アッシジの聖フランチェスコ聖堂

アッシジのフランチェスコは存命中から聖人視されていたために、多くの伝説が流布されている。ここでは世に知られていて、かつ信頼のおける史料で確認できる彼の生涯について概述する。

生い立ち・青年期

 丘陵上に広がるアッシジの街山上の「岩」(ロッカ)の城は1198年の市民蜂起で破壊され、現在の城は14世紀から15世紀にかけて再建されたものである。 

フランチェスコは1181年もしくは1182年に、イタリア半島中部ウンブリア地方のアッシジで生まれた。父親はピエトロ・ディ・ベルナルドーネという裕福な毛織物商、母親はジョアンナもしくはピカという名でフランスの貴族の家の出であるとも伝えられているが、これについては信憑性は薄い。

もともとの洗礼名はジョバンニであったが、当時は風変わりで珍しかったフランチェスコという名前で呼ばれるようになった。これは「フランス人」ぐらいの意味であるが、その理由としては父親がフランスとの商取引を主としていてフランス贔屓だったから、フランス人の母親への敬意から、本人がフランス語で歌うことが好きであったから等、様々に言われている。

この時期の都市に住む平民として、フランチェスコは高度な教育は受けなかったものの、少年期にラテン語の読み書きをサン・ジョルジュ教会の付属学校で学んだ。フランチェスコの青年時代は、富貴を問わず誰に対しても礼儀正しかったが、気前の良い散財家で、享楽的な生活を送っていたとされている。プロヴァンス(南フランス)の言葉で歌われていた宮廷詩や吟遊詩を吟じ、珍奇な衣服を好み、宴会の支払いを引き受けていた。

この時期のヨーロッパは人口と経済が飛躍的に伸長し、それに伴った急速な都市化が進行して、新しい時代の制度が模索されている時期であり、戦乱も絶えなかった。イタリアの諸都市においては、神聖ローマ皇帝のドイツ勢力(皇帝派)とローマ教皇の勢力(教皇派)が対立すると共に、都市内の領主や貴族・騎士と平民が対立し、都市間の争いと複雑に絡み合っていた。アッシジは皇帝派を後ろ盾とする貴族や騎士階級が治世権を有する都市であったのが、1198年から1200年にかけて反乱が起きて平民勢力によって貴族や騎士たちが町から追放されている。町を見下ろしていた、ドイツ軍が駐留するための要塞もこのとき破壊された。平民の一員であったフランチェスコも、この内乱に参加していた可能性がある。

隣町のペルージャと、そこに逃亡していた貴族たちがアッシジに戦争を仕掛けたのが1202年のことである。フランチェスコも戦闘に参加したがアッシジは敗北した。彼はペルージャの牢獄に捕虜として一年以上を過ごした後に釈放されて、和議が成立していたアッシジの町に帰った。

1205年、フランチェスコはイタリア半島南部のプーリア地方の戦争に出征する騎士に同行を申し出た。これは、戦功を立てて騎士に取り立てられることを目論んだもので、装備を整えた上で出立するが、アッシジ近郊のスポレートで彼は突然に引き返す。聖人伝は、このとき彼が幻視したか神の声を聞いたのだとしている。

回心と出家

 フランチェスコに呼びかけたサン・ダミアノ教会の十字架像 「着物を返すフランチェスコ」(画:ジョット・ディ・ボンドーネ、1305年頃)着ていたものを全部脱いで父に返し、世俗とのきずなを完全に絶ったフランチェスコ。

フランチェスコがどのように世俗を離れて神の道に生きることを決意したのかについて、順序関係に曖昧なところを残しながら、聖人伝は様々なことを伝えている。前述したスポレートでの幻視もしくは幻聴もそのひとつであるが、他にも様々なきっかけがあり、フランチェスコの回心は数年間の長いプロセスとして描かれている。

ペルージャの捕虜時代であるのか、釈放後なのかは伝記によって異なるが、フランチェスコは大病を得て、そこから快癒して外に出た時、以前のように自然の美しさを楽しめなくなった自分を発見した。友人たちとの放埓な生活にも空しさを覚えるようになり、ときおり洞窟などに籠って祈りや瞑想を行うようになった。

あるとき、それまでは近づくことを恐れていたハンセン氏病患者に思い切って近づき、抱擁して接吻した。すると、それまでの恐れが喜びに変わり、それ以後のフランチェスコは病人への奉仕を行うようになった。

また、ローマに巡礼に出かけて、乞食たちに金銭をばらまき、乞食の一人と衣服を取り換えて、そのまま乞食の群れの中で何日かを過ごしたという伝記もあるが、これは史実かどうか疑わしいとも言われている。

アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞く。これ以降、彼はサン・ダミアノ教会から始めて、方々の教会を修復していった。

父の不在中、フランチェスコは商品を持ち出して近隣の町で売り払い、その代金をサン・ダミアノの下級司祭に差し出した。帰宅してそれを知った父親は怒り、家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとする息子との間に確執を生むことになる。最後には、アッシジ司教の前で父子は対決するのだが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」として衣服を父に差し出し、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切った。

初期の活動

家を出たフランチェスコは、施療施設に住んでハンセン氏病患者への奉仕を行った。また、森を放浪したともいわれているし、サン・ダミアノ教会に住んだともいわれているが、最終的には修復を行うことになるポルツィウンクラの小聖堂近くに住んだ。このポルツィウンクラの地は、フランチェスコと後のフランシスコ会にとって重要な地となる。

サン・ダミアノから始まった聖堂の修復は、(おそらく)サン・ピエトロ教会、ポルツィウンクラの小聖堂と続き、その資材となる石や漆喰、灯明の油などの喜捨を、歌やフランス語で呼び掛けた。これに限らず彼は世俗の時代に慣れ親しんだ吟遊詩のフランス語(プロバンス語)を歌うことが多かった。

日々の食事は、様々な肉体労働もしくは托鉢で得た。金銭は受け取らず、初期のフランシスコ会でも同志たちはそれを忌み避け、手を触れることさえ嫌がった。こうした活動のスタイルから、フランシスコ会は同時期のドミニコ会と共に「托鉢修道会」と呼ばれるようになる。

こうした活動の指針を与えたのは福音書に書かれた、キリストや弟子たちの行動である。ある日、ポルツィウンクラの小聖堂で行われたミサの中で福音書が朗読され、イエスが弟子たちを各地に派遣するときの言葉にフランチェスコは感動した。その中でイエスは「行って、そこかしこで「神の国は近づいた」と伝えなさい。あなた方がただで受けとったものは、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も、替えの衣も、履物も杖も、もっていってはならない」と弟子たちに命じており、それに従ってフランチェスコは直ちに履物を脱いで裸足となり、皮のベルトを捨てて縄を腰に巻いた。

福音書でイエスが命じている全てをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣することがフランチェスコの生活の全てとなっていた。「裸のキリストに裸で従った」のである。

フランチェスコが宣教を始めたのは1208年もしくは1209年のことである。彼は街頭や広場に立ち、聖職者が用いるラテン語ではなく、日常語のイタリア語で聖書の教え、つまり悔い改めて神の道に生きよと説いた。フランチェスコは歌や音楽も利用して、巧みな説話で人々の心を捉えたとされている。そうした芸能的ともいえる活動から、フランチェスコは「神の道化師」と呼ばれている。

仲間と教団の成立

 「肩でラテラノ大聖堂を支えるフランチェスコ」(画:ジョット、1305年頃)インノケンティウス3世が夢にみたみすぼらしい修道士は聖フランチェスコであった。

富裕な商人の子弟であったフランチェスコのそうした活動は、奇行と捉えられ、市民の好奇と侮蔑の対象となった。

しかし、その態度に共鳴してフランチェスコと行動を共にする市民が現れ始める。アッシジの貴族で大変裕福だったとされるベルナルドは、出家の決心を固めると、自分の資産を処分してそれを貧しい人に分け与えた上でフランチェスコと共に生活を始めた。この後も、所有物をすべて放棄して、無一物となった人間をフランチェスコは仲間として迎えていく。初期の仲間には、この他にエジディオ、法律家で聖堂参事会員であったピエトロ・カッターニ、司祭のシルベストロの名前などが知られている。

彼らはフランチェスコも含めてお互いを兄弟と呼び合い、二人一組となってイタリア各地に宣教の旅に出て、行く先々で新たな仲間を得た。彼らは問われれば「アッシジの悔悛者」と名乗っていたが、やがて彼らは自らの集団を「小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)」と名乗るようになっていく。これは現在でもフランシスコ会の正式名称である。

1210年、仲間の数が12人になっていた小さき兄弟団はローマに向かい、教皇インノケンティウス3世に謁見し、活動の許可を求めた。これにはアッシジ司教グイドの斡旋があったものとされている。フランチェスコたちの活動は問題を孕んでいた。そもそも当時の聖職者や修道士は托鉢を禁止されていたし、司祭職の権限を持たない俗人が、説教を行うことも問題視されていた。修道院の中に閉じこもって祈りと瞑想に身と心を捧げる従来の修道会と、小さき兄弟団はまったく性格を異にする集団であった。この時代に少し先行して、古い修道院制度を刷新したと言われているシトー会は労働や生産活動を行ったが、托鉢や街頭での説教などを行ったわけではない。一切を所有しないという清貧の実践、托鉢や宣教活動は、当時の教皇庁を悩ませていた「リヨンの貧者」(ヴァルド派)、あるいはファミリアーティ派と呼ばれたグループなどとも共通するところがあり、異端として弾圧されたこれらのグループとフランチェスコたちが同一視される危険性は十分にあった。

やせ細って、汚れたぼろを纏った兄弟団を最初に見たとき、教皇は不快に感じたとも伝えられている[62]。しかし何度かの謁見の後、口頭によるものではあったにせよ、小さき兄弟団の活動に認可を与えた。聖人伝の伝えるところでは、教皇は夢の中で傾いたラテラノ聖堂をたった一人で支えた男の姿を見ており、その男こそがフランチェスコであると悟ったからだという。

