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名古屋ウィメンズマラソン 2025

大会名 名古屋ウィメンズマラソン2025
(英文名:NAGOYA WOMEN’S MARATHON 2025)
兼 ジャパンマラソンチャンピオンシップシリーズ・G1
兼 東京2025世界陸上競技選手権大会 日本代表選手選考競技会
主催 日本陸上競技連盟、中日新聞社
共催 愛知県、名古屋市、名古屋市教育スポーツ協会
主管 愛知陸上競技協会
特別協賛 ゴールドスポンサー:日本特殊陶業
シルバースポンサー:ニューバランス ジャパン
種目 女子マラソン
開催日時 2025 年3 月9 日(日) 9:10 スタート (※日本時間)
コース名古屋ウィメンズマラソンコース
【バンテリンドーム ナゴヤ発着、日本陸上競技連盟、WA/AIMS 公認コース】

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オルトン・グレン・ミラー

(Alton Glenn Miller、1904年3月1日 – 1944年12月15日)はアメリカのジャズミュージシャン(トロンボーン奏者、作曲家、アレンジャー、バンドリーダー)。グレン・ミラー楽団を結成した。

基本情報
出生名Alton Glenn Miller
生誕1904年3月1日
出身地アメリカ合衆国 アイオワ州クラリンダ
死没1944年12月15日(40歳)イギリス海峡上空
ジャンルスウィングジャズ
職業作曲家編曲家
バンドリーダー担当楽器トロンボーン活動期間1923年 – 1944年レーベルブルーバード
ビクター
コロンビア
ブランズウィック

カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン等と共にスウィングジャズ、ビッグ・バンド・ジャズを代表するバンドリーダー、演奏家に挙げられている。

プロフィール

アイオワ州クラリンダ生まれのドイツ系アメリカ人。1915年に家族と移住したミズーリ州グラントシティでトロンボーンを始め、地元のオーケストラで演奏を始める。やがて1923年にコロラド大学ボルダー校に進学するもほとんど行かずに中退、ニューヨークにてプロのトロンボーン奏者として音楽の道に進むが、売れずに目立たない時代が続いた。やがてトミー・ドーシーやベニー・グッドマン、レッド・ニコルズ(英語版)などの音楽家と親交を結び、1937年に自己の楽団「グレン・ミラー楽団」を結成後、1938年にRCA傘下のブルーバード・レコードと契約、翌1939年から「ムーンライト・セレナーデ」「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」「チャタヌーガ・チュー・チュー」など次々とヒット曲を発表し、バンドリーダー、作曲家、編曲家として人気を博した。

ビルボードのジュークボックス・チャートにおいて「イン・ザ・ムード」(12週連続1位、通算13週1位)「タキシード・ジャンクション(英語版)」(9週連続1位)「ウッドペッカー・ソング(英語版)」(5週連続1位)の3曲で26週連続1位(1940年2月10日付〜8月3日付)を達成した。1941年に録音された「チャタヌーガ・チュー・チュー」は、同バンドが出演した映画『銀嶺セレナーデ(英語版)』の主題歌であり、レコードはおよそ120万枚販売された。これを記念して1942年にRCAレコードからゴールドディスクが授与され、これがゴールドディスク第1号とされる。

第二次世界大戦の勃発にともない1942年に陸軍航空軍に入隊、慰問楽団を率いて演奏にまわった。国内外ツアー他、米国慰問協会で演奏した。ミラーは精力的に慰問演奏を続けていたが、大戦末期の1944年12月15日にイギリスからフランスへ慰問演奏に飛び立った後、乗っていた専用機(UC-64)がイギリス海峡上で消息を絶った(最終階級は少佐)。原因として、ドイツへの爆撃から帰還する途中のイギリス空軍の爆撃機が上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落したとする説の他、イギリス軍機の誤射で撃墜されたとする説などがある。2014年に『シカゴ・トリビューン』は、消息を絶った原因として、乗機のUC-64に特有の故障によるものとする説を挙げた。それによるとミラーの搭乗したタイプのUC-64は、エンジンのキャブレターに欠陥があり、冬期に凍結することにより故障し、墜落する事例が他にも複数発生していたという。また、前述の爆撃機が投棄した爆弾が命中したという説は、当時の飛行記録によるとミラーの乗機と同時期に航路を飛んでいた航空機や付近で爆弾を投棄したという記述がないことから可能性が低いともしている。

