モナコ公国

神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世から1191年にこの土地を与えられたジェノヴァ共和国は、1228年に現在のモナコを建設した。

1297年、ギベリン(皇帝派)に占領されていたモナコの要塞に、フランシスコ会の修道士姿に変装し法衣の下に武装して侵入したフランソワ・グリマルディらは、要塞の占拠に成功した。グリマルディは、現在のモナコ公家であるグリマルディ家の始祖である。そのため、グリマルディは、「狡猾な男」とあだ名される。

1419年、グリマルディ家はアラゴン王国からモナコを購入し、正式な支配者となる。

1528年、アンドレア・ドーリアがジェノヴァの貴族層と庶民層の合体を企て、そのために政権を特定の28氏族へ集中させた。グリマルディ家はその一つに数えられた。また、1612年から prince の称号を自称し始めた。オノレ2世の時代にはフランス王ルイ13世の保護下に入ることでスペイン(アラゴン王国の後身)の支配を抜け出し、歴代のモナコ公は独立君主であると同時にフランス王の臣下(ヴァランティノワ公爵)として宮廷で高い地位を占めた。

18 – 19世紀
1793年、フランス革命軍がモナコを占領・併合した。1814年までモナコはフランス第一帝政の直接支配下におかれた。1815年に催されたウィーン会議の結果、モナコはサルデーニャ王国の保護下に入った。サルデーニャはジェノヴァの後継である。

1858年のプロンビエールの密約で、サルデーニャは、イタリア統一運動をフランスに支援してもらう代償として、1860年にはサヴォワ(サヴォワ県とオート=サヴォワ県)とニース伯領(アルプ=マリティーム県)をフランスに割譲する。モナコ公の課す重税に倦み、サルデーニャへの併合を希望するマントンとロクブリュヌは、モナコからの独立を宣言する。

シャルル3世は1861年、フランス・モナコ保護友好条約を締結、領土の95%にあたるマントンとロクブリュヌをフランスに売却し、見返りにモナコ公国の主権を回復した。

20世紀
1911年、憲法を制定したことで立憲君主制となるも、モナコ大公は依然として絶対君主として振る舞い、アルベール1世はすぐに憲法を停止した。第一次世界大戦が勃発すると大公子ルイ(後のルイ2世)はフランス陸軍に志願、軍功をあげ将軍に上り詰めた。

1918年、保護友好条約を再締結、フランスの保護国となった。ヴェルサイユ条約などの第一次世界大戦の講和条約においては、この条約を各国が承認する規定が設けられている。

1922年、ルイ2世が即位する。モナコを文化・観光都市にする試みを続け、モナコ・グランプリの開催、ASモナコの創設などを行った。
第二次世界大戦中の1943年にイタリア軍がモナコを占領し、ファシスト政権を樹立した。ベニート・ムッソリーニの政権が崩壊すると、今度はナチス・ドイツのドイツ国防軍が占領した。ドイツは同地でもユダヤ人の迫害を行った。

ルイが1949年に死去すると、孫のレーニエ3世が即位した。1956年にはハリウッド女優のグレース・ケリーと結婚した。1962年、新憲法を制定した。この憲法で死刑が廃止され、女性参政権が実現し、また最高裁判所が設置された。1993年にモナコは国際連合に加盟した。

21世紀
2005年、レーニエ3世が死去し、息子のアルベール2世が即位した。同年12月、フランス・モナコ友好協力条約を締結した。この条約は、グリマルディ家に跡継ぎがなくなっても公国は将来も存続することをフランスが保証する代わりに、モナコの防衛は今後もフランス軍が行うことを骨子としている。また、モナコの自主的外交における制限が緩和され、外国と国交を結ぶ際のフランスによる事前同意が不要になった。

バルセロナ(Barcelona)

サグラダ・ファミリアは、民間カトリック団体「サン・ホセ教会」が贖罪教会(信者の喜捨により建設する教会)として計画し、初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受けた。1882年3月19日に着工したが、意見の対立から翌年にビリャールは辞任。その後を引き継いで2代目建築家に就任したのが、当時は無名であったアントニ・ガウディである。ガウディは設計を変更したものの既存の計画は踏襲された。

1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。一方、着工時の建築許可が更新されず失効していたことから、2018年にバルセロナ市当局と支払いなどで合意するまで130年以上にわたって違法建築状態が続くこととなる。

ガウディは、模型と、紐と錘を用いた実験道具を主に使ってサグラダ・ファミリアの構造を検討したとされる。ガウディの死後の1936年に始まったスペイン内戦により、ガウディが残した設計図や模型、ガウディの構想に基づき弟子たちが作成した資料のほとんどが散逸した。これによりガウディの構想を完全に実現することが不可能となり、サグラダ・ファミリアの建造を続けるべきかという議論があったが、職人による口伝えや、外観の大まかなデッサンなど残されたわずかな資料を元に、その時代の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードや内陣、身廊などはほぼ完成したがイエスの栄光を表すメインファサード、18本建てられる内の7本の塔が未完成である。これらの塔の12本が12使徒、4本が福音書記者、1本が聖母マリア、1本がイエス・キリストを象徴するものとされている。