このときフランチェスコは教皇に兄弟団の生活規則を記した文書を提出しており、これは今日「原始会則」と呼ばれている。その本文は現在残っていないが、福音書からの引用で構成された簡単な格言集のようなものであったらしい。おそらくフランチェスコ達は修道会のような組織を作るつもりはこの時点では無く、福音書に書かれた生活を素朴に実践することだけを考え、その認可を求めたものと推測されている。しかし、一切の所有を拒否することなどを含む、福音の完全な実践を謳ったその内容に、枢機卿たちは実行が困難として難色を示した。その否定的な空気を覆したのは「そのような理由で撥ねつけたとあらば、福音が実践不可能であると宣することになります。さすれば、福音をお与えになったキリストを冒涜することになりますまいか」というジョバンニ・コロンナ枢機卿の一言であったという。

教皇は「全能なる主が、汝らの数と恩寵を増してくださったならば、喜びとともに余のもとに戻るがよい。さすれば余は汝らにさらなる愛顧を与え、より大きな使命を、ますますの信頼をもって託すであろう」といって彼らを送り出したとされているが、フランチェスコが与えられたのは仮認可であり、様子見のために結論が先送りされたというのがその実質であった。

兄弟団の発展

ローマから帰って、兄弟たちはしばらくアッシジ郊外リボトルトの小屋に住んで病人の世話や肉体労働、そして托鉢と説教を行った。その後にポルツィウンクラに戻って、小聖堂の周囲に小屋を建てて住むようになった。無所有を貫いたフランチェスコはポルツィウンクラの小聖堂を、毎年家賃として一かごの魚を送ることでベネディクト会から借り受けた。兄弟団はここを拠点にして規模が拡大していく。兄弟団に加わった人々は前述したように二人一組で宣教の旅に出たが、毎年の聖霊降臨祭にはポルツィウンクラに戻って総会を開くのが慣習となった。1217年には、国外への宣教が開始され、最初は苦労するものの、ヨーロッパ中から入会希望者が集まるようになっていく。1219年の総会には3000人あるいは5000人が集まったという史料もある。

こうした兄弟団の発展をサポートしたのは、オスチア大司教のウゴリーノ枢機卿(後のグレゴリウス9世)である。彼は兄弟団に助言を与え、後見人として兄弟団を庇護した。

フランチェスコは徐々に人々からの崇敬を集めるようになっていった。中世に生きた多くの聖人と同様に彼にまつわる奇跡譚が語られるようになる。有名なものとして、鳥に向かって説教を行った話や、狼を説得して、噛み付くのはやめるという同意をとりつけたなどの話がある。この他にフランチェスコは、うさぎ、魚、水鳥、蝉、コオロギを相手に話をしたと伝えられている。

女性も、この新しい運動に加わった。アッシジの貴族の娘であるキアラ(クララ)は、フランチェスコの考えに共鳴して、1212年の枝の主日の夜にもう一人の女性を伴って家を出た。フランチェスコによる剃髪の後、近隣の女子修道院に身を寄せて清貧の生活を送りながら手仕事で生計を立て病人などへの奉仕活動に身を捧げた。現在クララ会と呼ばれているフランシスコ会第二会(女子修道会)の開始である。やがて司教グイドによってサン・ダミアノ教会が提供されると、そこを拠点として「貧しき貴婦人たち」は兄弟団と共に発展していくことになる。

多くの伝記は、1215年の第4ラテラノ公会議にフランチェスコが出席し、ドミニコ会を創始するドミニコと出会ったとしているが、この話には根拠が無い。

フランチェスコはイスラーム世界への宣教にも意欲をもっていた。1209年から1212年のどこかで船に乗ってシリアに向かったが、船が難破してダルマチア沿岸に漂着して断念した。1212年から1214年のどこかには殉教覚悟でモロッコを目指したが、途中のスペインで病を得て引き返す。1219年には、ついに第5次十字軍が駐留するエジプトに渡った。彼はまず、ダミエッタの町を包囲していた十字軍(ダミエッタ包囲戦)に対して戦闘の中止を呼びかけたが、十字軍の行為に幻滅を覚えた。その後、供を一人連れただけでイスラーム陣営に乗り込んでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見しキリスト教への改宗を迫った。スルタンは改宗には応じなかったものの、フランチェスコは丁重にもてなされたという。この席でフランチェスコはイスラーム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかけたとされている。すなわち、燃え盛る炎の中に飛び込んでどちらに神の庇護があるかを競おうというのである。フランチェスコ伝の中のこの有名なエピソードは近代以降は史実に根拠を持たない伝説と考えられていた。しかし、カイロに保存されているある墓碑銘の文面によれば、その時期にイスラム法学者がキリスト教修道士と有名な試みを行ったとされており、この伝説も再考されつつある。

スルタンによって十字軍陣営に送り届けられたフランチェスコは、エルサレムなどの聖地巡礼を行っていたが、イタリアから急を告げる使者がやってきてイタリアに戻ることになった。

会則問題と隠棲

フランチェスコが不在の間に、二つの大きな動きが小さき兄弟団の中で顕わになっていた。まず、厳しい規律を緩和しようとする動きがあり、フランチェスコにとっては容認しがたい事態になっていた。 イタリアに帰って来たフランチェスコは、ボローニャの兄弟団が寄進された建物に定住して学問に打ち込んでいることを知ると、呪いの言葉を吐いて病人を含む全員が建物から出ることを命じている。 当時の書物は高価であり、学究生活は清貧と宣教には馴染まないとしてフランチェスコは常々戒めていたし、石造りの建物に定住するなど兄弟団の理念に反することであった。 ポルツィウンクラに戻ってくると、そこにはアッシジ市が寄贈した建物が建てられていたので、フランチェスコは屋根に上って瓦を剥がし始めた。それを止めさせるためには、アッシジ市の役人が「その建物は寄進したものではなく貸与したものであり、所有権はアッシジ市にあるので壊さないでくれ」と説得するしか無かった。

国を越えて多くのメンバーを集めていた小さき兄弟団は組織化を必要としていたし、その円滑な運営のためにはフランチェスコの求める規律は厳しすぎると、多くが感じていた。さらにそうしたメンバーの多くは、例えばハンセン氏病患者の世話の義務なども厳しすぎるとして、その緩和を求めていた。

その一方で、無原則な放浪生活を行っている例もあれば、男女混じった共同生活を送り、ハンセン氏病の病人と同じ皿から食事を摂るような過激なグループも現れており、これはこれで問題となっていた。フランチェスコの死後、フランシスコ会では「穏健派」と「厳格派」とが対立することになるが、その萌芽が現れていたのである。

フランチェスコは兄弟団内部の調整を試み、共同体への加入希望者には一年間の修養期間が課せられることになった。また、在俗のままに悔悛の生活を送るための第3会も組織化された。しかし、フランチェスコは兄弟団の規律の緩和に関してはどうしても応じられず、事態は行き詰ってしまう。雛が多すぎて翼の下に置ききれない雌鶏の夢をこの頃フランチェスコは見ており、自分の能力を越えたところまで兄弟団が成長したことを悟ることになった。彼は、1220年に兄弟団の総長職を古くからの同志であるカッターニに譲り、以降は精神的指導者では有り続けるものの、隠遁生活に入る。(1221年にカッターニが死ぬと、エリアが総長職を継いだ。)

フランチェスコは23条からなる会則を起草して1221年の総会でそれを提示したが、総意を得ることはできず、教皇ホノリウス3世の認可も得ることが出来なかった。これは「認可されなかった会則」あるいは「第一会則」と呼ばれている。

フランチェスコはフォンテコロンボの隠所にひきこもり、兄弟団の後見人であるウゴリノ枢機卿の助言も受けながら、大幅な妥協を強いられて会則を書き直した。1223年の総会において承認され、教皇に提出されたこの会則は「認可された会則」あるいは「第二会則」と呼ばれている。これ以降、フランチェスコは初期の同志数人と共に森や洞窟で祈りと観想に日々を過ごした。

この時期のエピソードとして、1223年のクリスマスが有名である。ジョバンニという貴族から提供されてグレッチオの山中に滞在していたフランチェスコは、クリスマスを祝うにあたって聖書に描かれたベツレヘムを再現しようと思い立ち、厩舎や飼葉桶を設えた上で雄牛やロバを連れてきてミサを行った。このミサは、フランチェスコが赤ん坊を抱き上げる姿をはっきりと見たと証言する者がいたほどに、参列者に強い印象を与えた。世界中のカトリック教会では今日に至るまで、クリスマスになると聖堂内に厩舎の模型を設えている。

また、1224年にはラヴェルナ山中において六翼の天使から聖痕を受けたとされている。聖痕とは、十字架刑に処せられたキリストの5か所の傷(両手、両足と脇腹)と同じものが身体に現れたものを言い、キリストの模倣を徹底させようとしたフランチェスコの高い精神的境地を象徴する奇跡とされている。キリスト教世界では聖痕の報告例は少なからず有るが、フランチェスコのそれは、聖痕の最初の事例であり、数少ない男性の事例でもある。

 「聖痕を受けるフランチェスコ」(画:ジョット、1325年)

聖痕を受けた後、フランチェスコは再び各地を回り始めるが、徐々に身体が弱り始めていた。頭痛に悩まされ、目はほとんど見えなくなり、サン・ダミアノ教会でキアラの看病をしばらく受けた。フランチェスコの代表作『太陽の賛歌』(『あらゆる被造物の賛歌』)は、この時期に作られたとされている。

総長職を務めていたエリアの説得で、フランチェスコは教皇の医師団の診察を受けることになったが、病状は回復しなかった。死期を悟った彼は滞在先のシエナ、そしてチェッレで遺言を書き取らせた後、活動の原点だったポルツィウンクラへの帰還を希望した。聖人との評判が高まっていたフランチェスコの聖遺骸を切望する各都市の思惑を避けるために、アッシジから軍隊が派遣されてフランチェスコは故郷に護送された。