行方不明後も残された楽団員がリーダーとなり、グレン・ミラー・オーケストラ(英語版)として、現在まで世界各地で活動している。

主な演奏曲編集
ムーンライト・セレナーデ(Moonlight Serenade)
イン・ザ・ムード(In The Mood)
アメリカン・パトロール(American Patrol) – 編曲
チャタヌーガ・チュー・チュー(Chattanooga Choo Choo) – 世界初のゴールドディスク授与曲
タキシード・ジャンクション(英語版)(Tuxedo Junction)
茶色の小瓶(Little Brown Jug)
真珠の首飾り(英語版)(String of Pearls)
ペンシルベニア6-5000(英語版)(Pennsylvania 6-5000)
虹の彼方に(Over The Rainbow)
ムーンライト・カクテル(英語版)(moonlight cocktail)
カラマズーの娘(英語版)(I’ve got a Gal in Kalamazoo)

萬松寺

萬松寺は、愛知県名古屋市中区大須にある単立の寺院。

織田信秀の葬儀の際に嫡男の織田信長が位牌に抹香を投げつけた事件は、大須に移る前の萬松寺が舞台である。

徳川家康は6歳で証人(人質)として今川義元の元に送られる途中で信秀に引き渡され、この寺で9歳まで過ごしたと伝わる。

山号は亀嶽林。本尊は十一面観世音菩薩。織田信長や徳川家康をはじめとする戦国武将との縁が深く、名古屋の歴史的観光名所にもなっている。

天文9年(1540年)、織田信秀により織田氏の菩提寺として那古野城の南側に建立された。開山には信秀の叔父にあたる雲興寺第8世・大雲永瑞和尚が迎えられた。当時は現在の中区錦と丸の内2丁目・3丁目にまたがる広大な寺領を持っていたが、慶長15年(1610年)、名古屋城を築く際に小林邑(現在の大須3丁目)に移建した。

移転後も尾張徳川家朱印寺として篤く信仰され、慶安4年(1651年)には徳川義直室高原院(亜相源敬公大夫人)の御霊屋(霊廟)を建立している。

1904年(明治37年)、シャム国から日本に分骨された仏舎利が覚王山日泰寺に運ばれた際には、萬松寺から行列が出発している。

1912年(大正元年)に第37世大円覚典和尚が寺領の山林の大部分を開放することを決断する。こうして開拓された町は現在の大須3丁目となり、萬松寺は再び賑わいを取り戻すこととなった。

1914年(大正3年)、高原院御霊屋は尾張徳川家の菩提寺である建中寺へ移築される。この御霊屋は1954年(昭和29年)に名古屋東照宮に移築されてその本殿となっている。

しかし、1945年(昭和20年)3月12日の名古屋大空襲で当寺は全焼し、大須も焦土と化した。

戦後、不動堂と稲荷堂は再建できたが、長らく本堂は再建されることはなかった。しかし、1994年(平成6年)4月、ついに本堂が地下1階、地上5階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造の建築物として再建された。

大須一帯の大地主でもあり、万松寺ビルなどを保有している。2016年(平成28年)曹洞宗との被包括関係を廃止して単立寺院となった。

2017年(平成29年)には、2015年(平成27年)から行われていた不動堂および稲荷堂の建て替え工事が完了し、新諸堂「白龍館」としてオープンした。

下茶屋公園

下茶屋公園は旧東本願寺別院・新御殿の後庭があった場所で、今でも綺麗に整備されている。江戸後期の庭園様式として大変貴重と言われる。

雪見灯篭などの歴史物がありながら、自然もたくさんあるので訪れるだけで日常を忘れられそうです。季節ごとに桜や紫陽花、紅葉など様々な景色が楽しめる。

名古屋大須 矢場地蔵 小林城址

小林城は牧下野守長義(義清)の子、牧若狭守長清の居城。長清は織田信長の妹で「お市の方」の姉にあたる「おとくの方」を正室に迎えたことで知られている。1570年(元亀元年)に長清が没すると廃城となり、その後、江戸時代には尾張藩2代藩主・徳川光友(光義)の剣術指南役をつとめた柳生兵庫助利厳の屋敷となった。現在城址には1701年(元禄14年)に建立された清浄寺が残っており、名古屋城から移されたとされる矢場地蔵のほか、牧長義夫妻、牧長清夫妻の墓がある。