名古屋市市政資料館

本資料館の設置の目的は、「歴史資料として重要な公文書等を保存し、利用に供する等のため」とされている(名古屋市市政資料館設置条例1条)。

同条例2条1項により、本資料館は以下の事業を行うものとされている。

  1. 公文書等を収集し、整理し、および保存すること。
  2. 公文書等を閲覧その他の利用に供すること。
  3. 公文書等に関する調査研究を行うこと。
  4. 市政に関する資料の展示を行うこと。

なお、ここでいう「公文書等」は公文書館法2条の定義に拠っており、非現用の公文書が主たるものである。

また、同条例2条2項により、本資料館は、さらに次の事業を併せ行うものとされている。

  1. 重要文化財旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎を保存し、公開すること。
  2. 集会室および展示室の供用をすること。
  3. その他名古屋市長が必要と認める事業。

公文書館

閲覧室(2階南西)は、名古屋市市政資料館の中心的な機能である公文書館としての役割を果たしている。名古屋市の行政を中心とした資料を保存している。公文書等を後世に残していくための施設であり、その役割は行政が直接運営すべき重要なものである。公文書館という役割から、他にはない一次資料が多く、一般の方、学生から研究者まで利用者は幅広く学術論文、卒業論文、郷土史などの作成に利用されている。市政資料館は、名古屋市の市制施行(1889年明治22年))以降の資料を中心としている。近世文書に関しては、新修名古屋市史の編纂過程でマイクロフィルム撮影されたものの紙焼本が4千冊ほど公開されている(古文書が多数を占めており、これらの閲覧には“崩し文字”の解読能力が必要である。)。

閲覧は無料。大部分の資料は閉架で、資料保存のため、館外貸出は行っていない。一部に個人情報保護などの保護のため利用できない資料がある。資料の複写は有料で可能だが、一部に複写不可の資料もある。複写の代わりに撮影機器持参で資料を撮影することも認められている。図面などの傷みやすい資料については、資料保護のためカメラでの撮影が推奨されている。資料接写用の三脚は閲覧室に用意されている。

名古屋市内の公共・専門・大学図書館の蔵書を検索することができる「まるはち横断検索」に加わっている。

公文書

1889年(明治22年)の市制施行後の公文書(完結後一定年数が過ぎ、廃棄された行政文書のうち歴史資料として重要なもの)を中心にして、市政資料を保存・公開している(公式サイトから公文書目録のダウンロードができる)。2019年平成31年)2月末時点で1万2千以上の簿冊を公開している。鶴舞公園の名称決定や名古屋城の国宝指定などの公文書などがある。近年は、保存期間が30年の公文書が廃棄された翌年度には公開されている。

行政資料

名古屋市が発行した刊行物は市政資料館で保存されることとなっている。明治時代からの古い新聞のマイクロフィルムも収蔵している。2019年(平成31年)2月末時点で10万冊以上が閲覧可能である(公式サイトから行政資料目録のダウンロードができる)。名古屋の歴史に関する図書などは閲覧室に配置してある(開架図書の閲覧は、申し込み不要)。最も古い資料としては1871年(明治4年)発行の「名越各業獨案内」があり、現在まで存続している老舗を確認することができる。

司法展示

司法制度の資料や明治憲法下や現代の法廷陪審法廷を再現展示しているほか、司法制度に関する資料展示を行っている。2006年(平成18年)3月から名古屋高等裁判所の協力を得て裁判員制度に関する常設展示も開始した。明治憲法下から陪審制度時代、現代、裁判員制度までを展示しており、全国的にも珍しいものである。展示資料の中には名古屋城の金鯱の鱗の盗難事件の証拠物件もある。

「大地の塔」資料展示

2006年(平成18年)3月から愛・地球博の名古屋市パビリオン「大地の塔」に関する常設展示を開始した。万華鏡鏡像の動画を見ることもできる。

集会室・展示室の貸出

会議・集会・研究会・講習会および作品展示などに利用される。ただし、利用にあたっての制約事項が厳しく、申し込む際に十分な確認が必要である。特に営利目的の利用は、一切認められないとのことである。

  • 展示室 – 写真や絵画などの個展にも使用可能である。展示室の使用は、午前9時から午後5時まで。料金は部屋の大きさに応じて異なる。第1一般展示室には、大正時代のデザインのシャンデリアが2つあり、レトロな雰囲気を活かした展示が可能である。