アッシジ市内の司教館で最後の日々を過ごしたのち、フランチェスコはポルツィウンクラに運ばれ、市民たちが警護に当たる中で1226年の10月3日に死んだ。臨終に当たっては『太陽の賛歌』の斉唱と『ヨハネ福音書』の受難の箇所の朗読が行われ、フランチェスコは地面に敷いた苦行衣の上に裸で横たわって、息を引き取ったという。

遺骸はアッシジに運び込まれたが、その葬列はサンダミアーノ教会でしばし立ち止り、キアラたちが最後の別れを告げた。そして、サン・ジョルジュ教会に葬られた。

死後の列聖

フランチェスコの死の数日後、小さき兄弟団の総長エリアは世界中のメンバーに対して書簡でフランチェスコの聖痕を報告した。多くの人々がフランチェスコの墓に殺到して、多くの奇跡が報告されるようになった。フランシスコの列聖が宣言されたのは1228年7月のことである。死後2年にも満たない迅速なこの処置はグレゴリウス9世、つまりかつてフランチェスコを庇護して助言を与えていたウゴリーノ枢機卿によるものだった。そして、1230年にエリアが建てさせた壮麗なサン=フランシスコ大聖堂の地下に移葬された。

思想

フランチェスコに関する文献資料は数多くあり、そのなかには師を偲ぶ弟子の修道士たちによって記された、『聖フランチェスコの小さい花』(I Fioretti)と題する14世紀完成の伝記があり、多くの人に親しまれている。そこに記されたフランチェスコの生き方は、まさに「托鉢修道士の鑑」である。

また、フランチェスコの思想の性格をよくあらわしたものに、彼の死の床で歌われたという有名な「被造物の讃歌」がある。この讃歌は、「もの皆こぞりて御神を讃えよ、光のはらから(同胞)なる日を讃えよ」という著名な一節から「(兄弟たる)太陽の讃歌」と呼ばれることもある[。そこでは太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への讃美に参加させ、はては死までも「姉妹なる死」として迎えたのである。フランチェスコ自身の内部では、清貧と自由と神の摂理とが分かちがたく結びついており、この三者が調和してこそ、簡素で自然で純朴な、明るい生活を営むことができるのであった。こうしたことから、彼は西洋人としては珍しいほど自然と一体化した聖人として、国や宗派を超えて世界中の人から敬慕されている。

万物兄弟の思想と自然保護の聖者

フランチェスコが求めたものは異端を帰順させたり、いかがわしい聖職者を断罪することではなく、ただ神を讃美し、小鳥やオオカミなどをふくむ神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝え、単純と謙虚の道を歩むことであった。フランチェスコは、ウサギ、セミ、キジ、ハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれる。魚に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名である。『聖フランチェスコの小さい花』にも、説教を聞く者がいないときフランチェスコは小鳥を相手に説教したという逸話が収載されており、同様の伝承は数多く伝えられている。

フランチェスコの以上のような事績から、1978年から2005年まで教皇位にあったヨハネ・パウロ2世は、1980年、フランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定した。

フランチェスコにとっては、人類すべてのみならず、天地の森羅万象ことごとく、唯一神たる天の父とマリアを母とする兄弟姉妹なのであった。こうした「万物兄弟の思想」はフランチェスコとその修道会を貫くものであり、フランシスコ会の修道士が「フライアー」friar と称される由縁である。このことについて、ピーター・ミルワードは、フランチェスコは「兄弟」「姉妹」の語を用いることにより、キリスト教会がイエス・キリストの家族たるべきことを主張し、万人さらには万物を同じ家族として遇することによって、当時、商業の勃興と並行して広がりつつあった、教会制度および国家制度における法的虚礼を排そうとしたものと指摘している。

清貧と平和の思想

フランチェスコの修道生活に関する思想はフランシスコ会の会則によく現れている。フランシスコ会の会則は、当時のベネディクト会の会規とはきわめて質の異なるものである一方、深い部分では互いに共通する特徴を有しており、フランシスコ会士は、より徹底した従順・清貧・貞潔に生きた。フランチェスコは貧しさを礼賛することにかけては徹底しており、物質的な豊かさのみならず、精神的ないし知的な豊かささえも認めなかった。ここは、同じ托鉢修道会ではあったが学問や理論の重要性を認めたドミニコ会とも異なる点であり、フランチェスコは「心貧しいことこそ神の御心にかなう」と主張し、修道士に学問や書籍は不要と喝破している。また、上に述べた「万物兄弟の思想」は、托鉢修道士同士が互いに兄弟と呼び合う関係を生み出した。

フランチェスコは、清貧の理想について、これを当時の騎士道と吟遊詩人の言葉をになぞらえて、「清貧の貴婦人」という擬人法で表現した。つまり、騎士が貴婦人に慇懃に奉仕し、吟遊詩人が賛美の歌を貴婦人に捧げるように、フランチェスコも清貧のために献身することこそ理想と考えたのである。

フランチェスコはまた、人間にとって本当に必要なものは愛と平和だけであり、それ以外のものはすべて不要だと主張し、いさかいや対立は所有することに端を発すると説いたように、その清貧の思想は彼の平和主義と分かちがたく結びついていた。キリスト教とイスラームの宗教対立の時代、そしてまたキリスト教世界が十字軍の熱狂のただなかにあった時代に、他宗教との対話のため、対立する陣営にみずから赴いている点も注目される。

フランチェスコに強い関心を寄せた思想家として、20世紀前半のフランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェイユが知られる[130]。シモーヌ・ヴェイユは『神を待ち望む』(1950)のなかで、「サンタ・マーリア・デッリ・アンジェリ教会の12世紀の小さな礼拝堂は、比類のない清らかさをたたえており、そこで聖フランチェスコはよく祈ったのです。生涯ではじめて私はなにか私よりも力強いものに促され、ひざまづいて祈ろうと思いました」とペラン神父に打ち明けている。

「聖フランシスコの平和の祈り」

「フランシスコの平和の祈り」と呼ばれる祈祷文は広く知られ、マザー・テレサやヨハネ・パウロ2世、マーガレット・サッチャーなど著名な宗教家や政治家が公共の場で引用し、聴衆と共に朗誦するなどして有名である。多くの人がフランチェスコの作と信じていて、そのように書かれた本やパンフレット、ポストカードも数多く存在するが、これはフランチェスコ本人の作ではない。初出は1912年のフランス語によるものであり、誤解によって聖フランシスコの作と伝えられ広められたものである。

とはいうものの、博愛と寛容の精神を逆説で説く内容はフランチェスコの精神をよく表現しているとされており、誤解が解かれることもなく、多くの人々にこの名前で 愛唱されている。

聖痕

フランチェスコの時代にあって、キリストと同じ傷が身体に現れる「聖痕」は想定外の出来事だった。実際、グレゴリウス9世も聖痕の話を信用しなかったし、列聖審査でも聖痕は考慮されていない。勅書によって、フランチェスコの聖痕が承認されたのは1237年になってからであるが、聖痕を否定する動きはフランチェスコの死後100年以上も続いていた。それほどに、聖痕はスキャンダラスな出来事だったのである。

フランチェスコの死後直後に、最初に聖痕について報告したエリアは、聖痕の奇跡が生じた場所や日時、目撃者について何も言及していない。聖痕について言及されているとされる一次資料は、晩年のフランチェスコの傍らにつき従っていた司祭レオーネが残した文書である。これは、慰めの言葉を求めたレオーネに対してフランチェスコが祝福の言葉(現在、『兄弟レオーネの祝福』と題されている)を書きつけて渡した羊皮紙の余白に書き込まれた注釈である。

これによれば、ラヴェルナ山中でフランチェスコは天使セラフィムと出会い、それと対話する中で安らぎを得て、その後に「スティグマ」を得たとある。つまり、第一伝記や大伝記などが語るように、セラフィムと聖痕は時を同じくして現れた訳ではない。さらに、レオーニは「スティグマ」という言葉を「聖痕」の意味では使っていないと考えられる。同じ文書の中でパウロの言葉「私はイエスの焼印(スティグマ)を身に受けている」に言及しており、文脈からすればパウロが受けた「スティグマ」と同じものを指していると考えられるからである。パウロが受けた焼印=スティグマについては、様々な解釈がなされて来たが、「生身の人間にキリストと同じ傷が現れること」を指すような使われ方は、その当時にも行われていない。

第一伝記を執筆したチェラノのトマスは、レオーネの文書にあった「スティグマ」をエリアが報告した聖痕の話であると解釈し、直前に出てくるセラフィムからそれを受けたという物語を作り上げたと考えることができる。こうして、天使(セラフィム)との会話によって慰められたフランチェスコの話が、キリストを模した天使(セラフィム)によって聖痕を受ける話に変貌した。なお、手の聖痕自体の描写はエーリアとトマスでは、まったく異なる。エリアによれば、それは傷の跡であり、トマスによれば、それは釘のような形をした肉の突起である。

聖痕の真相が何であれ、フランチェスコの信奉者達にとって聖痕は、フランチェスコが追及した「キリストの模倣」の最終形態であった。福音の教えに忠実に従うために、フランチェスコは自らキリストの生涯を繰り返しているのだと、仲間達は考え、フランチェスコの晩年を新たなキリストの受難として記憶した。もっとも、聖痕によってフランチェスコはいっそう尊敬すべき聖人となったが、その反面で追従者がフランチェスコの言葉に厳密に従う義務から解放されたという側面もある。事実、フランチェスコの死後に会の規則はどんどん緩められていった。

フランチェスコの聖痕が教皇によって認められて有名になると、シエナのカタリナなど聖痕を受けたと称する事例が報告されるようになった。その多くが女性であり、フランチェスコのような男性の事例はほとんどない。

