歌川広重による日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作『六十余州名所図会』。1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけて制作された広重晩年の作。
五畿七道の68ヶ国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる。画面は縦長で、前景を大きく描き遠近を協調したり、大胆なトリミングを施すなど、斬新な構図。
歌川広重による日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作『六十余州名所図会』。1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけて制作された広重晩年の作。
五畿七道の68ヶ国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる。画面は縦長で、前景を大きく描き遠近を協調したり、大胆なトリミングを施すなど、斬新な構図。
マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp、1887年7月28日 – 1968年10月2日)は、フランス生まれの美術家で20世紀美術に決定的な影響を残す。デュシャンが他の巨匠たちと異なるのは、30歳代半ば以降の後半生にはほとんど作品らしい作品を残していない。
画家として出発し、「絵画」らしい作品を描いていたのは1912年頃までで油彩画の制作は1910年代前半に放棄する。チェスの名手としても知られた。ニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ、コンセプチュアル・アート、オプ・アートなど現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけた。
油絵を放棄した後、「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表し、1917年には「ニューヨーク・アンデパンダン展」における『噴水(泉(男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした作品))』が物議を醸した。
その後、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という通称「大ガラス」と呼ばれるガラスを支持体とした作品の制作を未完のまま1923年に放棄し、ほとんど「芸術家」らしい仕事をせずチェスに没頭していた。彼のこうした姿勢の根底には、芸術そのものへの懐疑がある。墓碑銘に刻まれた「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉も有名で、寺山修司が好んだとされる。
前田寛治 (1896年10月1日 – 1930年4月16日)は、社会意織の強い独自の写実主義、人物写実画の名手として知られ、33歳という若さで早逝、10年に満たない短い活動期間であった。
古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が、「前寛ばり」という流行語を生むなど当時の芸術家に多大な影響を与えた。
鳥取県に生まれ倉吉中学校を卒業後、上京して葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の指導を受ける。1921年(大正10)東京美術学校西洋学科を卒業、帝展に出品し、翌年フランスへ留学する。クールベのレアリスムに傾倒し、福本和夫から唯物史観の感化を受け、社会意織の強い独自の写実主義を目ざす。
25年帰国して第6回帝展に『J・C嬢の像』を出品し、特選となる。翌年同志とともに「一九三〇年協会」を創立、本郷・湯島の自由画室に写実研究所を開設する。質感、量感、実在感を絵画の写実的要件としたが、作風はしだいにフォーブ的な主観表現へと向かう。29年(昭和4)に審査員として出品した『海』は帝国美術院賞を受ける。ほかに代表作として『二人の労働者』、『裸体』など。
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes、1746年3月30日 – 1828年4月16日)は、ディエゴ・ベラスケスとともにスペイン最大の画家で、ベラスケス同様、宮廷画家として重きをなした。
1746年、スペイン北東部サラゴサ近郊のフエンデトードスに生まれる。父親は鍍金師、芸術を愛好する気風の中で育ち、14歳の時から約4年間、サラゴサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。1770年、大画家を目指してイタリアのローマに出て、イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学び、パレルモ・アカデミーから奨励賞を受ける。
