名古屋大須 三輪神社

「富士山型」から、「釣り鐘型」を経て、「壺型」に

2022年の日本の出生数は前年比▲5.1%減で、77万人前後の見通しだそうですね。


16年以降、出生数は年率▲3.5%のペースで減少していましたが、22年はそれを上回ることになります。

少子化ペースが加速しているのは、婚姻数の急減もあるのですが、結婚と、子どもを持つことを切り離して考える、という傾向、あるいは「一生結婚するつもりはない」、との意向の方など、経済、時代的な影響もあるのでしょうね。

100年前の1920年の人口ピラミッドは「富士山型」でした、コレが、40年前、1980年頃には子供の数は減り始めましたが、まだ高齢者の寿命が短く、頂上がとがった形の「釣り鐘型」、そして、2020年、日本の人口ピラミッドは典型的な「壺型」になります。

少子化の進展が懸念される中、20、21年は出産期にあたる年齢層の女性が相対的に増加してわずかながら出生数押し上げたようです。と言うのも、出生数が120万人ほどあった1990年代生まれの世代が出産期に差し掛かったことで今後10年程度は若返りが続く見通しのようです。
この10年、少子化対策の最後のチャンス、かもしれません。

さて、名古屋の観光名所の一つである「大須商店街」、その一角、縁結びの神様が鎮座すると言われている「三輪神社」です。奈良県の「大神神社」から神様をお迎えし、1570年の創建です。わいらしい御朱印を目当てに訪れる女性、縁結び祈願で訪れる方、など、小さな神社ですが、連日多くの方が参拝に訪れます。

鳥居は三輪鳥居あるいは三ツ鳥居と呼ばれ、明神鳥居(笠木と島木の両端がそりあがり曲線になっている)の両脇に鳥居を持つという珍しい作りです。
三つの鳥居を正式な通り方、八の字回りで通れば、御利益は3倍、だそうです w

憂き我をさびしがらせよ閑古鳥


もう12月、年末の景色も、昔とは大違い

コロナ禍の影響もあるが

なんと言っても長く続く不況の影響が大きいのか


東京や大阪の夜の街では、徐々に人が戻りはじめ

経済活動再開の兆しが見えてきている、とか

未だに賑わいが戻ってこないといわれている愛知県

「Go Toキャンペーン」は、名古屋に関しては効果が薄そう

愛知県の県民性として言われている、慎重、保守的

夜の街から人々を遠ざけている一因、かも


名古屋のホストクラブのお兄さんたちもヒマそう

かつては、星座の名前を冠したクラブ

オリオン、カシオペアなんて、聞いたことありそうだが

閑散として看板だけが虚しく輝き、閑古鳥の鳴き声だけ

一方、最近カラスは減ってきた

まあ、閑古鳥にエサは食べられてしまいましたから w


ところでこの「閑古鳥」、「かっこう」の別名で

「閑古鳥」「呼子鳥」はともに郭公の異名

「閑古鳥」は鳴く声の寂しさに重きを置いた名である、とか


憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉   

元禄四年(一六九一)四十八歳の作

季節は、夏


閑古鳥の鳴く、名古屋 栄界隈の冬の様子

大須観音 人形供養

大須観音では、人形供養は一年に一度、10月第1木曜日に行われる

日本三大観音の1つともいわれる観音霊場、なごや七福神の一である布袋像を安置する。寺内に、『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」がある。

醍醐寺、根来寺と共に日本三経蔵の1つ。仁和寺、根来寺と共に本朝三文庫の1つと称される。15,000冊もの古典籍を所蔵し、書誌学の世界では真福寺本、大須本という。国宝の『古事記』は「真福寺本古事記」として知られ、同書の現存最古の写本である。

建久年間(1190年 – 1199年)に建立された尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市桑原町大須)にあった中島観音が発祥であるという。

元亨4年(1324年)、後醍醐天皇によりその地に北野天満宮が創建される。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺とその塔頭宝生院が当寺の始まりである。

摂津国四天王寺の観世音菩薩を移して本尊としたとする。その後、後村上天皇により伽藍が建立され、勅願寺となっている。3代目住職である任瑜法親王の時には寺領1万石となり、伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃6か国の真言宗寺院を末寺としている。