フランチェスコに関する文書資料

13世紀に活躍した人間としては、フランチェスコは多くの文書を残したし、彼に関連する文書も多く残されている。

フランチェスコ自身の著作として重要なのは兄弟団のために書かれた会則であるが、1210年の原始会則は今日残されていない。1222年の『公認されなかった会則』[151]はフランチェスコが、兄弟団としてどのような集団を構想していたのかを示しており、さらに1223年の『公認された会則』と比較することで、フランチェスコがローマ教会との軋轢の中で何を断念しなくてはならなかったのかが分かる。『訓戒』も、会則同様にフランチェスコが兄弟団に寄せていた想いを知る上で役に立つ。死期を悟った彼が書き取らせた『遺言』は自伝的要素を持っており、貴重な価値を持っている。

この他に、いくつかの書簡がフランチェスコには残っている。ほとんどがラテン語かイタリア語(ウンブリア方言)による口述筆記であるが、レオーニに宛てた二通のみ自筆のものとして残されている。(フランチェスコは「無知で字が読めない」と自称することはあったが、簡単なラテン語なら書けた。)

フランチェスコの作った歌は多く残されていない。彼がよく歌ったとされるプロバンス語の歌はまったく残っていない。フランチェスコは詩にあわせて曲も作ったとされているが、これも全く残っていない。しかし、最晩年に作られた『太陽の賛歌』(『あらゆる被造物の賛歌』)はイタリア語(ウンブリア方言)で書かれた記念すべき最初の詩として評価されるとともに、世界のあらゆるものを肯定的に捉えるフランチェスコの感性を示す作品である。「あらゆる被造物、森羅万象の友、兄弟であり、あらゆるものに愛を振りまいていた」というフランチェスコ像は、この歌に依るところが大きい。また、この歌を基にして作られた讃美歌75番『ものみなこぞりて』は今もプロテスタントの教会で歌われている。

フランチェスコの伝記はチェラノのトマスによって、まず執筆された。列聖式に間に合わせるために、1228年に完成している。これが『第一伝記』と呼ばれるものである。その後、フランチェスコを知る初期の弟子等から寄せられた資料を基に再び執筆されたのが『第二伝記』である。

この時点でフランシスコ内部では厳格派vs穏健派が対立しており、チェラノのトマスが穏健派の立場から、ある資料を採用しなかったり言葉を濁している可能性は考慮しなくてはならないにしても、この二つの伝記はフランチェスコの生涯とフランシスコの思想を知る上で重要な役割を果たしている。

トマスへの情報提供者の中でも重要なのは、晩年のフランチェスコに付き従った兄弟レオーニであるが、トマスはその全てを採用しなかったと見られる。このレオーニが残した証言を多く残しているとされているのが、『三人の伴侶の伝記』、『完徳の鑑』、『旧伝記(ペルージャ古伝)』などの伝記であり、これらの文書には厳格派の立場が現れているとされている。

厳格派と穏健派の対立で混乱したフランチェスコ像を統一すべく、1260年の総会は総長ボナベントゥラに公式なフランチェスコ伝の執筆を要請し、その結果出来上がったのが、『大伝記』である。これは1263年の総会で承認され、さらに1266年にはこれ以外のフランチェスコに関する書物の破棄が命じられた。

『大伝記』で描かれるフランチェスコ像は中道を目指したものではあるが、穏健派/コンヴェントゥアーリ派の思うフランチェスコ像に近いものである。大伝記とジョットによって描かれた絵画によって、フランチェスコのイメージが構成される時代がその後長く続いた。19世紀末になって様々な文書が再発見され、フランチェスコ研究が盛んになった。その中でも重要なのは1894年のポール・サバティエの『アッシジのフランシスコ』である。

歴史的記述ではない、アレゴリー詩ではあるが、『聖フランチェスコと清貧の貴婦人との霊的結婚』は初期の兄弟団の雰囲気を良く伝えている。また、フランチェスコの死のおよそ一世紀後にイタリア語で書かれ、厳格派/聖霊派の影響を強く受けた説話集『聖フランチェスコの小さき花』も、当時を知る上で貴重な史料とされる。

この他、初期の兄弟団の状況を知るフランシスコ会内の史料としては、ジョルダーノ・ダ・ジャーノ『年代記』、エレクトンのトマス『小さき兄弟団のイングランド到来について』があり、外部史料としては、ジャック・ド・ヴィトリの書簡と『東方史』とヴァンドーヴァーのロジャーによる『年代記』などがある。

関連史跡

アッシジの聖フランチェスコ聖堂

アッシジの町は、イタリア国鉄アッシジ駅から公共バスに乗り、丘陵を上った中腹の細長い台地上に立地する。アッシジの旧市街(現在の市壁の内部)西側に壮麗なゴシック建築「聖フランチェスコ聖堂」がある。この聖堂の建設は第二代総長エリアによって1228年に着手され、1230年には早くも下部教会が完成してフランチェスコの遺骸が移された。さらに1239年には上部教会も完成し、巨匠ジョット・ディ・ボンドーネによって「聖フランチェスコの生涯(イタリア語版)」が描かれた[。これはフランチェスコの事績を28枚のフレスコ画であらわしたものであり、鳥に説教するなどの聖人のイメージを広めた。フランチェスコの墓は、エリアによって完全に埋められていたが、1818年に発見されて今では公開されている。

現在の市壁は、フランチェスコ存命期に市民によってつくられた城壁の外側をめぐっており、聖フランチェスコ大聖堂はフランチェスコ時代の城壁からは外側にあたる。旧城壁の内側には、ロッカ城、サン・ルフィーノ大聖堂、ミネルヴァ神殿のほか、フランチェスコの生家、キアラの生家がある。また、旧城壁と新城壁にはさまれた区域には、聖フランチェスコ大聖堂のほか、東にサン・ジョルジョ教会、サンタ・キアラ聖堂、南にサン・ピエトロ聖堂がある。

現在の城壁を出た下方には、南方にフランチェスコの回心のはじめを飾るサン・ダミアノ聖堂があり、そのさらに南方にリヴォトルト聖堂がある。サン・ダミアノ聖堂はのちに拡充され、現在はクララ会の所有となっている。リヴォルト聖堂は、回心後のフランチェスコが最初期に弟子たちと共住生活を行った豚小屋を覆うように建てられている。南西方向には、宣教の最初の拠点となったポルツィウンコラ礼拝堂を内部に抱えるサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂、南東方向にはサン・タンジェロ修道院がある。このように、アッシジにはフランチェスコとその修道会に関する遺跡・遺構がきわめて多い。

以上、アッシジの聖フランチェスコ聖堂および関連修道施設は2000年、ユネスコの世界遺産に登録されている。

フランチェスコが創立した会

「生涯」の章で記された通り、フランチェスコは既存の修道会と似たような組織を作ろうとは思っていなかったし、そもそも自身が司祭や伝統的な修道士になろうと考えたことは一度も無かった。1210年にローマ教皇庁に提出した原始会則は平信徒と聖職者が混じり合って出来た共同体のための会則であり、既存の修道会とはまったく異なるものであった。しかし、彼を中心にして出来上がった「小さき兄弟団」は彼の意図を越えて成長し、「フランシスコ会」の名で知られてローマ教会を支える大修道会として発展して行くことになる。

男子修道会(第一会)と女子修道会(第二会)からなる伝統的な修道会のようにフランシスコ会も男女別修道会制をとる。第一会はその起源を1209年頃アッシジで成立し、1210年に教皇インノケンティウス3世によって口頭認可された「小さき兄弟団」に置く。この小さき兄弟団は、今日『公認された会則』の名で知られる会則を1223年に教皇ホノリウス3世から認可を受けて現在に至っているが、フランチェスコの死後には穏健派と厳格派に分かれて対立し、それは精霊派(スピリトゥアーレ)vs修院派(コンヴェントゥアーレ)の対立となって数世紀の間続いた。

フランシスコ会は、同時代に設立されたドミニコ会とともに清貧と禁欲の生活を理想とし、従順・清貧・貞潔を掲げるベネディクト会戒律とも共通していたが、清貧の徹底という点で既存の修道会とは一線を画していた。フランシスコ会とドミニコ会はともに、居住する家屋も食物ももたず、すべてを他者の喜捨にたよったため、「托鉢修道会」と呼ばれた。

フランチェスコは学究生活を清貧に馴染まないものとして退けていたが、周囲の説得で神学研究が行われるようになり、スコラ哲学の一大拠点としてフランシスコ会は機能して行くことにもなる。トマス・アクィナスと並び称されたボナヴェントゥラ(1221年?-1274年)や、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266年?-1308年)、オッカムのウィリアム(1285年-1347年)などが有名である。

女子修道会の第二会は、1212年にキアラ(クララ)が家を出てフランチェスコの活動に加わったことを起点とするが、その会則が教皇から認可を受けるのは1253年になってからで、フランチェスコの没後27年、キアラが死ぬ僅か2日前のことである。キアラの下に女性達は手仕事で生計を立てて、病人の世話などを行い「貧しき貴婦人たち」と呼ばれたが、今日ではクララ会と呼ばれている。

一般信徒(在俗者)のための第三会は1221年に設立された。小さき兄弟会の分裂を避けるための組織化が図られていた時期に、「純朴な人々のための小さな共同体」という性格を留めさせておきたかったフランチェスコ意図を汲んで、ウゴリーノ枢機卿の提案で作られたものとされている。しかし、教皇庁の利害に奉仕する属人的かつ修道士的な一種の民兵団として利用された側面もある。