東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはリンゴをくわえた蛇が彫刻されている。また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されている。中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られている。左門ではローマ兵による嬰児虐殺、聖家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られている。

西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ピラトと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴、そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されている。

かつては完成まで300年はかかると予想されていた工事だが、スペインの経済成長や拝観料収入などに支えられて進捗は加速している。さらには21世紀に入ってから導入されたITを駆使し、ソフトウェアによる3D構造解析技術と3Dプリンターによるシミュレーション検証、CNC加工機による成果が著しい。2026年の完成予定が現実となれば、1980年代に見込まれた約300年という建築期間はその後の30年で半減し、約144年の工期で完成することになる。他方、創建当初はヨーロッパの教会建築の伝統的な工法である組積造で行われてきたが、現在では礼拝堂内部、塔など多岐にわたってRC造が導入されており、この工法変化を批判する建築家や彫刻家も少なくない。

なお、建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して既存部の修復も行われている。

2006年、直下に高速鉄道AVEのトンネルを掘削する計画が持ち上がり、建設側は地元自治体などにトンネル掘削中止を働きかけたが拒否された。一連のやり取りの中で、サグラダ・ファミリア建設が行政に届け出を出していない工事(正確には1885年に建築許可を受けていたが、許可を出した自治体がバルセロナに吸収合併された際必要な更新がされていなかったという)であることが明らかになり話題を呼んだ。結局は調整が行われ、サグラダ・ファミリアの建築に対してサグラダ・ファミリア特別法を制定し合法化した上で、徹底した地盤強化を行って掘削工事が行われた。2018年10月20日にサグラダ・ファミリア管財当局が3600万ユーロ(日本円にして約46億8000万円)を今後10年かけて支払うことで、バルセロナ市当局より合法的に建築を行えるよう工事許可を得る形で両者が合意したことが発表され、2019年初頭にも建築が「合法化」される見通しとなった。 2019年6月7日、460万ユーロ(日本円にして約5億6400万)を支払うことで137年を経てようやく建築許可が下りた。

万座温泉   パルコール嬬恋リゾート

万座温泉は海抜1,800m。
緑に囲まれた上信越高原国立公園内の中の高山温泉郷で、源泉は硫黄泉で約80度の高温で湧出量は1日に540万リットルに達している。
春は残雪と新緑、夏は避暑、秋は紅葉、そして冬はスキーと一年を通じて四季折々に楽しめる。


昔から、豊富な湯量に恵まれ、源泉は20種類を越え、名湯中の名湯といわれていた。
適応症も多彩で、昔から呼吸器病や胃腸病、リウマチや皮膚病に効能があるといわれ、難病を治したというエピソードも数多く伝わっている。さらに美肌効果も期待でき、女性にも圧倒的な人気を誇っている。

源泉は、姥湯(湯畑)、大苦湯、錫湯、鉄湯、苦湯、ラジウム北光泉、法性の湯などがあり、お風呂を巡りながらさまざまなお湯を楽しむことができる。

白川郷

世界遺産への登録経緯
日本は世界遺産条約を批准した1992年(平成4年)に、10件の文化遺産と2件の自然遺産を世界遺産の暫定リストに掲載した。

「白川郷・五箇山の合掌造り集落」は、そのうちの一つである。1994年(平成6年)9月に推薦書がユネスコの世界遺産センターに提出された。なお、史跡になっていた相倉集落と菅沼集落は、世界遺産登録を見据えて1994年(平成6年)12月に重要伝統的建造物群保存地区として選定された。

日本政府は推薦理由として、日本の木造建築群の中でもきわめて特異な要素、すなわち急勾配の屋根、屋根裏の積極的な産業的活用などを備えていることや、そのような集落が、それを支える伝統的な大家族制などとともに稀少なものになってきており、保護の必要性があることなどを挙げていた。

また、日本では「法隆寺地域の仏教建造物」「古都京都の文化財」に次ぐ3例目のシリアルノミネーションとなったことについては、それが合掌造りの地域的な広がりを示すものであるとともに、地域ごとの差異を示す上でも好適とした。

普通、世界遺産は推薦に当たって国内・国外の類似の物件との比較研究を行う必要があるが、日本政府は木を重んじる文化的伝統を持つ国内でも特殊なものであるとし、ブルーノ・タウトの評価などを引用してはいたが、他の物件との具体的な比較は示さなかった。

この点については、ICOMOSの評価でも最終的には問題とされず、そのまま受け入れられている[38]。なお、ICOMOSの勧告書は、ビューロー会議の時点では白川郷のみの登録を勧告していたが、ビューローで五箇山の登録も認められ、勧告書が修正されたという。

1995年(平成7年)12月の第19回世界遺産委員会(ベルリン)で初めて審議され、世界遺産リストへの登録が認められた。

人が住み続けている村落で世界遺産に登録されたのは、ホッローケー(ハンガリー、1987年)、ヴルコリニェツ(スロバキア、1993年)に続いて3件目だった。