新修名古屋市史の編纂

『市史』本文編10巻、資料編11巻が刊行済みである。資料編近代1、近世1、考古1、自然、民俗、近代2、近世2、現代、近世3、考古2、近代3が刊行されており、市政資料館の事務室で購入できる。

市政展示

名古屋市の誕生から現代までの政治・経済・産業・文化などの出来事について、所蔵資料(写真パネルや複製資料など)で市政に関する展示を行っている。名古屋市自体の歴史の系統的な展示はここだけである。名古屋市の区域がどのように拡がってきたか、どのように産業が発展してきたかなどを知ることもできる。名古屋市の歴史を知ることができるため、小中学校の総合学習での利用も多い。

建物展示

詳細は「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」を参照

建物(旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎)は重要文化財に指定されており、外観や内部を創建当時の姿に復原し、建物の保存展示、および資料展示を行なっている。なお、外観、中央階段室および復元会議室以外の内装は重要文化財の指定対象外である。

木製の窓枠は創建当時と同様の原料のペンキで塗装されており、補修のため数年ごとに塗り替えられている。

煉瓦造及び鉄筋コンクリート3階建の洋風建築で、煉瓦積みの壁に白い花崗岩の外壁を持つ。屋根小屋組は木造。内部の中央階段室はステンドグラスの窓や漆喰塗り・マーブル塗りによる仕上げが施された「ネオ・バロック様式」を基調とする。設計は司法省営繕課(工事監督)で金刺森太郎(設計監督工事主任:司法技師)が担当した。山下啓次郎(工事計画総推主任:司法技師)も関与したともいわれるが詳細は不明である。

煉瓦造としては最末期の大規模近代建築であり、現存する控訴院庁舎としては最古のものということもあって1984年昭和59年)5月21日重要文化財の指定を受けた。日本全国に8つ建設された控訴院の建物のうち、現存するのは名古屋と札幌のみである。

ステンドグラスのある中央階段室、玄関や外観は全国ネットのドラマ、地元放送局の番組などの撮影で度々使用されている。NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』では2回ロケが行われた。

  • 復原会議室(3階) – この建物の中で最も格調高い部屋で、内装を含め国の重要文化財に指定されている。約40畳の部屋に一枚織りの絨毯が敷かれている。シャンデリア、机、椅子などの調度品は、当時のものを残された資料や聞き取り調査により忠実に再現している。
  • 中央階段室 – ステンドグラスは、建築時のもので復元整備されており、日本有数のもので一見の価値がある。入館料無料で荘厳なステンドグラスを見ることのできる数少ない施設である。
  • ガラス – 大正時代からの窓ガラスが(ステンドグラスだけでなく閲覧室の南西角の窓や喫茶室の窓などにも)残っている。創建当時からのガラスには現在市販されていないものが様々残っており(歪んだガラス、模様ガラスなど)、ガラスの博物館とも言われている。
  • レンガ – 中庭の1・2階部分のレンガには、大正当時の名古屋監獄の囚人が焼いたものが残っており、ベンガラの深い色を見ることができる。
  • 留置場(1階) – 見学可能で、内部に入ることもできる。雑居房では映画のシーンに出てきそうな雰囲気を感じられる。

司法展示

司法制度の資料や明治憲法下や現代の法廷陪審法廷を再現展示しているほか、司法制度に関する資料展示を行っている。2006年(平成18年)3月から名古屋高等裁判所の協力を得て裁判員制度に関する常設展示も開始した。明治憲法下から陪審制度時代、現代、裁判員制度までを展示しており、全国的にも珍しいものである。展示資料の中には名古屋城の金鯱の鱗の盗難事件の証拠物件もある。

「大地の塔」資料展示

2006年(平成18年)3月から愛・地球博の名古屋市パビリオン「大地の塔」に関する常設展示を開始した。万華鏡鏡像の動画を見ることもできる。

集会室・展示室の貸出

会議・集会・研究会・講習会および作品展示などに利用される。ただし、利用にあたっての制約事項が厳しく、申し込む際に十分な確認が必要である。特に営利目的の利用は、一切認められないとのことである。

  • 展示室 – 写真や絵画などの個展にも使用可能である。展示室の使用は、午前9時から午後5時まで。料金は部屋の大きさに応じて異なる。第1一般展示室には、大正時代のデザインのシャンデリアが2つあり、レトロな雰囲気を活かした展示が可能である。