年譜


1181もしくは1182年 -ピエトロ・ベルナルドーネとピカの子としてアッシジに生まれる。

1198-1200年 -アッシジの内乱。

1202年 -アッシジとペルージャの戦いに参加し、捕虜となる。

1203年 -アッシジとペルージャの和約。アッシジへ帰郷。

1203もしくは1204年 -病を得る。

1205年 -参戦でプーリアに向かうが、途中で引き返す。回心が始まる。

1206年 -父と対立し、財産を放棄する。病人の世話や、聖堂の修復を行う。

1208-29年 -アルビジョワ十字軍。

1209年 -ポルツィウンクラの礼拝堂で福音の呼びかけを聞く。ベルナルドやカッターニが仲間になる。

1210年 -仲間とともにローマに向かい、教皇インノケンティウス3世から「小さき兄弟団」の会則(『原始会則』)を口頭で認可してもらう。

1211もしくは1212年 -アッシジの貴族の娘であるキアーラが出家し、フランチェスコが剃髪する。

1212年 -子供十字軍。

1212から1214年頃 -シリア伝道を目指すが、ダルマチアに漂着。モロッコ伝道も試みるが、病で断念。

1217年 -ポルツィウンコラの総会で国外宣教が決定される。

1219-1220年 -東方伝道でエジプトへ赴く。スルタンに面会。

1220年 -モロッコで5人の兄弟団メンバーが殉教し、兄弟団内部にも内紛ありとの知らせがありイタリアに帰還。兄弟団の運営をカッターニに委ねる。またローマ教皇庁は兄弟団の保護者としてウゴリーノ枢機卿を指名する。

1221年 -カッターニ死去に伴い、エリアが総長となる。フランチェスコは新会則を総会に提出するが、同意を得られず、教皇庁の認可も得られなかった(「公認されなかった会則」)。

1223年 -新たな会則を起草し、教皇ホノリウス3世が認可する(「公認された会則」)。グレッチォでベトレヘムを再現したクリスマスを祝う。

1224年 -ラヴェルナ山で手足と脇腹に聖痕を受ける。

1225年 -病に苦しみサン・ダミアーノ教会で療養し、『太陽の讃歌』を作る。リエティで教皇の医師団の治療を受けるが回復せず。シエナで遺言をしたためる。

1226年 -アッシジに移送され、ポルツィウンコラで死去。遺体はサン・ジョルジョ聖堂に葬られる。

没後

 2013年教皇着座式にのぞむホルヘ・マリオ・ベリゴリオ。コンクラーヴェで選出されたさいブラジルの枢機卿に「貧しい人のことを忘れないでください」と言われ「アッシジのフランチェスコ」を思い出し、これを教皇名とした。アッシジのフランチェスコの精神が21世紀のカトリックの教会の中心に据えられた象徴的出来事である。

1228年 -チェラーノのトマスによる『第一伝記』。7月16日、教皇グレゴリウス9世によって聖人に列せられる。

1230年 -エリアの指示で建設中の壮麗な聖フランチェスコ大聖堂に遺骸を移葬。同年、グレゴリウス9世は教勅によって、会則を穏健に解釈するとともに、フランチェスコの遺言の効力を無効とする。

1246/47年 -チェラーノのトマスによる『第二伝記』。

1253年 -キアラによる会則の認可。キアラ死去。

1255年 -キアラ列聖。

1263年 -フランシスコ会総長のボナヴェントゥラによる『大伝記』が承認を得る。

1266年 -ボナヴェントゥラによる『大伝記』が唯一の公式な伝記に指定されるとともに、他のあらゆるフランチェスコ伝の破棄が命じられる。

13世紀末 ーフランチェスコ大聖堂上堂に、ジョットによってフランチェスコの生涯がフレスコ画で描かれる。

1818年 -フランチェスコ大聖堂地下から伝承通りにフランチェスコの遺骸が発見される[173]。

1882年 -聖フランシスコ生誕700年祝賀にあたって回勅が出され、近代歴史学的なフランチェスコ研究が盛んになる[178]。

1894年 -プロテスタント牧師のポール・サバティエによるフランチェスコ研究が発表され、後世のフランチェスコ研究に大きな影響を与える[178]。

1939年 -フランチェスコ、シエナのカテリナとともにイタリアの守護聖人となる[3]。

1978年 -フランチェスコの遺骸の科学的検証がなされる[173]。

1979年 -フランチェスコ、環境保護運動の守護聖人となる[179]。

2013年―第266代教皇にブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が着座し、フランチェスコの名をとって「フランシスコ(ラテン語名フランキスクス)」を名乗る。

モントリオール・ノートルダム聖堂(Basilique Notre-Dame de Montréal)

映画・“旅愁” のなかの「セプテンバーソング」

「セプテンバー・ソング」は、ジョーン・フォンテーンとジョセフ・コットン主演、ウィリアム・ディターレ監督の映画『旅愁(September Affair)1952』のテーマ曲として有名です。

映画はイタリアを舞台にしたAffair(不倫の恋)、恋愛劇で、これも九月の人恋しさを感じされる物語でした。この映画はアカデミー主演女優賞を獲ったジョーン・フォンテーンの成熟した演技が印象的でした。

もともと、「セプテンバー・ソング(September Song)」は:クルト・ワイル(Kurt Weill)作曲、マックスウェル・アンダーソン(Maxwell Anderson)作詞のブロードウェイ・ミュージカル『ニッカボッカ・ホリディ(Knickerbocker Holiday)』の挿入歌。

ウォルター・ヒューストン(Walter Huston)はカナダ生まれの俳優で歌手ではありません。そのため声域も広くない彼のために書かれたのが「セプテンバー・ソング」(September Song)なのですが、かえってこれが誰でもが口ずさめる親しみやすいメロディをこの歌に与えました。

また、歌詞の内容も良く、「九月の歌」ではありますが、日が短くなるこの時期を愛の感情に重ねて秀逸です。

明るい夏が終る九月という月の持つ季節の変わり目に対して、人が無意識に感じる感傷を表現しています。あるいは人生の秋、無駄にする時間は無くなり、残り少ない時間をあなたと共に過したいという意味も感じられます。この含みが歌詞に豊かな余韻を与えています。

「セプテンバー・ソング」はブロードウェイ・ミュージカルの発表当時から人々に親しまれており、スタンダードな歌となっていました。それを再びヒットさせたのがフランク・シナトラのバージョンです。この歌唱が今でもこの歌の変らぬスタンダードともなっています。曲と歌詞がシンプルで美しいため、これ以上のアレンジは難しい歌でもあります。一例を挙げれば、ルー・リードのカバー・バージョンもスタンダードに対するひとつの挑戦であるものの、原曲、シナトラを超えるものではありませんでした。

“September Song”
When I was a young man courting the girls
I played me a waiting game
If a maid refused me with tossing curls
I’d let the old Earth make a couple of whirls
While I plied her with tears in lieu of pearls
And as time came around she came my way
As time came around, she came

[When you meet with the young girls early in the Spring
You court them in song and rhyme
They answer with words and a clover ring
But if you could examine the goods they bring
They have little to offer but the songs they sing
And the plentiful waste of time of day
A plentiful waste of time]

Oh, it’s a long, long while from May to December
But the days grow short when you reach September
When the autumn weather turns the leaves to flame
One hasn’t got time for the waiting game

Oh, the days dwindle down to a precious few
September, November
And these few precious days I’ll spend with you
These precious days I’ll spend with you

・映画挿入歌・ Song:Walter Huston
女を口説いていた若い頃は
 待つのも楽しみだった
 そっぽを向かれフラれても
 時を過ぎるに任せていた
 真珠の代わりに涙を捧げていた
 時がたち想いはかなった
 時がたち彼女は僕のものに

5月から12月までは長い月日だけれど
 9月になると日々は短くなる
 秋の気配が木の葉を赤く燃え立たせる頃
 もう待つことを楽しむ時間はない
 残りの日々は少なく貴重なものになってゆく

[9月から11月へと
 この大切な日々を君と共に過ごそう
 大切な日々を君と共に
 月日が流れワインは熟成してゆく]

9月から11月へと
 この実り多き歳月を君と分かち合おう
 実り多き歳月を君と共に

地中海に面するトルコ最大の観光都市 アンタルヤ(ANTALYA)

港町として栄えたアンタルヤの歴史

アンタルヤの地には考古学的発掘によって4万年前から人が住んでいたことが分かっています。

この辺の地域の古代名はPAMPHYLIA (パンフィリア)と言い、東のCILCIA(キリキア)と西のLYCIA(リキア)に挟まれた土地でした。

パンフィリアの名が歴史上初めて登場するのが紀元前1200年頃のヒッタイト時代の文献です。

アンタルヤの名の由来は紀元前159年にペルガモン王国第4代国王アッタロス2世がこの地に都市を建設しATTALIA(アッタリア)と名付けられたことから始まります。

アッタロス2世は、兵達に「行け!私の為にこの地上での楽園を見つけるのだ!」と命令を出し、兵たちが何年もかけて探し出した楽園と言うのが、ここアッタリアの地とのことです。

ペルガモン王国の終焉(紀元前133年)後しばらくの間独立したままだったこの都市は、後に海賊の手に渡り、紀元前77年にローマ執政官プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクスによってローマの地として併合されました。

紀元前67年にはポンペイウスが率いたローマ海軍の基地となり、西暦130年に皇帝ハドリアヌスがアタレイアへ訪問したことにより、この地はより発展しました。

ビザンチン統治時代は司教の中心地として栄えましたが、西暦7世紀以降、この地域はセルジュークとビザンチンの間で頻繁に支配交代されながら1207年にセルジューク朝に支配されることになります。

これに続いて、テケ侯国(アンタルヤを都とした君侯国)、オスマン帝国、カラマン侯国(現カラマンを都とした君侯国)、そして再びオスマン帝国と主権が代わりました。

第1次世界大戦末期には一時イタリア軍に占領されましたが、1923年にトルコ共和国建国と共にトルコの手に戻り現在に至ります。

長い間アッタリアやアタレイヤと呼ばれていたこの地は、19世紀頃にADALYA(アダルヤ)、そして共和国になりANTALYA(アンタルヤ)と名前が変わりました。ちなみにアンタルヤは「アッタルヤ領」を意味します。

