日本ライン
岐阜県美濃加茂市から愛知県犬山市にかけての木曽川沿岸の峡谷の別称で、全長13km、渓流の美しさを味わいながら、約1時間半の川下り遊覧ができる。
風景がヨーロッパ中部を流れるライン川に似ていることから志賀重昂によって命名された。
志賀重昂
明治大正期の思想家,政治家,地理学者。政界を離れてからは、啓蒙的地理学者,世界旅行家として活動。
日本人の景観美の意識変革に大きな役割を果たしたとされ、著書『日本風景論』版を重ねベストセラーとなる。https://www.youtube.com/embed/PRm5FtGkyrY?feature=oembed
『日本書紀』には、神武天皇の条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことの記載がある。
『古事記』にも、鵜養のことを歌った歌謡があり、天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある。
中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条によると、『以小環挂項令入水捕魚日得百餘頭』(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と記されている。
延喜年間(901年 – 923年)、長良川河畔に7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁は7戸の鵜飼にアユを献上させた。
時の天皇の気に入り、方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料としてたまわり、鵜飼七郷とよんだ。
平治の乱で敗走する源頼朝は長良川河畔で、鵜飼の長である白明の家にやどり、そこで食した鮎すしの美味に飢えをいやした。
建久3年(1192年)右大将として上洛するさい、白明の子をよびだして恩に報い、また毎年鮎すしを鎌倉に送るよう命じた。
『和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。
文明年間(1469年 – 1486年)、一条兼良が美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録がある。
永禄7年(1564年)、織田信長は長良川の鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称をさずけた、鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵あて給与した。
鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかないので、鵜飼鮎は献上品として珍重され、安土桃山時代以降は幕府および各地の大名によって鵜飼は保護された。
鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わることでもあった。
元和元年(1615年)徳川家康が鵜飼を見物して以来、江戸城に毎年アユを献上するのが例となり、鵜匠21戸に戸ごとに10両の扶持を給せられた。
献上の際には老中の三判証文をもって継立て、江戸まで2昼夜で送致した。
その後は鵜飼は衰退し、文化2年(1805年)には12戸となるがその12戸に毎年120石、532両2分を給与するとして、ふたたび回復した。
明治維新で一時衰退したが、明治天皇の代に沙汰があり、大膳職に上納される。
明治23年(1890年)から稲葉郡長良村古津その他武儀郡、郡上郡の各村で延長1471間が宮内省の鮎漁の御猟場に編入された。
鵜飼は漁獲効率のよい漁法ではないこともあり、明治維新後は大名等の後援を失った鵜飼は減少して、現在は数えるまでにその規模を縮小した。
鵜飼いが行われている地方
山梨県笛吹市(笛吹川)
石和鵜飼
岐阜県岐阜市(長良川) 宮内庁式部職鵜匠による鵜飼
長良川鵜飼
岐阜県関市(長良川) 宮内庁式部職鵜匠による鵜飼
小瀬鵜飼
愛知県犬山市(木曽川)
木曽川うかい
京都府宇治市(宇治川)
京都府京都市(大堰川)
和歌山県有田市(有田川)
広島県三次市(馬洗川)
— 通常の黒いウミウに混じって白いウを使う。これは近年、姉妹都市の中国四川省雅安市から送られたものである。
島根県益田市(高津川)
山口県岩国市(錦川)
愛媛県大洲市(肱川)
大分県日田市(三隈川)安土桃山時代に宮城豊盛が長良川の鵜匠を招き、日田地方に鵜飼を定着させたと伝えられている。
福岡県朝倉市(筑後川)7世紀の『隋書』「倭国伝」に九州北部の鵜飼について記されている。17世紀前半までは徒鵜(かちう)が行われていた。