戦国時代には、織田信長により寺領500石が寄進されている。慶長17年(1612年)、徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正成によって宝生院は本尊や真福寺文庫と共に大須郷から現在地に移転する。

文化12年(1815年)には五重塔が建立され、空海が彫った愛染明王像が五重塔内に安置された。1892年(明治25年)3月21日には、境内にあった宝生座(芝居小屋)裏手からの出火(大須の大火)により本堂、五重塔と仁王門を焼失した。

同年4月には大須の大火で焼失した本堂、五重塔、仁王門を再建する為、「再建寄附金帳」という帳が書かれた。帳の内容には再建のために本堂、五重塔、仁王門の建地割図(設計図)が描かれ、本堂、五重塔、仁王門に関する再建内容が5丁で記されていた。大須大火後に本堂と仁王門は再建されたが、五重塔は再建されなかった。

太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲で2度目の焼失。戦後の1949年(昭和24年)に仮の本堂と仁王門が建てられ、大須の人達や関係者から大須のシンボルである大須観音の早期の正式な本堂の再建が期待された。しかし、資金難で再建が大幅に遅れ、1970年(昭和45年)に鉄筋コンクリートで再建し現在に至る。また、当初の再建計画では回廊や五重塔も建設予定であったが、建設資金として当てにしていた浄財がなかなか集まらず、建設は中止された。

以後、五重塔などの再建は現在にいたるまで立ち消えた状態である。戦前まで大須観音以上に大須で大いに栄えて賑わっていた寺は、七堂伽藍で有名であった七寺であった。大須観音も七寺も空襲で焼失するが、戦後、七寺の七堂伽藍は再建の期待はあったものの再建されることはなく、現在では大須観音が栄え、大須のシンボル的な寺院となっている。

弥富野鳥園

「野鳥の保護、調査、観察等を通じて、野鳥の保護思想の普及啓発を図る」ことを目的として、渡り鳥など野鳥が多く見られる鍋田干拓地の一角に造成され、1975年(昭和50年)5月に開園した。

約36ヘクタールの園地の内、約33ヘクタールを保護地(通常は一般来園者立入禁止)として草原や林、池や水路などを設けると共に約3ヘクタールを小公園として整備し、観察施設を兼ねた本館を置いている。

本館は鉄筋コンクリート3階建てで、2階にはパネルや写真を展示する展示室と剥製を陳列する資料室があり、3階には6台の双眼望遠鏡を備えた展望室を設置している。

また、探鳥会をはじめとする各種のイベント(公式サイトを参照)を開催しており、土・日・祝日には日本野鳥の会の観察指導員が来園して野鳥観察のアドバイスなどを行なっている。

園地内では開園以降200種を越える野鳥が観察されているほか、野性化したヌートリアが確認されている。

ヌートリアとは?

ヌートリアは、ネズミ目ヌートリア科ヌートリア属の動物で、南アメリカが原産です。見た目はネズミですが、頭胴長が(しっぽを除いた頭からお尻までの長さ)40 – 60 cm、体重が5 – 9 kgほどもあるので、かなり目立つ生き物です。生後5・6ヶ月頃には性成熟し、年二回、平均5頭の子供を生みます。かなり繁殖力の高い生き物です。寒さには、それほど強くないといわれており、冬期に河川が凍結するような地域では生存できません。冬期には、長い尻尾が凍ることによって弱ったり、流産することが知られています。

納屋橋

納屋橋

堀川七橋の一つ。笹島に名古屋停車場ができた明治19年に広小路が駅前通りとして西に延長され脚光を浴び、大正2年青銅鋳鉄の欄干を持つ橋に架けられました。
現在の橋は、昭和56年に架け替えられたもので、アーチ形状を残した外観となっています。

堀川の開削奉行をつとめた福島正則の功績をたたえて、歩道の半円形の展望部の高欄中央部に家紋の中貫十文字が、また、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑の家紋も高欄に飾られています。

