1905~1986)は現象を風の循環の少なさを原因と考えた。

1966年から1970年にかけてアンドリュー・ザブロツキーは地元の大学の援助を受けながら現地に3回出向き、マラカイボ湖西など、雷雲の直接的な発生源がいくつかあると結論付けた。彼は1991年には温度差の高い空気がぶつかることも発生に関与しているとした。また、この研究を受けて地盤に含まれるウランも発生に関わっているのではないかと推測された。

やがて1997年から2000年にかけて、ベネズエラ、カラボボ大学スペイン語版)の教授ネルソン・ファルコンは現象の小規模物理モデルを世界で初めて考案し、河口周辺の沼から発生するメタンが決定的な要因であることを突き止めた。メタンはマラカイボ湖面におけるウキクサ類の繁殖にも寄与している。