新修名古屋市史の編纂

『市史』本文編10巻、資料編11巻が刊行済みである。資料編近代1、近世1、考古1、自然、民俗、近代2、近世2、現代、近世3、考古2、近代3が刊行されており、市政資料館の事務室で購入できる。

サーラ・サンパウロ(Sala São Paulo)

ジュリオプレステス文化センターは、ブラジル、サンパウロ市の旧北中央地区のジュリオ プレステス駅にあり、1999 年 7 月 9 日に落成した。建物はサンパウロ州によって修復および改修された。政府は、その都市の下町活性化の一環として、 1498 席を収容できるサラ サンパウロがあり、サンパウロ州立交響楽団 ( OSESP ) の本拠地で、交響曲や室内楽の発表会場です。

アルハンブラ宮殿

アルハンブラの思い出』(スペイン語: Recuerdos de la Alhambra)は、スペインの作曲家・ギタリストのフランシスコ・タレガによるギター独奏のための性格的小品。原語の発音に近い『アランブラの思い出』という表記も多い。1896年作曲。

アルハンブラは構造的には一つの城塞都市であるが、当初から全体の形が計画されていたのではない。異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体であり、時代により、建築様式や形状などが異なっている。

その前半はムーア人王朝の栄枯盛衰と共にあり、9世紀末イベリア半島南部を版図としていた後ウマイヤ朝末期の、アルカサーバと呼ばれる砦が原形であるといわれている。これは、アラブ人が農民の反乱軍からの防御壁として築いたものである。

イスラム教徒がイベリア半島に進出する前、8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にあった。711年、ウマイヤ朝の北アフリカ総督であるムーサー・イブン・ヌサイルが武将ターリクに命じ、トレドまでを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏となった。

この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝であるが、このときの都はまだコルドバであり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。

11世紀前半、1031年の後ウマイヤ朝滅亡後にキリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタが本格化し、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世が1085年にトレドを降伏させ、後にフェルナンド3世が1236年にコルドバ、1246年にセビリアを陥れた。このレコンキスタは、イスラム圏にとってはキリスト教徒による再征服活動であり、イスラム圏に残されたのは、グラナダを中心とするアンダルシア南部地方のみとなった。

アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、このレコンキスタが進展した時期であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年 – 1492年)の時代に入ってからである。メディナ出身のデアル・アフマド家の血を引くムハンマド1世、およびその息子のムハンマド2世が60年も歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない)を造った。

その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いたユースフ1世とその息子のムハンマド5世の時代である。ユースフ1世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。

14世紀の学者イブン・ファドルッラー・(アル=)ウマリー(ابن فضل الله العمري, Ibn Faḍl Allāh al-ʿUmarī、(シハーブッディーン・(アル=)ウマリー, شهاب الدين العمري, Shihāb al-Dīn al-ʿUmarī)とも)の歴史書によると、スルタンは月曜と木曜の朝にサビーカの丘にある法廷で人々と共に座し、コーランのうちの10章や預言者ムハンマドの言行録(ハディース)の一部を朗読。宰相(ワズィール)が人民から話の聞き取りなどを行ったと伝えている。この集まりにはスルタンの親族らも参加していたという。

ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾がある)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。ライオンの中庭は、長さ28メートル、幅16メートルで、庭を囲む4つの建物には124本の大理石円柱が立ち並んでいる。中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族を描いた絵画がある。これは、初代のムハンマド1世から十代のアブー・サイードまでのナスル朝スルタンであるという説と、重臣が法廷を開いている場面であるという説があり、後者の説に基づき、「裁きの広間」とも呼ばれている。

ムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。1492年1月2日、カトリックのレコンキスタによってグラナダが陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わった。グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、カルロス5世がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を建設。

当時イタリア留学であったペドロ・マチューカが、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。スペインは、この地を1718年まで城代に管理を任せていたが、カルロス1世(カール5世)の時代に入ると、この宮殿を自らの帝国の支配の中心地にする考えを持っていたと言われており、いくつかの改築が行われている。カルロス5世の噴水や、カルロス5世の宮殿の建設が始まり(宮殿は完成することはなかった)、モスクは教会へ変えられ、礼拝堂や修道院が建築されている。

