江戸時代初期、彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)、山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。1604年、家康の命を受け井伊直継が築城を始めた彦根城は見た目の美しさはもとより、城の内部にも知られざる工夫が凝らされている。築城にあたっては、工期の短縮、建築費の節約のため、近隣の長浜城、大津城の建材が使用された。
天守の柱や梁には別の建物で使われていたことがわかるホゾ穴の跡など随所に見ることができる。天守最上・3階の「隠し部屋」(破風の間)は、引き戸の高さは30cmで幅は100cmほどだが、内部は3畳ほどで床下にもスペースがある。板で塞がれた狭間が2つあり、緊急時には板を打ち破って銃で攻撃することができた。その他、天守に点在する狭間はすべて同様の仕様で、屋外からは存在がわからない。
明治時代、廃城令に伴う破却を免れ天守が現存する。一説によると、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだと云われる。
天守と附櫓及び多聞櫓の2棟が国宝に指定され、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定される。馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。