1886年(明治19年)に広小路通が名古屋駅前まで延伸された事と共に鉄骨製の橋に改修され、1898年(明治31年)からは名古屋市電栄町線が橋上を走るようになった。その後、1913年(大正2年)に橋が改築された際には竣工に合わせて渡り初めが行なわれ、その様子を見ようと6万人あまりが訪れたという。この際に渡り初めを行なった二組の「三世代揃った夫婦」の一方であった和菓子店「伊勢屋」はこの後に屋号を「納屋橋饅頭」と改めて現在に至っている。現在の橋は1981年(昭和56年)に架けかえられたもので、前代のものを引き継いだ、中央部にテラスを持つ青銅鋳鉄の欄干が特徴のアーチ橋となっている。橋の下に取り付けられたアーチは無くても問題はないが、前代の面影を残すために飾りとして残された。アーチとともに外観上の特徴である欄干は前代の橋のものがそのまま使われており、堀川開削を行ったとされる福島正則にちなみ福島家の家紋が施されている。また、上流側のアーチには濁点を取った「なやはし」の文字が記されている。

納屋橋は1989年(平成元年)に名古屋市の都市景観重要建築物等に指定されている。

塩竈神社

天保6年(1835年)名古屋城築城の折り奥州国の武将、岩田藤忠公が
名古屋城築城工事安全・無病息災を祈願し
奥州一之宮鹽竈神社の御分霊を尾張国にお迎えされました。

名古屋駅より、南ほど近く、名古屋城より南南西に鹽竈(塩釜)神社はあります。
名古屋城築城以来の歴史を有し、安産・初宮詣り・七五三など広く御祈祷たまわっております。

鹽竈(塩釜)神社のさまざまなご利益
まずは海の神さま、かつては入り江が近くにありました。堀川や運河での航行安全を願い祈願されています。
また、名前由来どおり塩の神様、人間になくてはならない塩の製法を授けてくださった神様として信仰が寄せられています。
海は母なるという考えから、産業発展、延命特に安産、生育安全にはご利益があると言い伝えられています。

境内社
神明社・津島社・秋葉社・無三殿社・白龍社・稲荷社・靖霊社 7社
無三殿社(かっぱの神様)
根抜きの神様 (特に出産の折痔にならぬよう)
商売の神様 (かっぱはお客の足を引くと言われます)
子供の神様 (かっぱは子供が大好きで水泳上達)
白龍社
おもかる石 (願い込めて上げることにより占いをする)

鹽竈神社(しおがまじんじゃ・塩釜) 
〒454-0004
愛知県名古屋市中川区西日置1丁目7-10 
TEL 052-331-4025
FAX 052-331-4035
受付時間 09:00~16:00

堀川開削の理由

約400年前、名古屋台地の北端に名古屋城が築城され、その南に城下町が建設されました。江戸時代の海岸線は熱田までで、その沖合は遠浅の海が南にひろがっていました。このため大型船の停泊は難しく、輸送された荷は沖合で小型船に積み替えて熱田の浜に陸揚げされまていました。
しかし、熱田からさらに内陸部にある城下町へと荷物を大量に運搬するには船を用いるしかありません。そのため熱田の浜から名古屋城下までの物資の運搬を担う運河の開設が行われることになりました。

慶長15年(1610年)福島正則により熱田と名古屋城下を結ぶ堀川の開削が始まり、総延長約6km、川幅(約22~87m)の堀川が誕生しました。
北端は名古屋城西の幅下で、名古屋城の外堀と結ばれていました。素掘りの堀川はしばしば土砂の流入に悩まされ、浚渫などの維持は商人等の受け持ちとなっていました。

熱田大瀬子の朝市 – 尾張名所図会(イメージ着色)日置橋 – 尾張名所図会(イメージ着色)堀川には川下より、新橋(尾頭橋)、古渡橋、日置橋、納屋橋、伝馬橋、中橋、五条橋の七つの橋が架けられ、特に河口に近い尾頭橋は台風などの被害も多く、しばしば架けかえられたので新橋と呼ばれていました。