現在のスペイン国家は、公式にはレコンキスタの過程でイスラム的な文化を払拭(カトリック教会側から見れば浄化)して建てられたカトリック教国であるが、現代にアルハンブラ宮殿が残されていることからも、民衆がこの宮殿の文化的価値を肯定したとも推察され、この要塞の様式がパティオなどの建築文化に与えた影響も窺える。また、スペインを訪れるイスラム教徒たちは、このアルハンブラを他の誰にも増して特別な気持ちで見るという。

彼等にとってアルハンブラはイスラム=スペイン(アル=アンダルス)の象徴であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおスペインに残った輝かしい遺産なのである。アルハンブラ宮殿は、栄枯盛衰を経てもなお破壊されることなく残され、現在スペイン屈指の世界遺産となり世界中からの観光客が訪れる名所となっている。

レコンキスタ(スペイン語: Reconquista)718年から1492年までに行われた複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。イスラム教に奪われた土地を再度キリスト教の土地に取り返す(リ・コンクエスト)運動。レコンキスタの結果、グラナダはキリスト教国家の支配下に置かれることになり、アルハンブラ宮殿もキリスト教式に改変の手が加えられた。

1984年にブエノスアイレスで行われた第8回世界遺産委員会で、ヘネラリーフェ離宮、アルバイシン地区と共に世界遺産に登録された。 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。天井に施された彫刻は、いわゆるムカルナスと呼ばれる形式の鍾乳石飾りの天井装飾である。数種類のみの基本となるタイルを組み合わせる事によって、蜘蛛の巣状のモチーフを立体的に表現する技法になっており、イランのニーシャープールやエジプトのフスタートなど東方で発祥・発展したものがイベリア半島まで移入してきたものである。柱や壁の彫刻の中には女王が残したメッセージが隠されている。宮殿内に敷き詰められたタイルは一枚一枚当時の職人によって作られたものである。円、四角形、複数の線を組み合わせて造形された独特な八角形のタイルは互いにぴったりと敷き詰めることができる精巧な作りであった。一方、柱に描かれた鮮やかなタイルアートは一枚一枚のタイルが全て異なる形、大きさになっており、違う場所にはめ込むことはできない。複数ぴったりと合わさる八角形のタイルとは正反対だ。これらのアートは雨や水を象徴して描かれたものだ。劣化が見られる箇所は現在修復作業が行われている。

バウネアーリオ・コンボリウー(Balneário Camboriú)

バウネアーリオ・コンボリウ-
市名の由来は誰もわかっていないが、市史によると「ロバロ(この地方で最もよくみられる魚種のひとつであるアカメ)でいっぱいの川」という意味だとされる。


市内にはリオデジャネイロのキリスト像と同型のキリスト像(ラズのキリスト像)がシンボルにもなっており、夜間にはライトアップされる。


ラランジェイラス・ビーチには17世紀の海賊船を模した観光船が周遊しており、バウネアーリオ港を往復する。

2012年、バウネアーリオ・コンボリウーは電子音楽の中心都市としてもフォーブス誌によって評価された。

市内には2つの有名なクラブハウスがあり、一つが”Warung Crub”、もうひとつが”the Green Valley Crub”である。

2012年にはthe Space B. Camboriúという有名なナイトクラブも開業した。市内には超高層のリゾートホテル、高級マンションが林立し、「ブラジルのドバイ」の異名を持つほど発展が著しく、海外からも多くの観光客が訪れる。

フランス、ノルマンディー地方オンフルール (Honfleur)

街は、1027年のノルマンディー侯のリシャール3世の文書に最初に登場する。12世紀の中頃まで、街はルーアンからイングランドへ商品を運ぶための重要な中継地点であった。安全な港と広い後背地を持つセーヌ川の三角州に位置して、百年戦争の開始以来、街は戦略上重要な場所であった。

シャルル5世によって、イングランドの攻撃からセーヌ川の三角州地帯を守るため、街の防御は強化された。これはアルフルールの港によって後押しされた。しかし、1357年と1419年から1450年の間、イングランドの占領を受けた。フランス支配下時代、しばしば襲撃隊が、イギリスの海岸より略奪を行うために港から出帆した。1450年代にケント州のサンドウィッチの破壊事件も一部これに含まれている。

百年戦争時、街は海上貿易の恩恵により潤い、18世紀末まで続いた。16世紀の地域紛争の間、貿易は阻害された。港は数多くの探検者の出発地でもあった。特に1503年のビノ・ポーリミエ・ド・ゴンヌヴィルはブラジルに辿り着いた。1608年、サミュエル・ド・シャンプランによって組織された探検隊は、カナダのケベックの街を築いた。