世界遺産の街「ケベック・シティ」

1965年の映画『いそしぎ』のテーマ曲として書かれたポピュラー・ソング。

英語では別名「Love Theme from The Sandpiper」(「『いそしぎ』の愛のテーマ」の意)と呼ばれ、日本語では「いそしぎのテーマ」、あるいは単に「いそしぎ」とも呼ばれる。

作曲はジョニー・マンデル (Johnny Mandel)、作詞はポール・フランシス・ウェブスター (Paul Francis Webster)である。

映画『いそしぎ』では、ジャック・シェルドン (Jack Sheldon) のトランペット・ソロで演奏され、後にトニー・ベネットの歌でマイナー・ヒットとなった(このバージョンも作曲者マンデル自身が編曲・指揮を担当した)。

この曲は、1965年のアカデミー歌曲賞、および、1966年のグラミー賞最優秀楽曲賞に選ばれた。 作曲者は「おどま盆ぎり盆ぎり」五木の子守唄を耳にしてそれもヒントにして作曲したと言っているらしい(2020年10月17日、桑田佳祐のやさしい夜遊び)。

様々なバージョン

この曲の広く知られたバージョンとしては、バーブラ・ストライサンド(1965年のアルバム『My Name Is Barbra, Two…』に収録)やシャーリー・バッシー(1966年のアルバム『I’ve Got a Song for You』に収録)などによるものがある。

そのほか、アンディ・ウィリアムス、パーシー・フェイス、リタ・レイズ(英語版)、アル・マルティーノ、ペリー・コモ、ナンシー・シナトラ、アストラッド・ジルベルト、ペギー・リー、サラ・ヴォーン、フランク・シナトラ、エンゲルベルト・フンパーディンク、グレン・フライらが歌っている。

コニー・フランシスはこの曲を、英語、スペイン語(「La sombra de tu sonrisa」)、イタリア語(「Castelli di sabbia」)でそれぞれ録音した。トリニ・ロペスは、リプリーズ・レコードから出したアルバム『Trini』にこの曲を収録している。リル・リンドフォース (Lill Lindfors) はこの曲をスウェーデン語で「Din skugga stannar kvar」として録音している。

マーヴィン・ゲイは、この曲を数種類の異なるバージョンで録音に残している。アルバム『Romantically Yours』、『Vulnerable』に異なるバージョンが収録されているほか、ライブ盤『Marvin Gaye: Live at the Copa』にもこの曲が収録されている。ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスは、1966年のアルバム『What Now My Love』にインストゥルメンタル・バージョンを収録した。

イタリアの有名歌手ミーナは、1968年にテレビでこの曲を歌い、後に『Le canzonissime』というCDにもこの曲を収録した。ドイツの歌手ウド・リンデンベルク (Udo Lindenberg)は、ロック寄りのカバー・バージョンを1986年のシングル「Germans」に収録した。2006年には、英国退役軍人会中央楽団 (The Central Band of the Royal British Legion) が同名アルバムの冒頭曲としてこの曲を取り上げた。

さらに、ナンシー・エイムス (Nancy Ames) は、スペイン語バージョンを1966年の『Latin Pulse』に収録している。ホセ・カレーラスは、アルバム『What a Wonderful World』にこの曲を収録しており、ペペ・ハラミジョ (Pepe Jaramillo) は、ラテン・ダンス・バージョンを1971年のEMIのアルバム『Tequila Cocktail』に収録している。セルジオ・フランチ (Sergio Franchi) は1967年RCAビクターのアルバム『From Sergio – With Love』でこの曲を取り上げている。

ボビー・ダーリン (Bobby Darin)のアルバム『Bobby Darin Sings The Shadow of Your Smile』は、A面に1966年のグラミー賞最優秀楽曲賞にノミネートされたすべての曲を収録している。

ジャズのサクソフォーン奏者エディ・ハリス(Eddie Harris) は、この曲を1965年に録音し、アルバム『The in Sound』に収めている。 1967年には、ジャズのサックス奏者渡辺貞夫が菊地雅章や中牟礼貞則、富樫雅彦らと録音したアルバム『イパネマの娘』にてカバーしている。

ジャズのオルガン奏者ブラザー・ジャック・マクダフは、1967年のアルバム『Tobacco Road』で、この曲をインストゥルメンタルでカバーした。

1983年、R&BグループDトレイン (D. Train) は、12インチ・シングル盤「The Shadow of Your Smile / Keep Giving Me Love」をダンス音楽のヒットにした。

同じく1983年、インストゥルメンタル・グループ、ピーセズ・オブ・ア・ドリームは、アルバム『イマジン・ジス』でこの曲をカバーした。

トニー・ベネットは、アルバム『Duets: An American Classic』のために、コロンビアのロック歌手フアネスとのデュエットを、スパングリッシュ・バージョンで録音した。これはフアネスにとっては英語で歌う最初の録音であり、ベネットにとってはスペイン語で歌う最初の録音であった。

竹内まりやの2003年のアルバム『Longtime Favorites』に収録された。

リトアニア国立オペラ・バレエ劇場 (lt:Lietuvos nacionalinis operos ir baleto teatras、en:Lithuanian National Opera and Ballet Theatre) のソリスト(バリトン)であるヴィタウタス・ユアザパイティス (Vytautas Juozapaitis) は、2004年リリースのデビュー・アルバム『Negaliu Nemylėti (Can’t Help Falling In Love)』に、この曲のリトアニア語バージョン「Kai Tu Toli」を録音した。

アイルランド出身の歌手カーリー・スミスソン(Carly Smithson) は、『アメリカン・アイドル』のシーズン7で上位24名のひとりとしてセミファイナルに進出した際、この曲を歌った。この歌唱は、2008年2月21日から、ダウンロード版がリリースされた。

歌手アメル・ラリュー (Amel Larrieux) は、2007年のジャズ・スタンダード・アルバム『Lovely Standards』にこの曲を収録した。

歌手で作曲家のドナルド・ブラスウェル2世(Donald Braswell II) は、2007年のアルバム『New Chapter』にこの曲を収録した。

サクソフォーン奏者のデイヴ・コーズは、スタンダード曲を取り上げたアルバム『At the Movies』にこの曲を2つの異なるバージョンで収録している。ひとつ目は、ジョニー・マティスのボーカルと、クリス・ボッティのトランペットが入っていて、インストゥルメンタル曲として演奏されている2つ目では、再びボッティが登場するほか、ギター奏者ノーマン・ブラウンがフィーチャーされている。

ブラジルのギター奏者バーデン・パウエルは、1971年のコロンビア・レコードのアルバム『Solitude on Guitar』でこの曲を取り上げている。

近畿日本鉄道では、特急の鵜方駅到着時にこの曲をチャイムとして流していた。

西城秀樹・1986年のアルバム『Strangers in the Night』で、スタンダード・ナンバーの1曲としてこれをカバーしている。

デンマーク、コペンハーゲン ローゼンボー城(Rosenborg Slot)

コンチネンタル・タンゴ/作曲:ヤコブ・ゲーゼ(デンマーク)

『ジェラシー(タンゴ・ジェラシー)』は、デンマークのバイオリニスト、ヤコブ・ゲーゼ(Jacob Gade/1879-1963)作曲のコンチネンタル・タンゴ。1925年初演。

アルフレッド・ハウゼ楽団のレパートリーとしても有名。

『ジェラシー』の世界的大ヒットにより、ゲーゼの没後、印税により「ヤコブ・ゲーゼ賞」が設けられ、若手の音楽家の育成の基金となった。

ヤコブ・ゲーゼ(Jacob Gade、1879年11月29日 – 1963年2月20日)はデンマークのバイオリニスト、ポピュラー音楽の作曲家である。

基本情報
生誕1879年11月29日
出身地デンマーク
死没1963年2月20日(83歳没)
ジャンルポピュラー音楽
職業ヴァイオリニスト・作曲家
担当楽器ヴァイオリン

タンゴの楽曲『タンゴ・ジェラシー』(または単に『ジェラシー』、Tango Tzigane Jalousie、Tango JalousieまたはJalousie)で有名である。1925年9月14日に初演されたこの曲は世界的に大ヒットし、100以上の映画の音楽としても使われた。この曲の印税で、ゲーゼはこれ以後作曲に専念できた。ゲーゼの没後、印税は若手の音楽家の育成の基金となった。(ヤコブ・ゲーゼ賞が設けられた。)

スペイン、Sevilla, セビージャ  (アンダルシア) マリア・ルイサ公園

アルゼンチンのミュージシャン

フリオ・サルバドール・サグレラス (Julio Salvador Sagreras、ブエノスアイレス、1879 年 11 月 22 日 – 同上、1942 年 7 月 20 日) は、アルゼンチンのギタリスト、作曲家、教師 でした。ギタリスト(ガスパール・サグレラス)の息子である彼は、アルゼンチンのブエノスアイレスにある芸術アカデミーでギター教師を務めていました。彼は、モントネロスグループの創設者マリオ・エドゥアルド・フィルメニッチの母方の祖父です。

フリオ・サルバドール・サグレラス
個人情報
誕生1879 年 11 月 22 日ブエノスアイレス(アルゼンチン) 
死1942年7月20日(62歳)ブエノスアイレス(アルゼンチン) 
国籍アルゼンチン専門的な情報エリアギタリスト、作曲家、教師楽器ギター

彼はブエノスアイレスのフランシスコ・ヌニェス出版社から 100 近くの作品を出版し、1905 年には自身のギター学校、ラ・アカデミア・デ・ギターラを設立しました。彼はギターの指導法の著者であり、1925 年から数多くのラジオ コンサートに参加しました。作曲家として、彼は主にギターのための音楽を書きました。