天王崎天王社 – 尾張名所図会(イメージ着色)熱田の浜、大瀬子の魚市場を北上した現在の白川庭園の付近には御船蔵が造られ軍船や御座船が収蔵されており、また木曽美林から切り出された木材を貯木する貯木場もありました。堀川をさらに北上し尾頭橋付近に来ると右手に名古屋の名景沢観音が望め、日置橋の両岸は桜見物の名所として知られていました。

御船御行列之図洲崎橋の付近には船奉行や水主という水軍関係者の屋敷が配置され、納屋橋の南の右岸には三つの蔵を持った藩の米蔵がありました。納屋橋を過ぎ五条橋にいたる両岸には商人たちの蔵が立ち並んでいました。現在でも大舟町あたりの町並みは当時の名残を残しています。

寛文3年(1663年)矢作川の下をくぐり庄内川に通じる御用水が開削され、新しい水源として名古屋城の堀に導水されました。その後の天明4年(1784年)、江川に接続されていた大幸川の川筋を変えて堀川につなぎ、庄内川から流入する御用水とともに新しい水源となりました。

庄内川からの水を引く取水口庄内川と水分橋。画面中央奥に堀川への取水口がある明治に入り黒川の開削が行われ、守山区の水分橋から北に矢田川の下を通り庄内川につながる堀川の水源が誕生しました。

明治も半ばを過ぎると名古屋港の建設が始まり、熱田沖から南に向けて浚渫作業が行われ、明治40年(1907年)名古屋港の開港により堀川は延長され現在の姿となりました。

久屋大通公園フラリエ

久屋大通庭園フラリエ(旧ランの館)
平成26年9月27日にリニューアルオープン
「花と緑に囲まれたライフスタイルガーデン」が誕生
愛称「フラリエ」は、「ふらり」+「フラワー」+「アトリエ」の造語で
「ふらりと立ち寄れる花いっぱいのアトリエ」いう意味が込められている

花や緑、水辺など、都会の自然をゆったりと楽しめる
6つのテーマガーデンを中心に
散策や、グルメ、ショッピングのほか
イベントや各種教室など、都会の中で自然を感じながら
思い思いに過ごしていただける空間を創出しています

地域のコミュニティづくりの一環として
花壇づくり、イベントなどさまざまな活動の場、交流の場となるよう
市民参加型の庭園を目指しています。
花の手入れボランティアと協働で季節に合わせた花壇を作り、ボランティア育成のために、ガーデニング講座も実施しています。

小雨降る径

小雨降る径(Il pleut sur la route)
ヘンリー・ヒンメル(Henry Himmel)作曲
シャンソンであり、タンゴとしても認知
1935年ごろか、それ以前の曲である
ドイツ人のヘンリー・ヒンメルによってタンゴの曲として作曲されたものに、後に、フランス語の歌詞がつけられた。
コンチネンタル・タンゴの代表曲として有名
ティノ・ロッシの歌唱がヒットした
日本でも、シャンソンの曲として、かつタンゴの曲として、歌われている。
1986年度NHK紅白歌合戦の菅原洋一の歌唱曲である。

藤前干潟


 渡り鳥たちの楽園、名古屋港の藤前干潟に「マイクロプラスチック」ごみの問題が浮かび上がっています。
 名古屋港の一画、潮が引きはじめると、藤前干潟が姿をあらわします。年間を通じて、たくさんの種類の渡り鳥がやってくるこの場所は、国の鳥獣保護区に指定されているほか、国際的に重要な湿地に関する条約「ラムサール条約」に登録されています。

「藤前干潟は20数年前にごみ非常事態宣言ということで、市民の皆様と一緒にごみの減量にとりくむきっかけとなった場所です」(名古屋市環境局ごみ減量部 川浦雄介主査)

 今から30年以上前、まだラムサール条約に登録される前の藤前干潟が名古屋市の新たなごみ処理施設の候補地として埋め立てられる計画がありました。

 この動きに、藤前干潟を守ろうと市民らが声をあげ、1999年、藤前干潟の埋立計画は中止に。名古屋市は、ごみの減量化に向けて動き出しごみの分別の徹底が進められたのです。
 