1608年以降、街はカナダ、アンティル諸島、アフリカの海岸、アゾレス諸島との貿易により、繁栄した。結果として、街はフランスの5大奴隷貿易港の1つとなった。この時期、街の急速な発展の結果、ジャン=バティスト・コルベールの命令で、街の要塞が壊されることとなった。

フランス革命とフランス第一帝政、特に大陸封鎖下の時代、街は廃墟となった。19世紀に北欧からの木材貿易により部分的に復興しただけである。しかし、貿易は港の入り口が浅くなることと近代的なル・アーヴル港の発展により限界があった。しかし今日も港は機能している。

ハーモニー・オブ・ザ・シーズ Harmony of the Seas

史上最大級22万トンクラスのハーモニー・オブ・ザ・シーズ。乗員乗客合わせ最大8000名以上も乗船できる巨大な船内には「7つの街」が登場。

アミューズメントパーク顔負けの多彩なアトラクション、3つの巨大シアターで繰り広げられる、本場アメリカならではのハイクオリティなエンターテイメントショー、40以上もの飲食店から選択できるバラエティに富んだグルメのチョイスなど。

街の中央には季節の花々が咲き誇る「セントラルパーク」、回転木馬のある3世代が楽しめる昔なつかしい遊園地「ボードウォーク」、水がテーマの円形劇場「アクアシアター」など革新的な施設が満載。

トニー賞受賞のブロードウェイミュージカル「グリース」の上演など、お客様を楽しませるサービスも満載です。ハーモニー・オブ・ザ・シーズではロボットバーテンダーが軽快にシェイカーを振る「バイオニックバー」や、10デッキ分の高さを急降下するスライダー「アルティメットアビス」が登場。前代未聞のスケールを体感してください。

ウィーンの旧市街 高級食品スーパー「ユリウス・マインル」

マインルの正面玄関入ってすぐの場所に、テイクアウトの惣菜コーナーMeinl To Goがあります。

サンドイッチ、サラダやパスタの他、日替わりのランチメニューはスープにメイン、そしてデザートまで数種類から選べる充実した内容です。

スーパーの会計とは別で、ここだけで清算します。


すぐに食べられるように、ちょっとしたカウンターテーブルもあります。

鶴舞公園 夜桜 2024

オルトン・グレン・ミラー

(Alton Glenn Miller、1904年3月1日 – 1944年12月15日)はアメリカのジャズミュージシャン(トロンボーン奏者、作曲家、アレンジャー、バンドリーダー)。グレン・ミラー楽団を結成した。

基本情報
出生名Alton Glenn Miller
生誕1904年3月1日
出身地アメリカ合衆国 アイオワ州クラリンダ
死没1944年12月15日(40歳)イギリス海峡上空
ジャンルスウィングジャズ
職業作曲家編曲家
バンドリーダー担当楽器トロンボーン活動期間1923年 – 1944年レーベルブルーバード
ビクター
コロンビア
ブランズウィック

カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン等と共にスウィングジャズ、ビッグ・バンド・ジャズを代表するバンドリーダー、演奏家に挙げられている。

プロフィール

アイオワ州クラリンダ生まれのドイツ系アメリカ人。1915年に家族と移住したミズーリ州グラントシティでトロンボーンを始め、地元のオーケストラで演奏を始める。やがて1923年にコロラド大学ボルダー校に進学するもほとんど行かずに中退、ニューヨークにてプロのトロンボーン奏者として音楽の道に進むが、売れずに目立たない時代が続いた。やがてトミー・ドーシーやベニー・グッドマン、レッド・ニコルズ(英語版)などの音楽家と親交を結び、1937年に自己の楽団「グレン・ミラー楽団」を結成後、1938年にRCA傘下のブルーバード・レコードと契約、翌1939年から「ムーンライト・セレナーデ」「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」「チャタヌーガ・チュー・チュー」など次々とヒット曲を発表し、バンドリーダー、作曲家、編曲家として人気を博した。

ビルボードのジュークボックス・チャートにおいて「イン・ザ・ムード」(12週連続1位、通算13週1位)「タキシード・ジャンクション(英語版)」(9週連続1位)「ウッドペッカー・ソング(英語版)」(5週連続1位)の3曲で26週連続1位(1940年2月10日付〜8月3日付)を達成した。1941年に録音された「チャタヌーガ・チュー・チュー」は、同バンドが出演した映画『銀嶺セレナーデ(英語版)』の主題歌であり、レコードはおよそ120万枚販売された。これを記念して1942年にRCAレコードからゴールドディスクが授与され、これがゴールドディスク第1号とされる。