また、ギターの演奏を学ぶための本、初級からコンサートギタリストのレベルまでの6冊の学習本からなる『ギターレッスン』も執筆しました。

人生

若い頃に最初の曲を書き、この才能あるアルゼンチンのギタリスト兼ピアニストは、 20世紀半ばに著書『LAS LECCIONES DE LA GUITARRA』を出版し、 民俗学のインスピレーションのためのテクニックと研究を提案し、また著書『TÉCNICA SUPERIOR DE GUITARRA』を出版しました。 、古典的なテクニックを使用してギターに適用される彼の基本的なテーマに焦点を当てています。

彼と父親だけでなく、当時の他の著名なアーティストたちと共演したコンサートの数も無視できません。間違いなく、この優れた作曲家は多くの人の記憶に残るでしょう。彼の創作したタンゴは大衆に大きな共感を呼びましたが、残念なことに、1942年に世界は、彼の国と世界で最も有名な音楽家の一人に別れを告げました。

音楽は本質的に注目されずにはいられませんが、むしろ私たちの日常生活の一部であり、サグレラスのような作曲家が自分の作品を一般に浸透させることができれば、一生忘れられることはほとんどありません。私たちは、音楽の影響が長年にわたり根本的なものであり、文化と社会の発展にとって非常に重要な要素であることを無視することはできません。その一例として、2000 年以上前の日本では、言うまでもなく帝国音楽チームが音楽チームを編成しました。音楽は魂の情熱を表すと考えた偉大なアリストテレス。間違いなく、この芸術 (音楽) は永遠に残り、音符を通して伝わる情熱や感情が常にあり、サグレラスのような作曲家は常に私たちに彼らの遺産を追い、聴くようインスピレーションを与えてくれます。

サグレラスは多くのギター作品を作曲しましたが、その中にはエル・コリブリ(特徴的な研究)という作品があり、世界の一流ギタリストのレパートリーの一部となっており、何度も録音されています。若い頃、彼は劇場用に最初の 3 つの作品を書きました。ホセ・R・シュプフ中尉が作詞した「代理司祭」、「リヴァダビア劇場」(現リセオ)で女優のローラ・メンブリベスが初演。彼女が発表した曲には他に「ベビタ」(ワルツ)、「カヒータ・デ・ムジカ」、ネリー(ザンバ)、「エル・ゾルザル」(スタイル)、ワルツ「ネヌファル」と「ヴィオレタス」は特に、ギターを教えるための彼の一連の教育本「最初のギター・レッスン」を超え、シリーズは「6番目のギター」まで続くレッスン」の最後は「より高度なギターテクニック」で終わります。

15世紀の大航海時代に建設された教会や宮殿「ポルトの歴史地区」

徳川家の家紋「葵紋」が見つかったことで、日本でもニュースになったボルサ宮。ニュースによると、葵紋は、1865年のポルト国際博覧会に出席した徳川家使節団を歓迎する意図で描かれたのではないかとのこと。葵紋が発見された「紋章の間」の天井は、ポルトとの深い関わりのあった19の国(当時)とポルトガルの紋章で飾られ、ポルトガル語では「Patio das Nacoes(国々のパティオ)」と呼ばれています。パティオの名にふさわしく、広々とした吹き抜け構造になっており、天井だけでなく、床の大理石やアーチの美しさも見事。

ボルサ宮は他にも、・壁一杯にポルト市民の商いの場面が描かれた「裁判の間」・エンリック・メディーナ作の12枚の絵画が華やかな「陪審員の間」・当時の通信手段であるテレグラフ機器が残る「電報の間」・マリア・ピア橋などでポルトに貢献したエッフェルが使ったとされる「ギュスターヴ・エッフェルの間」・ローマ時代の市民をテーマにした絵画や暖炉が美しい「所長の間」・現在でも月に一度ポルト商工会議所の定例会議が開催される「黄金の間」・年に一度の総会が行われる「議会の間」・サン・フランシスコ修道院跡地をポルト商業組合に贈呈した王妃ドナ・マリア2世へ謝意を表するため、ブラガンサ王朝の王たちの肖像を飾った「肖像の間」・アルハンブラ宮殿にインスピレーションを受け、18年の月日をかけて1880年に完成した「アラブの間」があります。特に「肖像の間」の木彫作家ゼフェリノ・ジョゼ・ピントによるテーブルは、1867年のパリ万博で入賞した当時の最高傑作。さらに、現在でもコンサートや国際会議などが開かれる「アラブの間」は、その木彫の美しさと金箔の豪華さでボルサ宮随一の見どころとなっています。

ハンガリー、パンノンハルマの小高い丘に建てられた1000年以上の歴史があるベネディクト会大修道院

世界遺産
パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境
Millenary Benedictine Abbey of Pannonhalma and its Natural Environment
ハンガリー
登録年:1996年
登録基準:文化遺産
資産面積:47.4ha

世界遺産概要

ハンガリー北西部ジェール・モション・ショプロン県パンノンハルマ市に位置するパンノンハルマ大修道院は996年の創立と1,000年超の歴史を誇る修道院で、ハンガリー初の学校が創設され、ハンガリー語の初の文書が作成された。

ハンガリーのみならず中央ヨーロッパにキリスト教ローマ・カトリックの宗教や文化を啓蒙する拠点としてありつづけ、ゴシック様式やバロック様式、新古典主義様式をはじめ中世から近代まで時代時代のスタイルをいまに伝えている。

資産の歴史

1世紀にハンガリー大平原とその周辺に広がるパンノニアの西部はローマ帝国の属州となり、その後、フン帝国やアヴァール人、スラヴ人、フランク王国などが支配した。9世紀頃からハンガリー人の祖とされるマジャール人がロシアのヴォルガ川やウラル山脈周辺から進出し、896年には大首長アールパードがマジャール人の諸部族を統一してハンガリー大公国を成立させた(ハンガリーの建国)。マジャール人はパンノニアのみならずイタリアやドイツにまで進出し、圧力を加えた。

パンノンハルマの地には10世紀ほどまでバイエルン人やスラヴ人の農村が広がっていた。そしてここには聖山として崇められていた丘があり、いつしかパンノニア出身のローマ軍人で、後にトゥール司教となった聖マルティヌスの生誕地であるという伝説が広まった(通説ではパンノンハルマの南西のソンバトヘイ出身)。このため19世紀までこの地はジェールゼントマールトン(ゼントマールトンは聖マルティヌスを意味する)と呼ばれていた。

996年、修道会のベネディクト会はマジャール人をはじめとする異教徒への宣教と聖マルティヌスの聖地の保護を目的に、イタリアやドイツ、ボヘミア(チェコ西部)から最初の修道院長となる聖アストリックをはじめ、司教や司祭・修道士らを送り込んで聖マルティヌスに捧げる修道院と付属聖堂(聖マルティヌス聖堂)を創設した。

時のハンガリー大公ゲーザは異教徒ではあったがキリスト教の宣教を認めており、ベネディクト会に修道院の創設を許可した。997年にゲーザの息子ヴァイクが大公位を継ぐが、ヴァイクは洗礼を受けたキリスト教徒であり、1000年に教皇シルウェステル2世からキリスト教国として認められてハンガリー王国が成立し、イシュトヴァーン1世を名乗った。イシュトヴァーン1世は修道院に特権を与え、多額の寄付を行ってこれを保護した。

修道院は宗教や文化・教育・経済・司法の中心地として中央ヨーロッパに広く影響力を持ち、その啓蒙に努めた。一例が1055年にベラム(犢皮紙。主に子牛の皮をなめした皮紙)に記されたティハニ修道院憲章で、ハンガリー語による最古の文書として知られる。

最初の修道院は1137年頃に全焼したため、ハンガリー王ベーラ2世らの支援の下で13世紀までかけてゴシック様式で再建された。

1241年にモンゴル帝国が襲来して町を破壊したが、修道院長ウロスは聖マルティヌスの丘と修道院の城壁を利用してこれを撃退した。その後、14~15世紀にかけて修道院と町は大いに繁栄し、人口が急増した。1472年には国王マーチャーシュ1世がゴシック様式で大規模な増改築を行い、規模が一気に拡大した。修道院は1514年に大修道院に昇格している。

16世紀にオスマン帝国最盛期を築いた皇帝スレイマン1世がハンガリーに進出し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を撃破してハンガリー中部と南部はオスマン帝国領ハンガリーとなった。

当初修道院は難を免れ、城壁を張り巡らして要塞化されたが、帝国の圧力を受けて1575年には大部分が放棄され、1594年には占領された。1638年の奪還後、17世紀後半に大修道院長マティアス・パルフィが修復をはじめ、18世紀はじめには大修道院長シャイゴ・ベネデックがバロック様式で改修を行った。修道院は活気を取り戻し、町や畑の再興にも貢献した。

18世紀後半のハンガリー王で神聖ローマ皇帝やオーストリア大公、ボヘミア王などを兼ねたヨーゼフ2世は啓蒙思想を奉じる啓蒙専制君主であり、科学の人だった。国家への貢献が乏しいと見たヨーゼフ2世は1786年にハンガリー国内のすべてのベネディクト会の修道院の閉鎖を命じた。1802年に医療施設や教育施設となることで存続が認められ、多くの修道院は近郊の町に移動し、主に中等教育を行う学校を運営した。しかし、パンノンハルマ大修道院はその場所を変えず院内に学校を開設し、修道院もそのまま存続した。

19世紀はじめに新しい図書館がオープンし、19世紀後半には修道院付属聖堂やクロイスター(中庭を取り囲む回廊)が改修され、1896年のハンガリー建国1,000周年にはミレニアム記念碑が建設された。1939~41年にはイタリア政府が中等教育学校と寮を寄贈し、現在の姿がほぼ完成した。

第2次世界大戦後に社会主義国家であるハンガリー人民共和国(1949~89年)が成立し、1950年に政府に接収された。修道院は文学系の学校として承認され、教育施設として存続しつつローマ・カトリックの教えを守り抜いた。1970年に町はパンノンハルマの名前で市に昇格している。

