江戸時代末期に在位した第121代天皇、孝明天皇【天保2年6月14日(1831年7月11日) – 慶応2年12月25日(1867年1月30日)】は明治天皇の父に当たり、一世一元の制制定前の最後の天皇である。
公武合体の維持を望む天皇は、京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かった。しかし、その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続け、やがて、天皇の考えに批判的な人々から、天皇に対する批判が噴出するように なる。
慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして崩御(満35歳没)、死因は天然痘と診断されたが、他殺説も存在し議論となっている。
天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことや、幼少の睦仁親王が即位し、それまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復権していった状況などから、その死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
その後、明治維新を経て、皇国史観が形成され皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印されたが、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。
また昭和15年(1940年)、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が、「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表。
1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について学界において毒殺説、これが多数説ともいうべき勢力を保っていた。
毒殺説に対する反論として、平成元年(1989年)から同2年(1990年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清がこれを真っ向から覆す2つの論文を発表する。
これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。
ただし原口説には、天皇の痘瘡感染経路についての言及が見られないなど検証不十分な点も存在する。
近年、井沢元彦は著書『逆説の日本史』において、意図的に天皇を痘瘡に感染させた「細菌テロ」という説を唱えている。
当時は種痘の普及がはじまっており、それを拒否していたのは頑迷な攘夷論者、外国嫌いである事から、宮中に痘瘡の病原菌保持者を出入りさせれば、孝明天皇はじめ攘夷論者のみ感染する。
痘瘡の発症により死に至らなくても、政治の表舞台から遠ざかれば目的は達成できた、としている。
なお、これらいずれの説も裏付けとなる一次史料が皆無であり、珍説の類として扱われ学術的な評価の対象とはなっていない。