第二次世界大戦の勃発にともない1942年に陸軍航空軍に入隊、慰問楽団を率いて演奏にまわった。国内外ツアー他、米国慰問協会で演奏した。ミラーは精力的に慰問演奏を続けていたが、大戦末期の1944年12月15日にイギリスからフランスへ慰問演奏に飛び立った後、乗っていた専用機(UC-64)がイギリス海峡上で消息を絶った(最終階級は少佐)。原因として、ドイツへの爆撃から帰還する途中のイギリス空軍の爆撃機が上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落したとする説の他、イギリス軍機の誤射で撃墜されたとする説などがある。2014年に『シカゴ・トリビューン』は、消息を絶った原因として、乗機のUC-64に特有の故障によるものとする説を挙げた。それによるとミラーの搭乗したタイプのUC-64は、エンジンのキャブレターに欠陥があり、冬期に凍結することにより故障し、墜落する事例が他にも複数発生していたという。また、前述の爆撃機が投棄した爆弾が命中したという説は、当時の飛行記録によるとミラーの乗機と同時期に航路を飛んでいた航空機や付近で爆弾を投棄したという記述がないことから可能性が低いともしている。

行方不明後も残された楽団員がリーダーとなり、グレン・ミラー・オーケストラ(英語版)として、現在まで世界各地で活動している。

主な演奏曲編集
ムーンライト・セレナーデ(Moonlight Serenade)
イン・ザ・ムード(In The Mood)
アメリカン・パトロール(American Patrol) – 編曲
チャタヌーガ・チュー・チュー(Chattanooga Choo Choo) – 世界初のゴールドディスク授与曲
タキシード・ジャンクション(英語版)(Tuxedo Junction)
茶色の小瓶(Little Brown Jug)
真珠の首飾り(英語版)(String of Pearls)
ペンシルベニア6-5000(英語版)(Pennsylvania 6-5000)
虹の彼方に(Over The Rainbow)
ムーンライト・カクテル(英語版)(moonlight cocktail)
カラマズーの娘(英語版)(I’ve got a Gal in Kalamazoo)

京都 祇園 白川桜 2024

祇園四条駅から徒歩1分、京都河原町駅から徒歩3分と、交通の便が良い。巽橋や辰巳大明神といった有名な観光スポットが多数ある
そぞろ歩く芸舞妓さんを見かけることも。

祇園は京都を代表する花街で、かつて祇園社と呼ばれていた八坂神社の門前町であったことから付けられた名称。その中を流れる白川に架けられているのが巽橋。

京都の昔ながらの町家だけでなく、白川沿いの美しい自然の景観も祇園白川の見どころ。 春には桜で彩られ夜はライトアップも楽しめる、人気の花見スポットにななる。 お茶屋の建物に色を添える満開のソメイヨシノやしだれ桜は、優美な雰囲気たっぷり。穏やかに流れる白川にはらはらと舞い散る桜の花びらは雪のよう。

名古屋 栄 MIRAI TOWER 界隈

『シェルブールの雨傘』は、ジャック・ドゥミが脚本・監督した1964年のフランス・西ドイツ合作の恋愛映画。ミシェル・ルグランが音楽を担当したミュージカル映画である。この映画の会話は、何気ない会話も含めて完全にレチタティーヴォとして歌われている。第17回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。 