マイクロプラスチックが出来る過程
新たなごみ問題「マイクロプラスチック」
 そんな藤前干潟で、いま新たなごみ問題が…

「この大きな藤前干潟で、問題となっているのが小さなマイクロプラスチックです」(記者)

 マイクロプラスチックとは、5ミリ以下のプラスチックのかけらのことです。

 海や川などに捨てられたプラスチックが流れによって運ばれ、岸に漂着し、紫外線や寒暖差などで劣化。そして打ち寄せる波にさらされ、次第にマイクロプラスチックと呼ばれる小さなかけらとなります。

 藤前干潟にも、このマイクロプラスチックの粒が多く漂着しています。

 なぜ、藤前干潟に…伊勢湾の環境問題を研究している、四日市大学の千葉賢教授に聞きました。

「藤前干潟の周辺には庄内川や新川という大きな河川が流れ込み、名古屋市や岐阜県など大きな都市を流れてきている」「川に色んなプラスチックが流れ込んでいると思う」「それが藤前干潟に漂着してしまっている」「プラスチックが小さくマイクロ化すると小さな生物が体内に取り入れてしまう」(四日市大学 環境情報学部 千葉賢教授)

「動物性プランクトンですと、数十ミクロンから1ミリぐらいのものが多いけど、それよりも小さなマイクロプラスチックがあふれてくると、動物性プランクトンが体に間違えて取り入れてしまう」「食物連鎖でそれよりも大きな動物たちが次々に食べて生態系に影響が出てくる」「そういった点でマイクロプラスチックは特に問題視されている」(千葉教授)

 毒物が付着している恐れがあるため、生き物たちが誤って食べてしまうと危険を及ぼしかねないマイクロプラスチック。いったい、どれくらいの量が藤前干潟に漂着しているのか。
 

マイクロプラスチック
調査に参加した高校生「もっとたくさんあると思うと怖い」
 実態を探るべく、名古屋市が地元の高校生らとともに調査しました。

 砂などをすくってふるいにかけ、残ったごみを集めます。集めたごみを藤前干潟近くの施設に持ち帰り、その中から、マイクロプラスチックを1つ1つピンセットで取り出します。

「多すぎます。半分ぐらいの量だと思っていたら思っていたより多すぎて」「大体2000個弱あります」(参加した高校生)
「少しとっただけでこれだけの量が出るということは、もっとたくさんあるんじゃないかなと思って、ちょっとこわくなりました」(参加した高校生)

 今回の調査で、一番多く見られたのは…

「つぶれるものは全部中にもともと液体肥料が入っていて、カプセルの外側の部分なので全部拾ってください」(市の職員)
 

藤前干潟
専門家「われわれに与えられた新たな課題」
 「マイクロプラスチック」の正体は、「農業肥料のカプセル」です。

「主に稲作で使う肥料の周りのプラスチックのコーティング」「田んぼには水量が増えたときに水を抜くための水路がある」「大雨がふったときに農家のかたは水路をあけて、水を流してそのときに出てきてしまう」(千葉教授)

 水路から河川を経て、マイクロプラスチックは藤前干潟へと流れつきます。

「水田で使って1~2年後に殻だけになったカプセルが出てくるが、海岸に漂着したものを見てみるとほとんど劣化していない」「ペットボトルなどは細かくなって見えなくなるまで400~450年かかるといわれている。簡単には完全にはなくなるということにはならない」(千葉教授)

 調査に参加した高校生たちは…

「プラスチックの使用方法を考えないといけないなと思った」(参加した高校生)
「マイクロプラスチックはよくないと前から思っていたのですが、活動に参加してその気持ちがより強くなった」(参加した高校生)

 私たちの生活から生まれる小さなプラスチックが世界も認めた生き物たちの楽園をおびやかそうとしています。

「われわれに与えられた新たな課題」「単に干潟を守るだけではなく、干潟に漂着する私たちが生活で使ってきたものが干潟の生き物の邪魔をしている」「削減する対策をしなければいけない。ぼくは出来ると思うし、そういう方向に向かうことが必要」(千葉教授)

(11月18日 15:40~放送 メ~テレ『アップ!』より)