明治時代の日本の水彩画家、大下 藤次郎(明治3年7月9日(1870年8月5日) – 明治44年(1911年)10月10日)は、日本各地の風景を描きながら水彩の教育普及活動にも取り組み、「水彩画のパイオニア」(美術館サイトより)としての地位を確立した。
1870年 東京で、旅人宿・馬宿・馬車問屋を営む家に生まれる。最初期は外国人向けの横浜写真を参照しながら水彩を始める。19歳のころ、家業を手伝うかたわら美術界へ進むことを決意。1891年より中丸精十郎に,94年から原田直次郎に師事。
1898年、半年ほどオーストラリアへ写生旅行にゆく。
1902年渡米し,翌年帰国。外光派の水彩画を確立し、水彩画研究団体の春鳥会を創立,05年絵画雑誌『みづゑ』を発刊して水彩画の普及に努めた。
1907年 日本水彩画研究所を設立し、第一回文展に『穂高山の麓』を出品。
1909年 甲州・白峰山(南アルプス北岳)をめざした山旅に出る。この山旅から紀行文『白峰の麓』と水彩画「西山峠」(島根県立石見美術館所蔵)が生まれた。
1911年 瀬戸内などを旅した末、突然の病に倒れ、死去。