公開日: 1964年10月4日 (日本)
監督: ジャック・ドゥミ
衣装デザイン: ジャクリーヌ・モロー
音楽: ミシェル・ルグラン
製作: マグ・ボダール

ストーリー

第一部 旅立ち 1957年11月-アルジェリア戦争ただ中のフランス。港町シェルブールに住む20歳の自動車整備工ギイと17歳のジュヌヴィエーヴは結婚を誓い合った恋人同士。ギイは病身の伯母エリーズと、ジュヌヴィエーヴはシェルブール雨傘店を営む母エムリ夫人と暮らしている。エムリ夫人は2人が若過ぎる事を理由に結婚に反対するが、2人は将来生まれて来る子供の名前(女の子だったらフランソワーズ)を考えたり、自分たちのガソリンスタンドを持つ夢を語り合ったりと、幸福な恋愛を謳歌していた。そんなある日、エムリ夫人に莫大な額の納税通知書が届く。切羽詰まっていたエムリ夫人は、娘に説得され、大切なネックレスを売る決心をして、娘を連れて宝石店へ行った。店主との交渉はうまく進まなかったが、たまたま居合わせた宝石商ローラン・カサールが、その場でネックレスを購入してくれた。やがてギイに召集令状が届き、アルジェリア戦争において2年間の兵役をつとめることになった。尽きる事無く別れを惜しむギイとジュヌヴィエーヴ。その夜、2人は結ばれた。ギイは幼馴染みのマドレーヌに伯母の世話を頼み、ジュヌヴィエーヴと永遠の愛を誓い合って、シェルブール駅で別れを告げ入営する。

第二部 不在 1958年1月-ある日、エムリ夫人は町でカサールと出会い、食事に招待する。妊娠していることを知ったジュヌヴィエーヴは、ギイからほとんど手紙が来ないことを不安に感じていた。ジュヌヴィエーヴが気分が悪いと休んだ後、エムリ夫人に引き止められたカサールは、ジュヌヴィエーヴに結婚を申し込むつもりだったことを打ち明ける。ジュヌヴィエーヴに出会い、カサールは失っていた人生の目標を見つけることができたのだった。決めるのは本人なので、押しつけないように頼み、カサールはまた旅に出る。手紙で妊娠を知ったギイからは、2月に「男の子だったら名前はフランソワ」と喜びの返事が届く。だが、ギイを待ち続けていたジュヌヴィエーヴは、次第にカサールに心を開き、子どもを一緒に育てようという求婚を受け入れる。結婚からしばらくして、エムリ夫人も店を処分し、娘が住むパリへと移住する。

第三部 帰還 1959年3月-足を負傷し除隊となって帰郷したギイはシェルブール雨傘店を訪れるが、店は所有者が変わっていた。ジュヌヴィエーヴの結婚と移住を聞かされたギイは自暴自棄となり、復職した整備工場も些細なトラブルで退職して酒と娼婦に溺れる。朝帰りした彼を待っていたのは伯母エリーズの死の報せだった。ギイは出て行こうとするマドレーヌに「僕の力になってほしい。行かないでくれ。」と頼み、マドレーヌはとりあえず出て行くのをやめる。ギイは、マドレーヌに「仕事をしない今のあなたは大嫌い」と言われて一念発起し、伯母の遺産でガソリンスタンドを始めることに決めた。立ち直ったギイに、マドレーヌも心を開き、結婚する。

エピローグ 1963年12月-ある雪の夜、妻マドレーヌと息子フランソワがクリスマスの買い物に出ていった後、一台の車がギイのガソリンスタンドに給油に訪れる。運転席にはジュヌヴィエーヴが、助手席には3,4才くらいの女の子が乗っている。入営の日、シェルブール駅で別れて以来の再会だった。事務所で短く言葉を交わす2人。金持ちそうな毛皮のコートに身を包むジュヌヴィエーヴ。娘の名はフランソワーズだと告げ、「会ってみる?」とギイに聞くが、彼は無言で首を振り、互いの幸せを確認し合うと「給油が終わったようだ」と言う。ジュヌヴィエーヴの車が去って行くのと入れ替わりにマドレーヌとフランソワが帰ってくる。すると、ギイは気持ちを切り替え、2人の帰りを大はしゃぎで迎える。ガラス窓のカーテンが家族3人で幸せに楽しく過ごす様子を映し出す。

登場人物

ジュヌヴィエーヴ・エムリ (Geneviève Emery)演技:カトリーヌ・ドヌーヴ歌:ダニエル・リカーリ

ギイ・フーシェ (Guy Foucher)演技:ニーノ・カステルヌオーヴォ歌:ジョゼ・バルテル (José Bartel)

エムリ夫人 (Madame Emery)演技:アンヌ・ヴェルノン (Anne Vernon)歌:クリスチアーヌ・ルグラン (Christiane Legrand)

エリーズおば (Tante Élise)演技:ミレーユ・ペレー (Mireille Perrey)歌:クレール・レクレール (Claire Leclerc)

ローラン・カサール (Roland Cassard)演技:マルク・ミシェル (Marc Michel)歌:ジョルジュ・ブランヌ (Georges Blanes)

マドレーヌ (Madeleine)演技:エレン・ファルナー (Ellen Farner)歌:クローディヌ・ムニエル (Claudine Meunier)