1771年(25歳)帰国した。1772年サラゴザのピラール聖母教会から大聖堂の天井装飾の注文も受ける。1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤだが、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。
今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』(en:Charles IV of Spain and His Family)、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』(en:The Colossus (painting))などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたもの。1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争のさなかにあった。こうした動乱の時期に描かれたのが『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』などの作品群である。
代表作
我が子を食らうサトゥルヌス 「黒い絵」の代表作
着衣のマハ(1797年-1803年頃、プラド美術館蔵)
裸のマハ(1797年-1800年頃、プラド美術館蔵)
日本にあるゴヤの油彩画
東京富士美術館
『ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル』
三重県立美術館
『アルベルト・フォラステールの肖像』
ゴヤの版画
国立西洋美術館、町田市立国際版画美術館、神奈川県立近代美術館、姫路市立美術館、長崎県美術館などが所蔵する。
大塚国際美術館では、ゴヤの「聾者の家」を当時そのままの配置で再現している。
タペストリーは6枚からなる連作で、制作年や場所の詳細は不明だが、パリで下絵が描かれ、15世紀末(1484年から1500年頃)のフランドルで織られたものとみられている。1841年、歴史記念物監督官で小説家でもあったプロスペル・メリメがクルーズ県にあるブーサック城(Château de Boussac)で発見した。
タペストリーは保存状態が悪く傷んでいたが、小説家ジョルジュ・サンドが『ジャンヌ』(1844年)の作中で、このタペストリーを賛美したことで世の関心を集めることとなった。1882年、この連作はクリュニー美術館(中世美術館)に移され、現在に至っている。
六つのタペストリーには、それぞれ若い貴婦人がユニコーンとともにいる場面が描かれる。ほかに獅子や猿もともに描かれているものもある。背景は千花模様(ミル・フルール、複雑な花や植物が一面にあしらわれた模様)が描かれる。
赤い地に草花やウサギ・鳥などの小動物が一面に広がって小宇宙を形作っており、ミル・フルールによるタペストリーの代表的な作例となっている。タペストリーは六つの感覚、「味覚」、「聴覚」、「視覚」、「嗅覚」、「触覚」、そして「我が唯一つの望み」(A mon seul désir)をテーマとして示したものとされる。
「我が唯一つの望み」は、普通「愛」や「理解」と解釈されることが多い。タペストリーに描かれた旗、ユニコーンや獅子が身に着けている盾には、フランス王シャルル7世の宮廷の有力者で、リヨン出身のジャン・ル・ヴィスト(Jean Le Viste)の紋章(三つの三日月)がある。このため、彼がこのタペストリーを作らせた人物ではないかと見られている。
セザンヌは印象派ではあるが、自然そのままの情景を描いていたわけではない。自然の中に幾何学を見つけ出しその表現を追求し、セザンヌが得意とした絵画である静物画においては独特の手法を取り入れている。
西洋美術の伝統的な約束事にしばられず、色彩とボリュームからなる独自の秩序をもつ絵画を探求しつづけた。セザンヌの絵画には、部分的にあえて絵の具が塗られていないものがある。これは未完成の状態ではなく、完成させるために色を塗っていない部分が必要だった。これ以上色をつけても意味がないと判断したり、どの色を塗っても全体の考え抜かれた色彩のバランスが壊れてしまう場合など、セザンヌは色を塗らなかったという。
40歳代、画面全体を規則的な筆致で再構成するようになる。さらに後年、キャンバスのぬり残しで光を表したり、薄い色面を重ねた画面構成を行うようになる。セザンヌのこうした技法は、ピカソやブラックがキュビスムを生むための重要な要素となる。
ポール・セザンヌは言う・・・自然の背後に何があるのか何もないかもしれないし全てがあるかもしれない余白とは無である、だがそこには全てがある・・・
セザンヌの絵画には、部分的にあえて絵の具が塗られていないものがある。
これは未完成の状態ではなく、完成させるために色を塗っていない部分が必要だった。
これ以上色をつけても意味がないと判断したり、どの色を塗っても全体の考え抜かれた色彩のバランスが壊れてしまう場合など、セザンヌは色を塗らなかったという。
40歳代、画面全体を規則的な筆致で再構成するようになる。
さらに後年、キャンバスのぬり残しで光を表したり、薄い色面を重ねた画面構成を行うようになる。
セザンヌのこうした技法は、ピカソやブラックがキュビスムを生むための重要な要素となる。
マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887年7月7日 – 1985年3月28日)は20世紀のロシア(現ベラルーシ)出身のフランスの画家、毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。
特にピカソに対しては極めて辛辣な評価を下している。1910年パリに赴き、5年間の滞在の後、故郷へ戻る。この時代の作品にはキュビスムの影響が見られる。10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活する。
ロシア時代のシャガールはロシア・アヴァンギャルドに参加し、構成主義の影響の濃い作品、デザイン的作品を制作した。1922年、故郷に見切りをつけ、ベルリンを経由し、1923年にはふたたびパリへ戻り、その後作品は「愛」の方への傾斜が認められる。
1950年、南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローは、オペラ座の天井画をシャガールに依頼し、1964年に完成している。1973年、86歳の誕生日に、ニース市に「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」(現国立マルク・シャガール美術館)が開館した。1966年から20年近く暮らした、ニースに近いサン=ポール=ド=ヴァンスの墓地に眠る。
代表作I and the Village(1911年) ニューヨーク近代美術館七本指の自画像(1912年 – 1913年) アムステルダム市立美術館誕生日(1915年) ニューヨーク近代美術館Green Violinist(1923年) グッゲンハイム美術館青いサーカス(1950年) ポンピドゥー・センターイカルスの墜落(1974年) ポンピドゥー・センターAmerica Windows(1977年) シカゴ美術館バレエ『アレコ』(1942年) 舞台背景画 第1、2、4幕 青森県立美術館バレエ『アレコ』(1942年) 舞台背景画 第3幕 フィラデルフィア美術館イスラエル十二部族(1962年) ステンドグラス エルサレムの病院のシナゴーグ(礼拝堂)を飾る
世田谷美術館は東京都世田谷区の砧公園にあり1986年(昭和61年)3月30日開館、延床面積は8,223m²、建築面積4,882m²の鉄筋コンクリート造。建築家内井昭蔵の作品で、地下1階・地上2階で、公園の背の高い木々に埋まるように有機的な平面形状で展開される。この世田谷美術館1階展示室で、2016年2月13日~4月10日、西洋服飾史研究家・石山彰氏(1918-2011)のコレクションを中心に、16世紀から20世紀初頭にかけてのファッション・ブックとファッション・プレート、および服飾史研究書や明治時代の錦絵が紹介された。
展示の構成
第1章 ファッション史の始まり 16, 17, 18世紀の文献とファッション・プレート
16世紀後半、ファッション史の創成期には服装を描いた版画集に簡単な説明文を付けた本が出版されるようになる。ジャン=ジャック・ボワサールの『諸国民の服装』や、彩色されるようになったロココ時代末期(18世紀末)の『ギャルリー・デ・モード・エ・コスチューム・フランセ』。
第2章 ファッション・ブックの黎明期 革命期から1820年代まで
18世紀末のフランス革命勃発後、装いは貴族的なスタイルから軽やかなものへ変化する。情報発信の手段ともいえるファッション・ブックが誕生した。
第3章 ファッション・ブックの全盛期 1830年代から19世紀末まで
ファッション・ブックのサイズは大きくなり、人物だけでなく背景も詳しく描かれるようになる。
女性ファッションのシルエットは19世紀の間に5回大きく変化し、巨大化したスカートが特徴のクリノリン・スタイルやバスル・スタイルが流行した。
第4章 ファッション史研究の確立 19世紀のファッション史・民族服文献
16~18世紀の文献の復刻が相次ぎ、ファッション研究は舞台衣装や歴史学・民俗学的視点からも注目されるようになる。異国の衣装を描いた衣装図集『ギリシャの民族衣装』や、クリノリンの形の異様さを描写した風刺的な挿絵も展示される。
第5章 ポショワールのファッション・ブックと挿絵本
第一次世界大戦前、女性のファッションは解放されたスタイルへと変化してゆく。ジョルジュ・バルビエなどのイラストレーターによるファッション・プレートには浮世絵に影響を受けた技法が取り入れられ、鮮やかな色彩が実現した。手作りの版画を用いたファッション・ブックは芸術性を追求。
第6章 洋装化日本のファッション・プレート 楊州周延の錦絵を中心に
日本がヨーロッパの装いを取り入れようとした時代で、錦絵を代表する絵師の1人、楊州周延は文明開化が広まった19世紀後半、洋装姿の女性達を描く。
国吉康雄 (1889年9月1日 – 1953年5月14日)は、岡山県出身の20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した洋画家。2015年ワシントンにあるスミソニアン美術館で、5か月におよぶ大回顧展が開かれ注目を集める。もの憂げな表情が印象的な代表作「もの思う女」は、世界恐慌に揺れる混乱のニューヨークで描かれた。