ハンガリーの民主化運動が進んで1989年にハンガリー共和国が成立すると修道院はベネディクト会に返還され、施設の修復・改修が進められた。これにより宗教施設としての機能を取り戻すと同時に、教育施設としての役割を引き継いだ。そして修道院1,000周年に当たる1996年に世界遺産リストに搭載された。なお、ハンガリー共和国は2012年にハンガリーに改名している。

資産の内容

世界遺産の資産は修道院の建造物群が立ち並ぶ聖マルティヌスの丘と、周辺の記念碑・礼拝堂・公園・植物園・農場・森林等で構成されている。

聖マルティヌス聖堂ともいわれる修道院付属聖堂は1224年に完成した初期ゴシック様式の教会堂で、現在の建物は3度目の再建と考えられている。地下の遺構やクリプト(地下聖堂)、一部の壁面は12世紀以前にさかのぼるもので、修道院の最初期の姿を伝える数少ない証拠となっている。聖堂最古級の施設がクリプトで、長方形の地下空間にはもともと聖マルティヌスの聖座が収められており、修道院長や著名人の埋葬地としても知られる。一例がオーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子オットー・フォン・ハプスブルクで、死後、自らの心臓をここに収めさせた。教会堂はバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)や交差六分のリブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)をはじめ初期ゴシックらしい特徴が見られる。

15世紀にマーチャーシュ1世が後期ゴシック様式で、19世紀には建築家・画家のフェレンツ・ストルノによってゴシック・リバイバル様式で増改築されており、内陣の天井などは前者、天井のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)などは後者の時代のものとなっている。修道院のランドマークである鐘楼は19世紀に聖堂の西1/3を破壊して増築したもので、新古典主義様式で5層、高さ55mを誇る。中世、聖堂への主要門となっていたのがスペキオサ門(ポルタ・スペシオサ)で、13世紀に建造された。赤大理石をベースに白大理石を組み合わせた洗練されたデザインで、ティンパヌム(タンパン。リンテルを飾る壁面装飾)に描かれた聖マルティヌスの騎馬像は19世紀に追加されたものだ。門を入るとマーチャーシュ1世が1472年に整備したゴシック様式のクロイスターが広がっており、各施設を接続している。

クロイスターの中心にあるパラディスムのパティオ(楽園の中庭)はパラダイスの楽園を再現したものとされる。バロック様式の食堂は1724~27年に築かれた2階建ての長方形ホールで、スイスのバロック画家ダヴィデ・アントニオ・フォッサティによる『旧約聖書』や『新約聖書』の食事のシーンを描いた壁画が名高い。同じくバロック様式の図書館はヨーゼフ・フランツ・エンゲルの設計で1824~35年に築かれたもので、4階建ての館内に40万以上の蔵書を有し、中世の貴重な写本も少なくない。

南の丘に立つ聖母礼拝堂は1714年に建設がはじまったバロック様式の礼拝堂で、もともとはハンガリー語以外を母国語とする人々のための教区教会だった。26×10.9mの単廊式(廊下を持たない様式)の教会堂で、1865年に内装等が新古典主義様式で改修された。クリプトは修道士の埋葬地として使用されている。

南西の丘に立つミレニアム記念碑は1896年のハンガリー建国1,000周年を記念してハンガリー国内に建てられた7つの記念建造物のひとつだ。ギリシア神殿を思わせる新古典主義様式の建物で、ファサード(正面)のポルティコ(列柱廊玄関)はイオニア式の円柱が堂々たるペディメント(頂部の三角破風部分)を掲げている。ペディメントやティンパヌムの彫刻群は彫刻家ベゼリーディ・ギュラの作品だ。もともと高さ26mの二重殻ドームを冠していたが、損傷が激しかったことから1937~38年に撤去された。

ベネディクト会パンノンハルマ校は中学・高校・音楽学校からなる学校コンプレックスで、修道院と同じ996年の創立と伝わっており、ハンガリーはもちろん中央ヨーロッパ最古の歴史を誇る。16世紀のオスマン帝国時代に学校の歴史は途絶えたが、奪還後の1690年に復活。1786年に一旦解散するも、1802年に学校として復帰した。戦後、国に接収された後、1950年に活動を再開し、ハンガリー人民共和国の時代もローマ・カトリックの寄宿学校としてありつづけた。

修道院や関連施設の周辺には公園や植物園・菜園・ハーブ園・ブドウ園などが広がっている。中世の修道院は修道士が修行を行う場であるだけでなく、周囲への宣教はもちろん、土地の開拓や産業の育成を担う機関でもあり、教育・医療・福祉施設としての役割も担っていた。一例がブドウやハーブ・薬草の栽培で、ワインや香料・香辛料・化粧品・薬品を生産することで町おこしも行った。パンノンハルマでよく知られるのが修道院ワイナリーで生産された白ワインやブランデー、ラベンダーから生産されたラベンダーオイルだ。これらは現在、パンノンハルマの名物としても知られている。こうした植物園や農場は修道院施設と伝統的なオークの森とともに美しい文化的景観を形成しており、修道院の美的価値を際立たせている。

■構成資産

パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境

■顕著な普遍的価値

登録基準=人類史的に重要な建造物や景観

パンノンハルマ大修道院とその周辺は特徴的な立地、環境とのつながり、特有の構造、1,000年以上にわたって継続的に使用されたキリスト教ベネディクト会修道院の組織を卓越した方法で表現している。

登録基準=価値ある出来事や伝統関連の遺産

ベネディクト会修道院はその立地と996年という早い創設時期により中央ヨーロッパにおけるキリスト教の普及を示す際立った証拠となっている。ベネディクト会の修道士たちは1,000年もの間、国家や人々の平和を目指して継続的な努力を続け、地域の発展に多大な貢献を行った。

■完全性

資産にはベネディクト会修道院の生活のすべての場が組み込まれており、歴史的な修道院コンプレックスの全体(大修道院の建造物群、修道院付属聖堂、教育施設、聖母礼拝堂、ミレニアム記念碑)と周辺の自然環境(大修道院の植物園、ハーブ園、公園、森林)を包含し、顕著な普遍的価値を示すすべての要素を含んでいる。ただ、全体としての文化的景観が評価されているものの、その特別な立地のため、資産からの眺望、あるいは資産を含んだ眺望は資産の境界線によって部分的にしか保護されていない。

■真正性

建物によっては損傷や破壊、時代やスタイルの変化によって何世紀にもわたって多くの改修を受けてきた。しかし、資産の建造物群は機能を拡張させながらもその連続性を維持しており、歴史的な層が順番に積み重なることで真正性が保証されている。20世紀後半に何段階かで行われた修復・再建作業は近現代の修復における国際基準を満たしており、ブドウ園、受付棟、レストラン、巡礼者棟、ハーブ園に対する最近の建築作業にも当てはまる。修道院の生活は約1,500年前にヌルシアのベネディクトゥス(聖ベネディクトゥス)によって著された『戒律』によって示されており、修道院ではいまなおこうした戒律を守った生活が営まれている。「祈り、働け “Ora et labora!”」という数百年前から続くベネディクト会の修道生活のモットーは現在も生きており、ベネディクト会修道士のもっとも重要な活動のひとつである青少年の指導・教育に活かされている。

■関連サイト

Millenary Benedictine Abbey of Pannonhalma and its Natural Environment(UNESCO)
Pannonhalmi Főapátság

パリ5区「国立中世美術館」通称「クリュニー美術館 (Musée de Cluny)」

国立中世美術館 ― クリュニー浴場および館 (Musée national du Moyen âge – Thermes et Hôtel de Cluny); 略称「国立中世美術館」; 通称「クリュニー美術館 (Musée de Cluny)」) は、パリ5区(カルティエ・ラタン)にある美術館で、中世の絵画、彫刻、宝飾品(金銀細工、象牙細工、琺瑯)、装飾写本、ステンドグラスなどの宗教美術品、タペストリー、家具などの工芸品を所蔵・展示している。

特に6枚の連作タペストリー『貴婦人と一角獣』、『黄金のバラ』、ガロ=ロマン時代の『船乗りの柱(フランス語版)』、柱頭、磔刑像・預言者像などで知られる。

敷地はガロ=ロマン時代に建てられた浴場跡であり(クリュニー浴場)、クリュニー館と呼ばれる建物は13世紀にブルゴーニュのクリュニー修道会の修道院長の別邸として建てられ、15世紀に全面的に修復・改装され、ほぼ現在の形になった。

浴場跡の一部は現在も展示室として使われ、建物外側にある部分はサン・ミシェル通りから見ることができる。常設展・企画展のほか、中世の楽器を使った音楽会なども行われている。

「私の心はヴァイオリンMon cœur est un violon 」は
19世紀のロマン派詩人ジャン・リシュパンJean Richepinの詩に基づいて、1945年に、ミアルカ・ラパルスリーMiarka Laparcerieが作った、いわば文学的シャンソンです。その年にリュシエンヌ・ボワイエLucienne Boyerが創唱。アンドレ・クラヴォーAndré Claveau 、イヴェット・ジローYvette Giraudも歌っていますが。ジャクリーヌ・フランソワJacqueline Françoisがお勧めです。また、ビング・クロスビーBing Crosbyがフランス語で歌っています。

Mon cœur est un violon           私の心はヴァイオリン
Lucienne Boyer                リュシエンヌ・ボワイエ

Mon cœur est un violon
Sur lequel ton archet joue 
Et qui vibre tout du long 
Appuyé contre ta joue
Tantôt l’air est vif et gai 
Comme un refrain de folie
Tantôt le son fatigué
Traîne avec mélancolie

  私の心はヴァイオリン
  その上をあなたの弓が戯れると
  全身で震えるのよ
  あなたの頬にもたれて
  ある時は 調べは生き生きと陽気で
  狂おしいルフランのよう
  またある時は けだるい音色が
  憂愁を伴いながながと響く