はかなげだが強い意志を秘めたその女性は、不安を抱えて生きる人々の心をつかんで離さなかった。1920年代から活発に作品を発表し始め、茶色を基調としながら、平面的で幻想的な画面のなかに、人物や動物が素朴な表情で描かれる。人種差別、太平洋戦争、戦後のいわゆる赤狩り、次々に押し寄せる苦難の中で、国吉は傑作を残す。
国吉康雄年譜
1889
岡山市中出石町に国吉宇吉、以豊の長男(一人子)として生まれる。
1896
岡山市弘西尋常小学校(4年制)に入学、卒業後内山下高等小学校(4年制)に進学。
小説家・随筆家である内田百閒と同級。
1904
岡山県立工業学校染織科に入学。日露戦争起こる。
1906
岡山県立工業学校を退学し、渡米。様々な肉体労働を重ねながら英語を学ぶ。
1910
飛行家を志し一時訓練を受けるが断念し、画家を志しニューヨークに移る。雑役労働に追われながらも美術学校を転々とし、断続的に勉強を続ける。
1914
インディペンデント・スクール・オブ・アーツに入学、2年聞学びヨーロッパ美術の新しい傾向に触れる。
1916
アート・ステューデンツ・リーグでケネス・ヘイズ・ミラーに師事。
1917
独立美術家協会第一回展に出品。前衛的な画家集団ペンギン・クラブに加わる。
1918
アメリカ現代美術のパトロン、ハミルトン・イースター・フィールドの援助を受ける。
1919
キャサリン・シュミットと結婚。生計を立てるため写真家としても働く。
1921
ニューヨークのダニエル画廊と契約。以後10年間、国吉は同画廊で作品を発表する。
1924
移民制限法が制定され、以後日本人の米国への移民は全くできなくなる。
1925
妻とともに渡欧。
1928
妻とともに再渡欧、石版リトグラフを制作。対象から直接描く方法へ転換。
1929
パスキンと交友するも、ニューヨークに戻る。ニューヨーク近代美術館の「19人の現代アメリカ作家展」の出品作家に選ばれ、アメリカ画壇での地位を確立。ウォール街の株価大暴落、大恐慌始る。
1931
病気の父を見舞うため日本へ帰る。岡山、東京、大阪で個展を開催。満州事変起こる。
1932
日本から帰国。キャサリンと離婚。
1933
アート・ステューデンツ・リーグの教授に就任、亡くなるまで20年間、この識にあった。
1935
サラ・メゾと結婚。35ミリ判ライカ・カメラを購入。
1936
アメリカ美術家会議が結成され重要なメンバーとして活動。
1939
進歩的美術家による非公式の協会「アン・アメリカン・グループ」の会長に選ばれる。第二次世界大戦勃発。
1941
大平洋戦争勃発、国吉の身分は「外国人居住者」から敵性外国人」となり、行動の自由を一時束縛される。西海岸の日系人は強制収容所に隔離される。
1942
日本に向けての戦争終結を呼びかける短波無線放送の原稿を書く。
1944
「合衆国の絵画1944」で≪110号室≫が一等賞を受賞。
1947
芸術家組合の初代会長に就任、1951年まで勤める。
1948
ウィットニー美術館で≪国吉康雄回顧展≫が開催される。
1952
ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選出される。
1953
移民帰化法が議会を通過し、アメリカ市民権を得ることがてきるようになったが、市民権を得る直前の5月14日に胃癌のため死去。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月28日 – 1610年7月18日)は、バロック期のイタリア人画家で、ルネサンス期の後に登場し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られる。
映像のように人間の姿を写実的に描く手法、光と陰の明暗を明確に分ける表現はバロック絵画の形成に大きな影響を与えた近代写実主義の先駆をなし、レンブラント、ベラスケス、フェルメールら17世紀のほとんどすべての芸術家に大きな影響を与えた。
カラヴァッジョは、父親が宮廷に使えていたため子供の頃は裕福に育ったようだ。父親の死後は遺産を食い潰した後、辛酸をなめながらも絵を描き、それを売ったお金が入ると放蕩三昧の繰り返す。後に枢機卿の庇護を受け宮殿に住まいするようになっても放蕩辟はおさまらない。
当時のキリスト教の支配のあり方が独断的で偏っていた、と感じたのか、あるいは罪もない人が処刑されるのを目の当たりにして苦悶したのか、青年時代にマルタ騎士団の騎士にもらった刀をいつも携え、刃傷事件を何度か起こす。
ある女性の名誉を守るため決闘をして相手を殺すが、絞首刑を逃れるべくローマをあとにした。コロンナ家の庇護のもとにマルタ島に渡る。その才能がマルタ騎士団でも認められ教皇から騎士になることを認可されるが、ここでも問題を起こし、シチリアへさらにはナポリへと逃れることとなる。
コロンナ家をはじめ多くの枢機卿たちが彼の罷免を教皇に嘆願し続ける。それは、彼が人並みはずれた天才だったということ、うそをつけない怯えた少年のイメージを持っていたことによるのかもしれない。ローマに帰るべく船に乗り、ローマの北160キロのエルコレ港にたどり着くも、患っていたマラリア病で熱にうなされながら浜辺をさまよい人知れず なくなった。享年38歳